ビターシロップ

ゆりすみれ

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“真昼の悪夢”

6-1 麻薬なんかじゃない

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 琉架が刺された。

 あんなに夜道の背後を警戒して生きていたのに、真っ昼間に正面から脇腹をペティナイフで刺された。

 犯人は、シンだった。





 運び込まれた病院で処置を受け、琉架は病室で眠っていた。その少し青白く生気の抜けた顔を、それ以上の蒼白なひどい顔で和唯がのぞき込む。病室にあった丸椅子を引きずってきて琉架の顔のすぐそばに置き、少しも離れたくないとそこを陣取って座った和唯は、ここに来てからもうずっと琉架の名を呼び続けていた。つぶやくように、心許なく、くり返す。

「琉架さん、起きてください……」

 和唯の冷や汗と動悸は止まらなかった。人生でこんなにも動揺することがあるなんて知らなかった。息を吸うのも時々うまくできなくなって、脳に酸素が行き届いていないような感覚がずっと続いている。

「琉架さーん、ねぇ、起きて……」

 琉架をしつこく起こす光景に覚えがあって、そういえばまだ同居を始めたばかりの頃、美容院に行くから朝起こせと言われてこんな風に何度も呼んだなと、和唯がぼんやりと思い出す。あのときは確か。

「……琉架さん、起きないと勝手にキスしますよ」

 そう耳元でささやいたら、耳に息がかかって驚いた琉架はぱちっと目を開けてくれたはずだった。今は耳に息を吹きかけても、まだ眠ったままだ。

「許可ないと、琉架さんにキスできないよ……あなたがそう決めたんだよ……」

 和唯は顔をぐちゃぐちゃに歪ませて、泣きそうになっているのを必死にこらえる。

「許可してよ……舐めていいって、キスしていいって早く言ってよ、……琉架さん」

 まだ返事をくれない静かな琉架を呆然と見つめながら、和唯はどうしてこんなことになったのかを必死にたどろうとした。たった数時間前には、琉架はいつもの愛くるしい笑顔で家にいたのに。

 どうして、こんなことに……どうして──。

「……っ、全部、俺のせいだ……」

 太腿ふとももに置いた拳を爪が食い込むほど固く握りしめ、考える。動揺と怒りに支配されている頭の中をどうにか整理するために、和唯は思い出したくない真昼の悪夢をゆっくりと脳裏に呼び戻した。





 たった数時間前のことだった。

『和唯ー、コンビニ行こ』

 桜の季節になった。世間は新しいはじまりに何かと浮き足立つ時期だが、変わらない日常を過ごしている琉架と和唯にとって季節の変化はあまり重要ではなかった。冬物以外の洋服を実家に送っていた和唯はそろそろ一回実家に荷物を取りに帰るかと呑気に考えるくらいで、生ぬるくて、ずるくて、やさしい世界に相変わらず身を置いている。あと少し、もう少しをくり返して延長していけば、このままずっと一緒にいられるのではないかと、和唯は錯覚さえした。

『琉架さんコンビニも一人で行けないんですか?』

 キッチンで昼食の後片付けをしていた和唯は、泡のついた茶碗を丁寧にすすぎながら琉架に訊いた。

『ちげぇよ。今からおじさんとこの売り上げ貢献しに行こっかなって。めちゃくちゃ買うから、おまえ荷物持ちな』

 対面キッチンで洗い物をしている和唯の向かいに、着替えを済ませた琉架がひょこっと顔を出し、ほがらかに笑って同居人を誘う。目を引く鮮やかな色の服を着ることが多い琉架が、今日は珍しくシンプルな白いシャツに、色味の違うオフホワイトのボトムスとライトグレーのゆるっとしたカーディガンを合わせていて、その春らしい爽やかな装いに思わず和唯は洗い物の手を止めて見惚れてしまった。琉架さん白もよく似合うねと、口に出すのは少し照れくさくて心の中だけでそっと褒める。

『え、またあれやるんですか……また飲み物ばっかはきついですよ、腕ちぎれる……』

『そ、だからおまえの腕が二本欲しいの。行くだろ?』

『はぁ、まぁ、行きますけど……』

 あのコンビニ店主のことは和唯も気に入っているので、売り上げ貢献には賛成だった。

『ついでに帰り、公園寄って花見しよ。ビールとつまみ買ってってさ』

『琉架さん結局それがしたいだけなんじゃ』

『バレたか。日本人はみんな桜大好きなんだからしょうがねぇじゃん、飲むの付き合えよ』

 そんな愛らしい澄んだ瞳で無邪気に誘われては、付き合わないわけにはいかない。酒の味はしなくなってしまったが酔うことはできるので、和唯は琉架の酒に付き合うのは結構好きだった。

『帰りに花見してくるなら俺ここの後片付け終わらせときたいんで、琉架さん先に行って買うもの選んでてください。荷物持ちの時間には余裕で間に合うと思うので』

『ん、じゃあ向こうで待ってるわ。おじさんいるかなー』

 そう言って、琉架は先に出て行った。残った和唯は洗い物を早く終わらせようと、急いで手の中のスポンジに洗剤を足す。

 満開の桜の下で琉架と缶ビールを開けたらどんなに幸せだろうと、和唯はそのあまやかな光景に思いを馳せた。





 残りの後片付けは10分も掛からなかった。和唯は外に出られる服に手早く着替えて、スマホと鍵だけをポケットに入れて部屋を出る。空は雲ひとつないすっきりとした晴天で、青い天井はどこまでも高く果てしなく感じた。この信じられないほど真っ青な空を背景に薄桃色の桜を撮ったら映えるだろうなと、普段スマホで写真なんてほとんど撮らない和唯が浮かれる。琉架と近所の公園に行くだけなのに、世界の美しさに感謝したくなる。

 やさしい店主がいるコンビニが、遠く右手側に見えてきた。大きな通りからはだいぶ外れている場所なので、今日のような平日の昼間はとても閑静な道だ。和唯以外、誰も歩いていない。

 目的地に近づくと、コンビニより少し手前の道端で、しゃがんでいる人の後ろ姿が見えた。ほとんど白に近い金に染めた短髪が特徴的な男性で、黒い服の背を丸めるようにして道でうずくまっている。歩いている途中で具合でも悪くなったのかと気になり、和唯はその金髪の男の背に小走りで駆け寄った。

『──っ!?』

 咄嗟に声は出なかった。目の前に広がる理解の範疇はんちゅうを超えた光景に、脳の情報処理機能がエラーを起こしたようだった。脳が指令をうまく出せずに、からだが止まる。かろうじて、視覚だけが有効だった。

 男の背中側から確認すると、うずくまるようにしていた金髪の男に隠れて、よく知った男がぐったりと丸くなって倒れているのが見えた。まちがえようがない。琉架だった。

 さっき見惚れたばかりの琉架によく似合う白いシャツに、鮮血がべったりと染みている。金髪の男は左手に血のついた小さなナイフを持ったまま、右手で琉架のシャツの裾をめくり、脇腹に顔を寄せていた。

『……ルカ……、やっぱりおまえがいちばんあまいよ……この世界でボクを充たすのはおまえしかいないよ……』

 ぼそぼそと琉架の脇腹に向かって男がつぶやいている。琉架の脇腹は血でたっぷりと濡れていた。金髪の男は、琉架の血で汚れた腹を夢中で舐めている。

 ──こいつ、フォーク!

『──琉架さんっ!!』

 やっと声が出て、からだも一緒に動いた。和唯は琉架に覆い被さるようにしていた男の肩を後ろから思いっきり掴み、力の限りで引き剥がした。肩を鷲掴わしづかみにしたまま男の顔を自分の方に向け、右手の拳を構える。金髪の男の狂気に染まった目が、和唯をぎろっと睨む。そのまま噛みついてきそうな男の頬を、和唯はためらいなく殴った。

『おまえ何してんだよっ!!』

 殴られた男は衝撃にふらっとして少し足元を覚束おぼつかなくさせたが、すぐに体勢を立て直し、持っていたナイフを今度は和唯に向けた。青白い不健康そうな肌の色に反して、喧嘩慣れしているような余裕が男にはあった。

『おいおい……高尚なフォークの食事を邪魔するなんて無粋だな……ゆっくり味わわせてくれよ……せっかくこんなにも血を出してやったのにさ、固まったらまた刺してやらなきゃいけなくなるだろ……そんなのルカがとっても可哀想だよ……』

 琉架の血がついたナイフは、和唯の胸のすぐそばで構えられていた。正気ではない金髪の男はうつろな眼で、くすくす笑って和唯を見ている。次に和唯が動いたら、ナイフはまっすぐに胸の中に押し込まれそうだった。

『──っ、おまえ!!』

 倒れている琉架に駆け寄れない和唯が、男を激しく睨みつけて怒声を上げる。

『……シ、ンさん……、かずい、は……だめ……』

『──! 琉架さんっ!』

 地面の方からか細い声が途切れ途切れに聞こえてきて、和唯が琉架を呼ぶ。なんとか声が出せる状況だと知って、和唯が少しだけほっとした。それでも一刻も早く琉架の手当てをしなければと焦るが、心臓を狙うナイフの切っ先は、和唯の前から下ろされることはない。

『……、かずい、いいから……にげ、ろ……』

『……あぁ、おまえが、“カズイ”? ……そうそう、そうだった……前にルカと一緒にいるとこコンビニで見かけたよ。おまえが、ルカの……』

 シンは納得したように、ナイフを突きつけている対象を値踏みするように見た。愉快そうに頭のてっぺんから足の先までを舐めるように見て、また笑う。

『これがルカのお気に入り? こいつは良くて、ボクはダメなの? お金ならいくらでも払うって言ってるのになぁ……本当に、馬鹿なルカ』

 シンの言葉から、シンが琉架の客だろうということは想像できた。

『ルカはこんな冴えない男のどこがいいの? ……あ、セックスがめちゃくちゃうまいのかな?』

『──っ、おまえ! いい加減にしろ!』

 気狂いの戯言たわごとに付き合っている暇はないと、和唯が吠える。

『カズイ、おまえもどうせフォークなんだろ』

『!?』

『……どうやってルカに取り入った? 取り入って、ルカとやりまくって、セーエキ飲みまくってんだろ!?』

 くすくすと笑っていたはずのシンは、もう笑っていなかった。ぎろりと敵意を狂気の目に宿し、眼前の憎いものを追い詰めようと畳みかける。

『……おまえのせいなんだろ? なぁ!』

 ナイフを突きつけたままシンが和唯に顔を寄せ、ねっとりと身勝手な怒りを押しつけた。

『おまえが血を売るのやめろって言ったんだろ!?』

『──!?』

 ──血を売るのを、やめ、……?

 知らない事実に、和唯の心臓がどくんと揺れた。

『ルカに訊いたんだよ、なんで急に血売るのやめたの? って。……そしたら、傷がつくのを嫌がるやつがいるからって……傷モノにされると食わなくなるやつがいるからって……それ、おまえなんだろ!!』

 ──!? 俺があのとき、余計なこと、言ったから……?

『おかげでボクは人生の楽しみを奪われたよ……ケーキの……ルカの血を舐めることがボクの生き甲斐だったのにさ……売ってくれないなら、もうこうやって奪うしかないよね? 全部、おまえのせいだよ。おまえがルカをこんな姿にしたんだよ』

 ──全部、俺の、せい……?

 シンの下で横向きにうずくまっている琉架を見る。さっきよりも白いシャツやオフホワイトのボトムスに血の染みが広がっているように見えて、和唯はただ焦る。さっきは声が聞こえたのに、逃げろと言われてから声もしていない。小さく上下する背で呼吸があるのは確認できるが、気を失っているかもしれない。

『あーぁ、本当に馬鹿なケーキだよ。食われることしか脳がない、下賤げせんな娼夫のくせに』

『おい……いい加減にしろよ……』

 和唯の元々低い声が、更に低く重く落ちた。狂ったフォークに好きな人をけなされて、怒りの針が振り切れる。

『はははっ、……ふふっ、ははっ……ルカは麻薬だよ! みじめなフォークを次々に狂わせるんだ。おまえもそうなんだろ、なぁカズイ? おまえもルカに醜く依存してるだけだろう? みんなルカを舐めて、クスリ吸ったみたいに飛びたいだけさ。あははっ、……中毒性の高いあの味は、一度知ったらもうやめらんないよなぁ!!』

『──!!』

 ──麻薬だと?

 琉架さんのあまさは確かに凶暴で、気をしっかり持っていないと飲み込まれそうになるほど強く激しいけれど、流し込んでくれる唾液はいつもあたたかくて、やさしさに満ちていて、失敗ばかりの俺を何度も何度も救ってくれた。味の存在しない無色透明な世界に気まぐれで放り込まれて、すべてをなくして墜落していた俺を、嫌な顔ひとつせず天然のお人好しで無邪気に引っ張り上げてくれた。

 琉架さんは、まぶしくて、キラキラしてて、心が強くて、素直じゃないところもいとしくて、美しくて、頼りになって、かわいくて、俺のかけがえのない宝物で。

 ……おまえは琉架さんの何を知ってるっていうんだ。琉架さんを否定するな。琉架さんを見下すな。琉架さんをそんな違法の、下劣なものと一緒にするな。琉架さんは、……琉架さんは。

『麻薬なんかじゃない』

 ──琉架さんは俺の、光。

 たとえこのまま刺されたとしても、もう怖くはなかった。琉架をさげすまれて黙っている方がよっぽど痛い。和唯はシンが握っているペティナイフの柄を、シンの手の上から思いきり掴んだ。刺そうとしてくるシンの力にあらがって、ぐっと下の方向に力づくで押さえ込む。

『おまえみたいなフォークがいるから! 琉架さんは!』

 いつも、どこか引け目を感じて生きているような人だった。あまいことを誇りながらも、あまいことに苦しみ、自分をいつもいやしいもののように扱う人だった。そんな風に思わなくてもいいのにと、いつも教えてやりたかった。あなたのあまさは人を救うものだよと、少なくとも俺は救われたんだよと。

『……っ!!』

 均衡していた力が崩れ、シンがナイフをカランと落とした。元々本当に薬物でもやっていたのかシンのからだはボロボロのようで、和唯に負けてももう何もしようとしてこなかった。落ちたナイフを、すばやく和唯が拾い上げる。拾い上げた血のついたペティナイフをシンにかざすように見せ、和唯が凄んだ。

『この刃物は、人を刺すためのものじゃない。おまえみたいなやつが扱っていい道具じゃない』

 これは、人を笑顔にするおいしいごはんを作るための。

『……俺の誇り、けがすなよ』

 和唯はそう吐き捨てると、シンを荒々しく押し退けて、地面にうずくまっている琉架に駆け寄った。

『琉架さん!!』

 手にしていたナイフを捨て、慌ててしゃがみ、琉架の頭の下に腕を入れて抱き上げる。地面につけた両膝の上に頭をのせ、きつく抱きしめた。

『琉架さん……ごめんね、……ごめんなさい……琉架さん……』

 和唯は琉架を支えながらポケットからスマホを取り出そうとするが、手が震えてしまってうまくいかない。ここに来て大量の冷や汗が一気に吹き出す。

『……誰か、誰か……救急車……琉架さん死んじゃう……』

 膝の上でぐったりとしている琉架に和唯の頼りない声が落ちたとき、前方から聞き覚えのある声がした。

『……琉架、ちゃん? ……琉架ちゃんなのかい!?』

 騒がしい外の異変に気づいたコンビニ店主が出てきてくれたようで、ひどく驚きながらも冷静に状況を把握し、大山くん救急車! 救急車と、あと警察も呼んで! 早く! とコンビニの中にいるスタッフに大声で指示を出してくれた。

 しばらくしてサイレンの音が遠くから聞こえた。脱力して地面に座っていた無抵抗のシンは警察に連れていかれ、気を失っていた琉架は救急車に乗せられた。





「……琉架さん、起きてよ。花見するんじゃなかったんですか? あなたが行こうって言ったんですよ」

 長いまつげを下ろしたままの琉架に、和唯は話しかけ続ける。

「花見、早く行きましょう? 俺、今日は映える写真撮ろうと思ってて。琉架さんそういうの得意ですよね? 撮り方教えてくださいよ」

 何を話しかけても返事は返ってこない。眠っているだけだとわかってはいるが、和唯は怖くてたまらなかった。

 太腿に置いた右手の甲を見ると、少し赤くれていた。無我夢中だったので詳細をよく覚えていなかったが、初めて人を殴った感覚に和唯は打ちのめされていた。悪を撃退するために振るった拳は、そのまま同じ痛みで自分の頬へと跳ね返ってくる。

 もう二度と琉架が血を流すようなことがあってはいけないと、琉架が傷つけられないように守りたいと、誓ったばかりだったのに。こんなにもそばにいたのに、また、血を──。

「琉架さん、……ごめんなさい、俺のせいだ……」

 和唯はうつむき、また太腿の上に置いた拳をぼんやりと眺める。本当に何ひとつ満足にできない自分を、今度こそ琉架は見捨てるだろうと思って哀しみに眼を閉じたとき、ふわっとサイドの髪が揺れた気がした。

 驚いて目を開けると、琉架が目を覚まし、こちらに手を伸ばしている。和唯の髪に、やさしく触れていた。

「……和唯」

 琉架は目の前の男をゆっくりとそう呼び、いつもの奔放ほんぽうで愛らしい笑みを浮かべて和唯を見る。

「──っ、……琉架さんっ!」

 和唯は瞳を限界まで潤ませて、今日一体何度呼んだかわからない大事な人の名を、もう一度大切に呼んだ。        
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