サクラ・エンゲージ

ゆりすみれ

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 桜助が紘夢を手に入れた日、外は朝から細い雨が降り続いていた。

『……先生、好き』

 おくするということをまだ知らない16になったばかりの少年は、目の前にいる担任教師に向けて、このくすぶる気持ちを表すのにこれ以上的確なものはないという確信を持って、とてもシンプルな二文字を堂々と告げた。

『うん、知ってる。前にも聞いたよ』

 告白をされている当の教師は、手元の本に視線を落としたまま、なんてことないようにあっさりと受け答える。桜助の前に座っている紘夢は、授業の参考資料にしている世界史の本を改めて読み返していた。

『何回でも言うし。先生が好き。……俺と付き合ってよ』

 入学式の翌日に中庭の桜木の下で言葉を交わしてから、桜助は光の速さで紘夢に落ちた。すぐに自覚し、溢れる想いを持て余した16にしてはずいぶんと大人びた容姿のその少年が、27の童顔教師に思いの丈をぶつけるのにほとんど時間は掛からなかった。

 この告白がもう何度目かも、もう二人ともよくわかっていない。桜助は紘夢と二人きりになるたびに、欲しい欲しいと紘夢をねだった。

『何回言ってくれても、だめ。それは無理だよ』

 活字を追いかけるのをやめないまま、紘夢がもう何度目かわからない駄目と無理を突き付ける。

 高校に入学してから二ヶ月ほど経った土曜日の夕方、桜助は紘夢がひとり暮らしをしているアパートにいた。

 どうしても休日に会いたいと桜助が恵まれた体躯たいくに似合わない駄々だだっ子を発揮し押しに押した結果、勉強会をするなら、と紘夢は問題児のおとないを渋々許した。渋々だろうとなんだろうと許されたことに浮かれて、朝からしつこく降り続く雨も祝福の雨のように思えた。桜助は嬉々として休日ダイヤの地下鉄に乗り、教えられた部屋番号を訪れた。

 部屋に上げてもらった桜助は、リビングのローテーブルで紘夢と向かい合って座っている。

 勉強会なんだから絶対に教材を持ってこいよと強く念を押されていた桜助は、家にあるありったけの問題集やらテキストやらを鞄に突っ込んでここへ来ていた。少しでも長くここにいられる理由を、絶やさないための。学校には決して持ってこないような大荷物を抱えてインターホンを鳴らしに来た桜助を見て、ドアを開けた紘夢は玄関先でくすりと笑った。

 ガラス天板のローテーブルに、桜助は律儀に問題集を広げている。部屋に入ったときまず目に付くこの存在感のある美しいテーブルは、紘夢が海外に行ったときに見つけ、気に入って取り寄せたものだと教えてくれた。

 美しいテーブルと、綺麗に並べられているウイスキーのボトルと、手触りの良い上質なラグと、背の高い観葉植物と。

 初めて入れてもらえた想い人の領域に、桜助は上擦うわずる気持ちが抑えられない。落ち着きなく無遠慮に部屋を見回してしまう。

『気になるものでもあった?』

 視線をうろうろさせている桜助に気づいた紘夢が、本から戻らずにそう訊いた。

『綺麗にしてんだなと思って。男のひとり暮らしってもっと荒れてるもんだと思ってた』

『めちゃくちゃ偏見じゃん、男だって綺麗にするよー? おれはインテリア結構こだわってるし、ちゃんとしたい派』

『ふーん、そういうもんか。……ここ、人よく来るの?』

 桜助の何気ない問いかけに、紘夢の動きがふと止まる。

 入学してしばらく経ち、桜助は自分が入学二日目に恋に落ちた人が校内でとても人気のある教師であることを知った。男女学年問わずいつも生徒に囲まれていて、その楽しげな輪の中には入れず遠巻きに眺めることしかできない桜助は、紘夢を遠くに感じることも多かった。

『……なんで?』

『あんたいつもいろんな人に絡まれてるからさ、よく部屋に生徒とか呼ぶのかなって気になっただけ』

 紘夢はまだ本から視線を離さないまま、あまり抑揚よくようなく答える。

『この前のおまえみたいに、行きたい行きたい行きたいって駄々捏だだこねてきたら呼んでるかな、生徒も』

『俺そんなだった?』

『超絶わがままだった……。まぁおれ問題児専門みたいなとこあるから、そういう生徒を受け入れてやるのは慣れてるよ』

『この部屋に来るそういう生徒、ってよくいんの?』

『……生徒のプライバシーに関わるから秘密です』

 自分だけがこの部屋に入ることを許されているわけではないのだと当たり前に知り、桜助は少しだけ肩を落とした。

 何度好きだと伝えても、紘夢には戯言たわごとで騒ぐ手の掛かる生徒としか認識されない。どうしたら紘夢の気を引けるのかまるでわからず、結局今日もまた懲りずにシンプルな二文字を渡すしかない。

 わからないところを見てもらう約束の勉強会だったので一応ペンを動かしてはみるものの、目の前で難しそうな本を真剣に読んでいる担任に見惚みとれてすぐに手は止まった。

 ペンは止まり、想いは募って、また好きだと口にする。

『やっぱ、好き』

『……はいはい。ちゃんと勉強しろよ』

 クラスに馴染めない桜助と職員室での居場所がない紘夢が昼休みの避難場所として使っていた中庭の桜木の下では、だいたい横に並んで昼食をとりながら話をしていたので、こうやって至近距離で正面から紘夢を眺めるのは貴重だった。

 垂れ気味で黒目がちな瞳に添えられた細いまつげと、ページをめくる男にしては少しばかり華奢な白い指、本に夢中になっているのか無防備に軽く開いた口唇。

 ふとしたときのこの担任の色香に、桜助は静かに息を呑んだ。普段は大学生にまちがえられるほどの童顔さわやか好青年で朗らかに教壇に立っているくせに、時折こういう顔を見せて惑わせてくる。

 もし自分以外の生徒が紘夢のこの危うさに気づいてしまったらと思うと、桜助ははやる心を抑えきれなくなる。気づいてしまった他の誰かが紘夢の頬に手を伸ばすことを想像すると、胸の辺りをぞわぞわとした黒い気持ちが容赦なくいずり回った。

 他の誰にも触れさせたくない。目聡めざとい誰かが気づいてしまう前に、早く。

 触れたい、と桜助が強く願う。

 伸ばせば頬に手を添えることなど容易たやすい距離なのに、伸ばすことを許されていない指先が問題集の上でれる。 

 テーブル分の距離がもどかしくて、苦しい。

『ねぇ、付き合って……くださいお願いします』

『丁寧に言っても無理なものは無理。……ほら、あれみたいなもんだろ? 刷り込み。高校生活で最初にちゃんと見たのがおれだったから、本能で懐いちゃっただけなんじゃないの』

 紘夢は手元のページをめくりながら、またなんてことないように答えた。そういう生徒を何人もかわしてきたようにこなれている紘夢を前に、暖簾のれんに腕押しとはまさにこのことかと、あまり言葉を知らない桜助にもこの手応えのなさはこたえてくる。

 それでも部屋に上げてもらえるこんな好機が次いつ巡ってくるか知れないと、桜助はただ真摯しんしに想いを伝え続けるしかない。

『刷り込み……って、卵からかえった雛のやつ……?』

 桜助が不思議そうな顔で、そのあまり馴染みのない単語をくり返す。

『そうそう。だからさ、その好きは思い込みっていうか勘違いっていうか……そういう種類のもんだろ? 高校生活始まったばっかでいろいろ不安な気持ちはあると思うけど、担任として、ちゃんと桜助のことフォローしていくから』

 紘夢がさとすような言い方をしてきたので、桜助はあからさまに顔を曇らせた。担任として、を強調されたのも気に入らない。

『……茶化すなよ。真面目に言ってる。真面目に好きって言ってる。恋愛の、好き。他の気持ちとの違いくらいわかる。勘違いなんかじゃねぇよ。なんで俺の気持ちまで否定すんの?』

 トーンを落とした声音で矢継やつばやに言われて、紘夢がはっとした。さすがに配慮がなかったかと、読んでいた本からようやく顔を上げまっすぐに桜助を見る。

 紘夢だって本当はこんな風に突き放したいわけではない。それでも。

『……ごめん、すごく嫌な言い方したな。気持ちはうれしいよ……ありがとう。でもだめだから、ね。そういうことは同級生とか先輩とか、そういう人としなさい』

 毅然きぜんとした態度で、今度はしっかりと目と目を合わせて紘夢が桜助をやさしく遠ざける。

『あんたがいいって言ってんのに』

 何を言われても、たとえどんなにあまい言葉を渡されたとしても、紘夢はこの問題児を遠ざけなければならなかった。これ以上近づくことは、許されない。

『なんで? 理由は? 理由を言ってよ。ただダメって言われてるだけじゃ納得できねぇ。……付き合ってるやついないって言ってたけど、ホントはいんの?』

『それはいない……けど』

 理由を問われたらそれはたったひとつしかないのだが、本当のことを言ったら入学早々学校をやめると言い出しかねない勢いの問題児だったので、紘夢はうまくすり抜けてこの場をやり過ごすしかなかった。

『だいたいおれがフリーだとして、なんですぐに付き合えると思うんだよ。おれの気持ちどこ?』

『俺のこと嫌い?』

 桜助のよどみない瞳にうかつにも引き込まれそうになる。ここで安易に引き込まれてしまったら取り返しのつかないことになるとは紘夢にもちゃんとわかっていて、動揺を悟られないように慎重に微笑んだ。

『嫌いも好きもないよ。みんな大事なおれの生徒だから。……もちろん、おまえも大事』

『……何それ、ずりぃ』

『特別扱いしない主義なの。みんな平等に大切』

 ひどくやさしい声で大切と言われ、こんなに残酷な平等が存在するのかと桜助は打ちひしがれた。どれだけ想いをぶつけても教室の中の平凡なひとりにしかなれないのだと知り、さすがに次の言葉を紡ぐのが怖くなる。

『……』

『ほら桜助、さっきからずっと手止まってる。今日は勉強会って言っただろ。わかんないとこあるならおれ見るから』

 この話はこれでおしまいと言わんばかりに、紘夢が強引に舵を切った。桜助がテーブルに広げている問題集を初めてちゃんと見て、今更気づいた違和感に顔をしかめる。

『え! おまえなんで数学持ってきてんの!? おれがなんの先生か知ってる……?』

『学校の先生ってなんでも勉強できるんじゃねぇの? 頭いいんだろ』

『おれの教師力が試されている……。数学かぁ……わかるかなぁ……いや、一年の最初の方ならギリいけるか……?』

 紘夢は読んでいた本を急いで閉じ、桜助の問題集の方に身を乗り出した。

『数学がいちばん難しいんだよ』

『世界史を持ってきてほしかったよね、おれは』

『世界史はいい。世界史だけは毎回真剣に授業聞いてるから』

『……そっか』

 またまっすぐに想いを届けられて、不覚にも紘夢が揺らぐ。どんな動機であれ時間を掛けて準備してきた授業を真面目に受けてくれているのはうれしいし、世界史だけは、と言われて少なからず舞い上がった。

 引きずり込まれてはいけないのに。絶対に。

 ふと紘夢が、部屋に上げたときに出した桜助のアイスコーヒーのグラスが空になっているのに気がついた。なんとなくこのまま桜助と向かい合っているのが怖くなってきた紘夢が、いいタイミングだと氷だけを残しているグラスを手に取って立ち上がる。

『おかわり入れてくるよ』

 そう言ってキッチンに向かう紘夢の背中に、

『俺も行っていい? キッチン見たい』

 と言って、桜助も立ち上がってついてきた。

『別に普通のキッチンだよ? 自炊はまぁまぁする方だけど』

 どうでもいいことを話していないと落ち着かない程度には、紘夢はこの迷いのない少年に惑わされている。そのつど己の立場は何だったかと厳しく問い詰め、自我を保つ。

 キッチンに立った紘夢は残っていた氷を捨て、冷凍庫から新しい氷を出してグラスに入れた。カラカラと、グラスの中を氷が滑る。

『あのうまそうな弁当、ちゃんと自分で作ってたんだな。たまに疑ってた、誰かに作ってもらってんじゃねぇかって』

 ついてきた桜助は紘夢の後ろに立って、話に付き合いながらその背中をじっと眺めていた。

 学校では毎日スーツを着ているので、紘夢の私服を見るのはこれが初めてだ。紺色の細身のチノパンにオーバーサイズの五分袖の白いTシャツを着ている紘夢は、いつにも増して若く小柄に見えた。

 きっちりスーツを着ていても万年大学生だと生徒たちから愛のあるからかいをされているだけあって、こんなラフな格好だと本当に11歳も年が離れているとは思えない。対等どころか自分の方が絶対に年上に見られそうだと、桜助は紘夢のなめらかそうな首筋をただ見つめる。

 自分よりずいぶん幼く見えるのに首筋が信じられないほど綺麗に通っていて、桜助はその成熟した美しさに息を呑んだ。周りからは可愛らしいさわやかな好青年と評されているが、桜助だけはいつだって紘夢の秘めた色香に酔わされていた。どうしようもない情欲が暴れて、からだが熱を持つ。

 まるで教師に見えないこの担任の後ろ姿に、桜助はひどく興奮していた。

『まだ言う? 疑り深いなぁ。弁当作ってくれるような人なんていないって』

 触れたい、と桜助が再び強く願う。

 今を逃したらもう二度と機は巡ってこないかもしれないと思うと、熱を帯びた指先がどうしたって震える。震える指は、求めているものに触れるまではきっと収まらない。

 あらがえず、指先を伸ばす。

『あ、桜助コーヒー好き? これね、おれのいちばんのお気に入……』

 ガラスポットに落ちたコーヒーをグラスに注いでいた紘夢の背中を、桜助は後ろから強く抱きしめた。

『……!?』

 突如背中に熱がこもった肌を感じ、紘夢のからだが強張こわばる。

『……ちょ、桜助、やめろって……』

 許可なく衝動的に触れてしまった罪悪感と、焦がれていた人にようやく触れられたたかぶりで、桜助は鳴り響く心音の速さにただ驚いた。

 紘夢に触れている箇所がさらに熱を持つ。

『おい、悪ふざけすんなって。離して……』

『ふざけてないって最初から言ってんだろ。……あんたが欲しいんだよ』

 ひと回り小柄な紘夢をすっぽり包み込むのに桜助の腕の大きさは充分で、そのまま腕の中に閉じ込めた。驚いているのか、紘夢は硬直したまま微動だにしない。

『……ふざけてないなら尚更こんなのおかしいだろ……離せって……いい加減にしないと怒るよ?』

 怒るよ、と言った紘夢の声の重たさとからだの緊張が一致してないことに気づいた桜助が、もっと近づいて紘夢の肩のあたりに顔を寄せる。離せと言うわりに、紘夢から強い拒絶は感じられなかった。

 駄目と無理をずっと突き付けられてきた理由が怖れていたものではないと知れて、桜助はさらにきつく紘夢を抱く。

 男がダメなわけでも、自分がダメなわけでも、多分ない。

『……なんで毎日会ってくれたんだよ。ダメなら、毎日わざわざ中庭になんか出てくんなよ』

 少し居心地の悪い教室から飛び出して、待ち合わせなんてしていないのに毎日中庭で落ち合った。桜木の下で隣に並び、なんでもないような話をするたびに、退屈だった毎日がゆっくりと彩られた。雨の日の昼休みは教室の机に突っ伏して、やまない雨を静かに恨んだ。朝起きて、今日もあの場所で会えると思ったら、憂鬱ゆううつな満員電車でも無敵になれた。

『それは……クラスに馴染めない問題児の相手をするのが、おれの仕事だから……』

『仕事……ね。今も仕事? こうやって問題児に大人しく抱きしめられてやることも? 平等なあんたは誰にでもそうすんの?』

『……っ、ちが……』

 回した腕を振り払われないのをいいことに、桜助は畳みかけるように紘夢の耳元で続ける。

『なんで俺を部屋に上げた? 散々好きだってわめいてるやつを、なんの考えもなしに部屋に上げたわけじゃねぇだろ?』

 ここに入ることを許された意味を桜助ははっきりさせたかった。たとえ教室では誰にでも平等だとしても、こうしている今に一筋の光があると思いたかった。

『……今だって、本気で嫌なら俺を突き飛ばしてでも離れりゃいいだろ』

 今どんな顔をしているのかと桜助は紘夢の肩を荒々しくつかみ、自分の方にからだごと振り向かせた。されるがままの紘夢が桜助の方を向く。桜助を見る紘夢の瞳は、ひどく心細そうに揺れていた。

 こんな顔をさせたかったわけではない。それでも、紘夢の肌のぬくもりを知った桜助はもう戻れない。

『俺の目見て嫌だって言えよ。もう構うなって、拒絶しろよ』

 ひどいやり方だと思った。脅すような、試すような。

『俺を、ちゃんと振れよ』

 紘夢は困惑した瞳のまま、桜助をじっと見ていた。駄目と無理を散々くり返していた紘夢の口は、もう何も紡がない。

『……』

 嫌だと言わなかった紘夢に、桜助は乱暴に口唇を押し付けた。

『!?』

 こじらせた想いを一方的にぶつけるだけのあまくないくちづけに、紘夢の眼が見開かれる。動けずに、強く押し当てられた教え子の口唇をただ受け止める。

『……っ』

 短いくちづけを解かれ、紘夢は桜助の瞳から逃げるようにすぐうつむいた。固まってうつむいている紘夢の肩がわなわなと小さく震えていることに気づいた桜助が、しでかしてしまった事の重大さにはっとし、急に狼狽うろたえる。

『あ、ごめん……やりすぎ、た……』

 さすがに本気で嫌われてしまうと慌てた桜助が紘夢の顔をのぞき込もうと少し背を折ると、うつむいたままの紘夢から絞り出したような掠れた声が聞こえた。

『……若気の至りじゃないのかよ……』

『え……?』

『だめ、無理、って言い続けてたら、そのうち年上からかうのに飽きてあっさりあきらめるかと思ってたのに……』

 紘夢の震える声は、桜助を静かに責める。

『おまえまじでめちゃくちゃしつこいし、強引だし……』

 か細い声が紘夢の不安定さを伝えていた。いつも教室で見る晴れやかで余裕のある先生はどこにもいない。

『なんなの、ほんと……』

『ごめ、ん……でも絶対あきらめたくねぇし。こんなにも人に執着するの初めてで、俺もどうしたらいいか、もうよくわかんねぇよ……』

『……』

『……』

 桜助も紘夢も、しばらく口を開かずにそれぞれに弱った。長い長い沈黙のあと、紘夢が突然大声を上げる。

『あー! もう!』

 ようやく紘夢が顔を上げて、桜助をまっすぐに見た。ずいぶんと近い距離で瞳をのぞき込まれて、桜助が驚く。

『ああー、もう……どうなっても知らねぇからな……』

 らしくない少し乱暴な言い方をしたあと、紘夢は桜助の首に両腕を回すと勢いよく引き寄せた。顔と顔が更に近づき、少しだけ見つめ合う。

『……おまえ、ほんとどうかしてる……』

 そう言って、今度は紘夢から口唇を合わせた。

 取り返しは、つかない。

『っ!?』

 桜助は一瞬驚いたものの、すぐに理解し、与えられた紘夢の口唇を夢中で味わう。熱を持ったままの桜助の指先はすぐに紘夢の腰を強く抱き、からだごと荒々しく奪う。

 許されたのだと知り、舞い上がった。

『……んっ……』

 どちらからともなく口を開け、互いに舌を差し出す。いて暴れたがる桜助の舌を紘夢が器用にすくい、口の中で丁寧に絡めていく。

『……んっ……んっ、はぁ……』

 思いがけずねっとりとした濃いくちづけになり、二人の息はすぐに上がった。今初めて口唇を合わせたとは思えないほど舌と舌が馴染むのが早く、掻き回された唾液はもうどちらのものかわからない。

『……やば……先生、キスうま……』

『誰と比べてんだよ……このマセガキ』

 憎まれ口を叩いても、すぐまた互いに吸い寄せられるようにくちづける。1LDKの小さなキッチンに、朝から降り続く雨の当たる音と、唾と唾を交換する卑猥ひわいな音だけがしばらく響き渡る。

『……っ、んっ……ん……』

 夢中で重ねていた口唇をようやく解くと、なまめかしく潤んだ眼で紘夢が桜助を見上げた。担任教師の信じられない艶やかさに、桜助は思わずぞくっとする。

『……さっきの質問の答え、言う、ちゃんと』

 戸惑いながらも、紘夢の色香をはらんだ眼にはしっかりと強い力があるように見えた。

『おまえを部屋に上げたのは、こうなるのを期待してたからだよ』

『っ!?』

 どんなまぬけ面をしているのだろうかと、桜助は今の自分の顔を想像するだけで倒れそうになる。驚きと喜びがないまぜになって、これ以上ないほどの複雑な表情をしている自信が存分にあった。

『……ずるいだろ? おれにも下心あったのに、全部おまえにゆだねてた。幻滅した?』

 桜助は複雑なまぬけ面のまま、大きく首を横に振る。

『ほんとは、今までこの部屋に生徒なんて上げたことないんだ。……おまえが、はじめて』

 最初から許されていたのだと教えられ、桜助は泣きそうになるのをぐっとこらえた。

『っ……先生に下心あったの、すげぇうれしい……』

 たまらなくなって、また紘夢の口唇に己のそれをわせる。

『うれしい……』

 うれしいと二度くり返した桜助は、紘夢の頬に手を添えて、担任の目にしっかりと自分を映した。先刻まで触れることすら永く叶わないと思っていたその頬をそっと撫でる。

『俺のになってよ』

『……簡単じゃないよ……いばらの道になる』

『いいよ、あんたとならいい……』

 この子は今熱に浮かされているだけかもしれないと紘夢の脳裏にふとよぎるが、久しぶりに人と口唇を共有した極上のあまさにのぼせて、紘夢ももうあらがうことをやめてしまった。あきらめて、素直に降伏の白旗をあげる。

『……秘密にできるか? こんなのもう、誰にも言えないんだよ?』

『できる。あんたが手に入るんなら、俺はなんだってできるよ』

 怖いものなどないと微笑む桜助に、紘夢はやれやれと笑い返すしかない。

 あんなに始めることを怖がってこばんでいたのに、こんなにも簡単にあらがうことをやめてしまえるのだと、紘夢は果てしなく深い絶望の中でまた桜助にくちづける。

『……ねぇ先生……続き、したい……もっと先のこと、しよ』

 キッチンでずいぶんと長い間口唇を食み続けたあと、桜助が紘夢の耳元で告げた。

『……紘夢、だよ。桜助』

『……?』

『今は先生じゃない』

『名前で呼んでほしいの?』

『おまえが先に呼べって言ったんだろ』

 桜木の下で、嫌いな桜の付く名を桜助は紘夢に教えた。この人になら呼ばれてもいいと思った。

『おかげで学校中の生徒全員を名前で呼ぶことになった。生徒のことはずっと名字で呼んでたのにさ。全員だぞ、全員。この四月から全員呼び方変えたんだ。すごく苦労した』

 名を教えられて、特別扱いしてほしいとねだられているようで、紘夢はそのわがままを心地よく思った。

『でも、おまえを呼びたかったから』

『……っ』

 思わぬ褒美を与えられたと、桜助がまた強く紘夢を抱きしめる。

『苦しいよ……』

『紘夢、しよ……続き。紘夢のこと全部教えて』

 その答えのように、紘夢が桜助に短いキスを渡す。

『……来いよ』

 紘夢は桜助の充分すぎるほどに熱くなった手を取り、寝室へと導いた。





『……ちょ、そんな、がっつくなって……』

 寝室に通された桜助は、紘夢を巻き込んですぐにベッドになだれ込んだ。紘夢の上に乗り上げ、貪るように口唇を食む。

『……んっ、……っはぁ……』

 待ち切れないとせっかちに紘夢の首筋を吸い、合間にふと心許こころもとない目をした桜助が確認する。

自惚うぬぼれていいんだよな……?』

『……いいよ』

 どうせもう取り返しはつかないと、少し投げやりにもなって紘夢は笑った。一度バランスを崩したら最後、あとはどこまでも転げ落ちていくしかない。

『とりあえずお試しで一回やって終わりとかじゃねぇよな?』

『何言ってんの。……おまえこそ、やっぱ二十代のおじさん無理とか言ってやり捨てすんなよ』

『するわけねぇし。……今だって、夢かと思ってる……』

 まだ現実味のない状況に、桜助の目がまた不安そうに揺れた。

『ほんと、疑り深いなぁ』

『怖いんだよ、これ夢だったら立ち直れねぇだろ……』

『でもまぁ……信用ないか』

 これまで取ってきた態度を思えば桜助が慎重になるのも当然かと、紘夢は小さく苦笑する。

『桜助、おまえ男とばっか?』

『……? ん、そう。男としかしたことない』

『おれもだよ。……じゃあさ』

 紘夢は上に覆い被さっている桜助をやさしく退けると、そっと上体を起こした。そのままベッドサイドの小さなチェストの引き出しを開け、中を桜助に見せてやる。

『……これ見ても、お試しだとか、そんなこと言う?』

『あっ……』

 そこには、男同士がからだをつなげるために必要な道具が綺麗に並べられていた。どれも新品のようで、種類を迷ったのかいろいろなメーカーのものが入れられている。

『おまえがうちに来たいって言ってきて……いつかおまえのためにこれ使うの、想像して、用意してた……』

 水面下で秘めていた想いをさらけ出すのはまだ少し怖くて、紘夢の声が大人げなく震える。

『俺に抱かれるの想像してた……?』

『……して、た……』

 桜助の目が、また驚きで大きくなる。

『しょうがないだろ……おれだって、ほんとは、だめも無理も言いたくなかった、けど……』

 紘夢が少しだけ高い位置にある桜助の瞳を見上げて、告げる。

『先生は、特定の生徒のこと、好きって言っちゃいけないんだよ……』

『……っ、紘夢……』

 ずっと聞きたかった言葉を、教えられた。焦がれる人の名を呼んで、桜助は紘夢を抱き寄せる。

『おれがもっとしっかり気持ちを制御しなきゃいけなかったのに……おまえに触れられたら、理性のネジ全部ぶっ飛んだよ』

 何度も己の立場を言い聞かせた。近づいてほしくなかったのに、懐かれてうれしかった。このまま問題児の面倒を見ている振りをして、桜木の下で隣にいられるだけでいいと思っていた、のに。

『ごめんな、最低の先生で』

『思ってないそんなこと』

『おまえにばっか好きって言わせ続けてごめん。ずるくて、ごめん』

 大人しく抱きしめられた紘夢も、そっと桜助の広い背中に手を回してしがみついた。

『俺も困らせてばっかでごめん』

 簡単ではないことを始めさせてしまったのだと、桜助も己の欲望だけを優先してきた今までの言動を省みる。

『もう何も確認しなくていいよ。桜の下で初めてしゃべったときから、おまえのこと気に入ってた。特別扱いしたかった』

『ん、うれしい』

 何度目かのうれしいを伝えて、桜助は背を抱いたままそっと紘夢を倒していく。シーツに沈められた紘夢は、自分をあまく見下ろす少年に告げる。

『……桜助、好きだよ』

 教師から生徒に決して渡してはならない言葉を紘夢が口にすると、桜助は深くキスを落として、からだを結ぶ準備をゆっくりと始めていく。

 まだやまない静かな雨を聞きながら、その夜、桜助と紘夢は互いを特別にした。
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