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 ――実家での日常は非常に穏やかだった。ルーシェが戻ってきたのは北の地方が冬支度を終えようとする時期だった。
 いったん雪が降ってしまえば、北の地方は陸の孤島となる。当然、王都への道も春の息吹が感じられる頃までは閉ざされてしまう。
(あ、雪降ってきた…久しぶりだ)
 診察台で横になり医師の診察を受けていたルーシェは、窓の外に雪がちらつくのを見て微かな感動を覚えた。
 ガルシアとの旅の途中、北の地方にも立ち寄ったことはあったが季節としては夏だったのだ。
「ルーシェ様。起き上がっていただいて大丈夫ですよ」
 医師であるゼロに声を掛けられ、ルーシェは脱いでいた下穿きとボトムズを履いた。
「尿検査の値は正常通りです。お子様の心音も問題ありません。だだ、ルーシェ様はこれから体重を増やしていく必要はあるとおもいます。後ほど、屋敷の厨房のように伝えさせていただきますので」
「世話かけてすみません」
 いえとゼロが返したところで、外に雪がちらついていることに気づいたようだ。
「いよいよ、冬が来ますね。どうか、ルーシェ様。お体を冷やすことはくれぐれもなきよう」
「はい、わかってます。というか、屋敷の者たちが過保護なので、もうこんな感じです」
 着膨れているルーシェを見て、ゼロはクスリと笑う。
「セルドアが言っていた通り、面白い方ですね」
 ゼロはセルドアの友人とのことだ。ルーシェの状況も手紙でしっていたとのことだ。
「あいつ、変なこと言ってませんでした?王都にいたころは、俺いつもからかわれていたんです」
 ルーシェとセルドアとの付き合いは実は長くない。セルドアはルーシェより5歳年上だった。
 王城で住み始めて、たまたま食堂で相席することになったのだ。以降、王城で浮いた存在だったルーシェによく話しかけてくれていた。セルドア自身は父が王城の医師を務めていたこともあり、王城によく出入りし、ガルシアとも幼馴染といえる間柄らしい。
「いやいや、あれでセルドアもあなたのことを気に入っているのですよ。しかも、何かあれば、自分も王都から駆け付けるつもりでいるらしいですから」
「はは…」
 冗談とは思えぬ台詞に、セルドアも随分と心配しているのだろう。
「手紙でも書いてやってください。本当は、自分が診察したいはずなので」
「ええ、そうします」
 ルーシェは立ち上がった。腹のふくらみは微かにある。僅かだが、下っ腹が膨らんでいるのだ。
 確かにここにいる。ガルシアの証が…。
 屋敷に帰るまでには、バザールの中を歩くのが最短の道だった。王都に比べれば、小さなバザールであった。
「ルーシェ様、こんにちは。お体の調子はどうですか?」
 果物屋の若い女店主に話しかけられる。ルーシェが子を宿しているのは、北に全域に知られている。領民たちはそれを歓迎した。次代の北の辺境伯が帰還し、そしてまだ次代が生まれるというのだから。
 同性婚も北は比較的多い。他の地方に比べ、領民たちは協力していかないと生きてはいけないので、同性同士でも恋や愛に発展することが多いのだそうだ。
「ああ、順調だよ。ただ、匂いのきついものがしんどくて…」
「わたしの時もそうでした。肉はどうしても受け付けなくて…なら、これを差し上げます」
 手渡されたのは林檎だった。
「いいのか?」
「もちろん。雪が降ってきたのでそろそろ店を閉めようと思ってたんですよ。その代わりお口にあったら、また買いに来てくださいね」
「ああ、もちろん。
 ――どうも、ありがとう。屋敷に戻ったら、早速いただくよ」
 林檎を胸に抱いて、ルーシェは屋敷への道を歩く。
 他の店も片づけを始めている。この雪ならば、今夜は積もるだろう。そしてそのまま、北の大地は冬を迎えるのだ。
 閉ざされた世界へと…。
 王都への道が閉ざされてしまえば、誰もルーシェを探しに来ることもない。一抹の寂しさを覚えながら、屋敷へと急いだ。

 ――屋敷に戻ったルーシェは、玄関に置かれている箱に眉をひそめた。近づいてみるが、随分と大きな木箱だ。しかもかなり頑丈な装いである。
「ルーシェ様、お帰りなさいませ」
「ただいまエルサ。これ、なに?」
「それが先ほど王城から届いたのです。恐れ多くて、まだ開けていないのですが」
 エルサも困惑している様子だ。
「もしかして、王城の俺の部屋にあった荷物かも。侍女たちがつめてくれだんだろ」
「では、後ほど部屋にお運びいたしますね」
「ああ、頼む。それとこれ」
「あら林檎ですか」
「果物屋の女将がくれたんだ。悪いんだけど、お茶と一緒に出してくれる?」
「ええ、すぐにお持ちいたしますね」
 林檎と外套をエルサに預け、ルーシェは2階にある執務室に向かった。
「ただいま~」
 執務室に入ると、ボルドは書き物をしていた。
「おお、ルーシェ、もどったか。赤子の調子はどうだった?」
「順調だって」
「そうか、そうか」
 すっかり好々爺だ。若いほど北の荒くれ物と言われたほどの父が、鋭い眦を目じりに皴ができるほど喜ぶなんて思いもしなかった。
「失礼いたします」
 ルーシェがゆっくりとソファに座ると、エルサが入ってきた。ルーシェの前にハーブ茶と林檎の乗った皿を置く。
 フォークで林檎をさし、ルーシェは齧った。甘酸っぱい味に口いっぱいに広がる。
「うまい…」
 パクパクと食べてしまう。最近、つわりで食欲がなく、のど越しの良いスープを食べていたが、林檎ならたくさん食べられそうだ。
「なあ、ルーシェ。シュリちゃんには、じいじと呼ばせようか、おじいちゃまと呼ばせようか、どちらがよい?」
 シュリとはベビーネームである。名前がある方がお腹の子に愛着が湧くとのことで、ルーシェが名付けたのだ。
 自分の名前をもじってシュリ。それが思いのほか、ボルドには好評であった。
「いや、どっちでもいいんじゃない?」
 ルーシェがあきれ返るように言うと、執事が執務室に入ってきた。
 ボルドはすでに祖父になった気分のようで、出産に必要なものの他にもあれやこれやと用立てようとする。
「まだ、4か月にもならないんだけど…」
 ルーシェはハーブ茶を啜りながら、ボルドの様子を再び見る。屋敷の最も日当たりの良い場所は孫の部屋を決めており、寝台や玩具などを集めているのだ。
「ルーシェ様がおできになった時もあんな感じでしたよ」
 エルサの言葉に、信じられないようにルーシェは目を見張った。
「そのお顔。奥様とそっくりです。奥様も旦那様に呆れられていました。
 ――エルサはルーシェ様のお子を見ることができて、とても幸せですよ」
「エルサ…」
 幼いころ母を亡くしたルーシェにとって、エルサは第二の母というべき存在だ。父もいるしエルサもいる。助けてくれる医師も、喜んでくれる領民もいる。ひとりだけ浮いていた王都での生活を考えると、やはりここで暮らすのがいいのだ。
 思わず涙が流れそうになる。どうも妊娠してから、感情が高ぶったり落ち込んだりと忙しい。
 ルーシェはごまかすように、ハーブ茶を一気に飲み干した。
 その時、エルサの夫であり長年ボルドの執事を務めているベンが執務室に入ってきた。
「旦那様。王城より使いが参りました」
「なに?それはまた、急な…」
 北の大地は間もなく雪に覆われる。そんな中、王都から使いがやってくるなど、よほど急な案件に違いない。
「広間にお通ししろ。私もすぐに向かう」
「いや、そんな気遣いは必要ない」
 執務室の外から聞こえた声に、ルーシェの背にぞわりとしたものが奔る。この声をルーシェはよく知っている。
 恋い慕う男の声だった。
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