『少女、始めました。』

葵依幸

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【6】少女、終わりました。

6-2

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「ごしゅじんさまー、ごしゅじんさーまー」

 ゆらゆらと肩を揺らされそれと同時に脳みそまで揺れるようだった。

「んぁあ……、聞こえてる、聞こえてるから止めてくれ……」

 昨日飲んだ酒が効いているのか、それともただの筋肉痛か、思う様に身体は動かない。どうやらソファーの上で寝てしまったらしく「んぅっ……」と腰を伸ばすとあちこちが痛んだ。

「うぅ……」

 珍しく二日酔いのようだ。そして筋肉痛もある。全身が気怠く、瞼も半分位しか上がらない。

「おはようございます、ご主人サマっ!」

 と相変わらず五月蝿いバカの声が脳を揺さぶり、気持ちが悪い。
 疲れてるときの酒は悪い酔いするからなぁ……。

 よっこいしょ――と立ち上がりトイレにでも行こうとして何やら焦げ臭い事に気付く。

「……ん……? てっ……! ま、まさかおまえ……!」

 慌てて台所へ向かおうとするがバカが飛び出して行く手を遮った。

「どうせならさっさと叱られやがれ」
「ち、違います! 違うんです!!」
「じゃあなんだ、完全に焦げてる臭いだぞ」
「しーっしーっ! 落ち着いて、落ち着いてください!!」

 目を潤ませながら両手を大きく広げ、俺の目を怖ず怖ずと睨んでくる。

「……俺に見せられないぐらいにやっちまったのか」
「失礼なっ! 今日はそれ程失敗してませんよ!」
「卵、いくつ無駄にした」
「……4個、です……」
「……ひよこさんを四人も惨殺したんだな?」
「うぐっ……!」

 一瞬視線を外したのを見逃さない。ジッと見つめ、自分から白状するのを待つ。
 その視線に耐えられなくなったのか、やがて口を尖らた。

「すみませんーっ! ホンとは5個三角コーナーに落としましたー!!」

 自棄糞になって怒鳴る。怒鳴られた。しょぼくれた様子で顔を下げる様子を見ると本当の事らしい。

 一昨日買ったばかりの卵を5個も……なんともまぁ……。

「どうやりゃそうなるんだ……」
「私が聞きたいですよぉ……」
「しょぼくれた所でお説教は終わらんぞ」

 と、バカの頭を抑えて台所に抜けようとすると腕を掴まれた。

「……まだ何かあるのか」
「……どうせなら、顔を洗ってからにしてください」
「は?」
「頑張って朝ご飯作ったので、食べるのは顔洗ってからにして下さいッ」
「あ、ああ……」

 何を必死になっているのか分からないが、突然いままでに無い程にムキに叫ばれ、渋々それに従った。
 どうせ片付ける事になるんだ、急ぐ事なんて無いだろう。顔を洗うついでにシャワーも浴びる事にする。気だるい体に温まりきっていない水が当たり、無理矢理意識をこっち側に持ってこさせられる。

 ――ったく、変な夢見たもんだ……。

 夢なんて物は目が覚めれば自然に忘れていくもんだが、やけに尾を引いていた。曖昧になって行くはずの記憶は鮮明のままで、いつまでたっても頭の中から消えてくれない。

「……くそっ……」

 それらを振り払うかの様に髪を洗うと鏡に映った顔が随分酷い事に気付く。無精髭が生え、髪も伸び、目は疲れきっていた。濡れた髪をかきあげるが、様子は何も変わらない。いつの間にかずいぶんと年を食った気がする。

「――まだまだわけーんだけどなぁ……」

 何となく、もう一度顔を洗い直してヒゲを剃る。髪もその内切りに行った方が良いかもしれない。一度切ろうと思うといままでここまで伸ばしていた事が不思議な程に最早鬱陶しかった。どうせならバッサリ切りに行こうと思う。バッサリと。そうすれば少しは気分も切り替えられるかもしれない。案外そう言う物なのだ、人間なんて奴は。……なんて気休めにも成らんか。と、風呂場出るが――、

「……おいおい、まじかよ……」

 思わずその光景に言葉を失った。

 着替えを済ませて覗いた台所には所謂“普通の朝食”が二人分並んでいた。トーストに目玉焼き、トマトやキュウリが盛られたレタスのサラダにコーヒーが良い香りを漂わせて俺を出迎える。流しではバカがまだ頬を膨らませながら泡をごしごしとやっていた。

「コーヒー、冷めちゃいますよ。ほら、座って下さい」

 コイツなりの照れ隠しなんだろうが、俺の方を一切見ずにそう呟くと洗い物を片付けて自分の椅子に座った。

「お、お前が作ったのか……?」

 これまでこんな事は一度も無かった。料理をすると言い出せば水道管が破裂したかのような洪水が発生し、フライパンの上では炭が出来上がる。包丁さばきなど指を詰めようとするようにしか見えなかった。それなのに、これは一体どういう事だ……?

 恐る恐る椅子に腰掛け、コーヒーを口に含んでその苦さに夢でない事を確かめる。
 改めて目の前に並ぶ「焦げていない料理」の数々を眺めると、言葉は出てこなかった。

「……ミコノちゃんに、教わったんです」

 恐る恐るバカが呟く。

「私だって、ご主人サマのハートフルパートナーとしてこれぐらい出来るってトコ、お見せしたかったんですよ」

 自分用に入れたらしいカフェオレに口を付け、ちらちらと視線だけを向ける姿はコイツらしくなくて、ようやく出かけていた言葉も喉で突っかかってしまい奇妙な沈黙が部屋の中に流れた。

「……どうぞ、お召し上がりください」
「あ、ああ……」

 やあやああってようやくトーストに齧り付き、サラダにフォークを刺す。味覚えの無いドレッシングにお手製の物だと気が付く。ミコノから教わったとはいえ、それらはコイツが作ったなんて到底思えない出来映えで――、ふとその視線に気が付き、手が止まった。

 そいつはテーブルの向こう側で自分の皿にも手をつけず、不安そうな目で俺を見つめていた。

「……あの……、どうです……?」

 以前にもこんな姿を見た事がある。

 ――そういやあの人もいつもこんな風に泣き出しそうな目でこっちを見てたっけな。

 料理があんまり得意じゃなくて、いつまでたっても焦げは減る事は無いし味付けも濃かったり薄かったり――、かと思えばめちゃくちゃ美味い時もある。ちゃんと計量して手順通りに作ってるはずなのに毎度違う物が出来上がり、その事を本人も気にしていた。

「…………」

 全然似ていないし、比べるような物でもないんだろうけど――、

「……うめぇよ、上出来だ」

 何となくその頃の事を思い出していた。

「そうですかっ……!」

 嬉しそうに笑うとホッとしたのかようやく自分の分に手をつけ始める。気品もマナーも感じ去られない食いっぷりはいつも通りで何だか俺もホッとする。バカはバカらしくバカな方が良い――。

 ハートフルなんとかだか知らないが、コイツにはそう言った「しっかりした」所なんて似合わない。

「それにしてもどうしたんだ? ミコノの事、少しは見習おうとでも思ったのか」

 帰り際のミコノと圭介は見てるこっちが恥ずかしくなるぐらい初々しかった。互いが互いに気を遣い合い、手を取り合っては道を歩く。新しく生まれた距離感に互いに戸惑い、急に饒舌になったかと思えば急に黙り込む。そんな姿を見ていると込み上げてくる訳の分からない焼き餅みたいなものに駆られた。

「まぁ、確かにそれもありますけど……。私はただ、パートナーとしての役目を果たしたかっただけです」

 バカは手に持っていたフォークを一旦皿におき、まっすぐ俺を見つめる。

「ねぇ、ご主人サマ。そろそろ私にミサトさんと朽木さんについて話して頂けませんか?
 ――私、知りたいんです」

 ガラス玉のように透き通った瞳が、ジッと俺を見据えていた。
 何も話さなくとも心の奥まで見透かされそうな不思議な目。
 コイツがこんな目を出来る事に少し驚かされる。
 そうして自然と、自分の中で荒太と先輩について話す段取りを付け始めている自分に気が付く。
 このままだと全てを話してしまいそうな気がして、

「……そんな良い話じゃねぇよ」

 と無理矢理視線を外すとコーヒーに口を付けた。口の中に広がる苦みがいままでと違う。
 別に話したって構わないのかも知れない。
 別にコイツに何を言われた所で何も変わらない。
 だが、それを話す事で自分の中で何かが変わってしまいそうな気がしていた。
 荒太の事、先輩の事、自分一人で考え続ける限りは同じ所を巡り巡るだけの物だったがコイツに話してしまえばそのループの矛盾に気付かされ、外の世界に引きずり出されそうな気がしていた。

「ご主人サマにとって辛いお話だとは思います。私はそれを貴方には強要出来ません……、でも――、でもそれでも、聞きたいんです。ご主人サマの事を知りたいんです」
「…………」

 本当にコイツは本当にあの「バカ」なんだろうかと、疑いたくなる程に芯が通った声で促してくる。

「お願いします、ご主人サマ――」

 静かに時計の針が時を刻むのが聞こえてくる。
 締め方が甘かったのか蛇口から時折水が零れ落ちて行く。
 話してしまえば、全てをこちら側の世界に持って来てしまえばこんな風に悩む事は無くなる。なくなるが――、

「……だめだ」

 それらを語るには俺の準備が整っていなかった。
 荒太を失ってしまう恐怖に俺は勝てなかった。
 逃げる様に食事を放り出し、椅子から立ち上がるとバカもそれを追いかけてくる。

「ご主人サマ……!」

 テーブルを回り込み、立ちふさがるその目は透き通っていて、俺を捉えて離さなかった。しかし懇願する訳ではなく、ただじっと俺の事を信じるように訴えかけ続ける。そんな姿に足は動かず、言葉も出ない。視線を逸らしていてもバカが俺を見つめてるのが分かる。顔をこわばらせ、怯え、いまにも逃げ出しそうにしている俺の姿を。

「ったく……、なんなんだよ、くそっ……!」

 悪態を付いて誤摩化す。居心地が悪い。さっさと振り払ってしまえば良いのにそうする事も出来ない。

「どうしても、というのなら結構です……。でもこのままご主人サマの事も知らないままお別れするのは嫌なんです」

 恐らくは――、その瞳の中に少しの陰りを感じたからだろう。
 きっとそのせいで俺はコイツに、ハートフルなんとかを目指して健気にも努力し続けるその姿にでも感銘を受けてしまってそんな事を口走ったのだろう。

「そこの皿、全部食い終わってからだ」
「――はいっ!」

 なんだかんだ言って、コイツの笑う顔は嫌いじゃないのかもしれない。
 見上げる笑顔にそう思った。
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