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09 - 騎士団大隊長カダル・バルック
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騎士団大隊長カダル・バルックが異動という名目で密かに更迭されたのは、ターティル国境の遠征から戻って何日もたたないうちのできごとだった。
その夜、クールドが成人したときに建てられた離れの屋敷に、珍しくアイディーンがひとりでおとずれた。
「遠方から戻ったばかりでは、さすがのおまえも夜遊びにでる元気はないか」
兄の揶揄に小さく笑みをみせただけで、アイディーンはなにも言わなかった。
書斎へ招いて座をすすめると腰をおろして「酒はおいてないんですね」などと言う。
「書斎に酒をもちこむようになったらおしまいだよ。どうしてもというなら、麦酒を用意してやってもいいが」
「いいえ、言ってみただけです。……兄上」
琥珀色の眼がクールドをとらえた。
「バルック隊長が異動になったのはご存知ですね。あれは兄上が?」
「あの莫迦についてはほとんど自業自得だ。あれだけ目立つ場所で大立ちまわりをやらかせば、ごまかしようもない。たしかに上層部へ進言はしたが、わたしが動かなくても意見や嘆願書が多数あがったというし、時間の問題だっただろう」
「俺を兄上の隊にひきぬいたのは」
「それはもちろんわたしだ。こんな好機をのがす手はない」
「せめて……俺を副官に指名するのは、十七になるまで待ってください」
「わかっているさ。わたしもそこまで性急ではないつもりだ。ひとまずおまえをそばにおいておければ、それでいいんだから」
手を伸ばしてアイディーンの髪先をもてあそぶのを楽しみつつ、クールドは満足そうに笑みをこぼした。
「では、もうひとつ」
アイディーンは兄のたわむれにかまわず立ちあがった。
「帰還早々、辞表を提出した団員から手をひいてください」
「というと?」
クールドは目を細めた。
「ヤーシュ殿とフェナー殿のことです。バルック隊長の騒ぎのときに、俺をかばったのを見ていたでしょう。彼らは彼ら自身の良心に従って行動しただけで、俺とは関わりのない問題です」
「さて、彼らは上司に逆らったのを恥じて、自らの進退を決めただけじゃないのか」
「兄上……」
アイディーンはクールドの座の前まで近づいて見おろした。
静かにすべてを透かし見る目だった。
「これ以上、手を汚さないでください。どれだけの人を追いやっても、俺と兄上との距離は変わらない」
アイディーンはクールドのこれまでの罪を知っている。
それをいま初めて口にした。
相応の覚悟をもってたずねてきた意味を、クールドはようやく理解した。
「アイド、なぜいまさら……」
「騎士団の同僚の事故死を止められなかったとき、兄上の苦しみを共にする覚悟を決めました。今回の騒動はきっかけでしかありません。
――兄上、あなたが抱える苦悩のすべては、俺には理解できないかもしれない。兄上自身もそうでしょう。それでも少しでも苦しみが薄らぐというなら、ここで俺を好きにあつかえばいい」
クールドはがたんと大きな音をたてて椅子から立ちあがった。
頭ひとつぶん以上小さな弟が、その琥珀色の瞳がまっすぐ彼を見つめている。
「おまえは……それを避けるために、わざと色遊びをくりかえしたんじゃないか」
「牽制にはならなかったようですね」
アイディーンは自嘲でも蔑むのでもなく、ただ小さく笑った。
クールドが結婚でもしたなら、どれほど祝福できただろう。
しかし一時的に関係をもつ相手はいても、彼の一番の関心は常に弟に向いたままだった。
暗く複雑な矛盾を含んだ感情は、どうにもならない重荷としてクールドの心の奥底に沈んでいる。
目の前に立つアイディーンにひきよせられるように、クールドは手をのばした。
まだ成長しきっていない未熟な肩が容易に手のなかにおさまる。
背をかがめて顔を近づけたとき、アイディーンが囁くように言った。
「一度だけです、兄上。それでもなお手を汚すというなら、俺は兄上を断罪します」
吐息が唇に触れる、その距離のままクールドはしばらく動けなかった。
一度身体を与えるのとひきかえに自分を忘れろと弟は言ったのだった。
愛情だけではない、ある種の嫉妬や羨望、執着といった鬱屈した感情もすべてひとくくりにして捨ててしまえ、と。
それはひどく恐ろしいことだった。
クールドは震える手を背中へまわし、弟を強く抱きしめる。
あまりの強さに息がつまるのを感じアイディーンは眉をひそめたが、抗いはせずじっとしていた。
弟を抱く腕に力がこもるのはクールドの懊悩で、そのまま微動だにせずすり減らしたずいぶんな時間は葛藤そのものの時間だった。
やがて、慎重に腕を弛緩させ軽く肩へまわす。
そして神聖なものに対するように、クールドはアイディーンの額へ口づけた。
「……アイドが生まれた年、わたしは大地神カースに帰依したんだ。その御子を貶めるようなことは絶対にしない」
アイディーンはどんな感情もみせなかった。
クールドがいたたまれなさを感じるほどじっと見ていて、それからようやく赦しを与えるように、兄の頬にそっとキスをした。
外伝二 縁由 END
その夜、クールドが成人したときに建てられた離れの屋敷に、珍しくアイディーンがひとりでおとずれた。
「遠方から戻ったばかりでは、さすがのおまえも夜遊びにでる元気はないか」
兄の揶揄に小さく笑みをみせただけで、アイディーンはなにも言わなかった。
書斎へ招いて座をすすめると腰をおろして「酒はおいてないんですね」などと言う。
「書斎に酒をもちこむようになったらおしまいだよ。どうしてもというなら、麦酒を用意してやってもいいが」
「いいえ、言ってみただけです。……兄上」
琥珀色の眼がクールドをとらえた。
「バルック隊長が異動になったのはご存知ですね。あれは兄上が?」
「あの莫迦についてはほとんど自業自得だ。あれだけ目立つ場所で大立ちまわりをやらかせば、ごまかしようもない。たしかに上層部へ進言はしたが、わたしが動かなくても意見や嘆願書が多数あがったというし、時間の問題だっただろう」
「俺を兄上の隊にひきぬいたのは」
「それはもちろんわたしだ。こんな好機をのがす手はない」
「せめて……俺を副官に指名するのは、十七になるまで待ってください」
「わかっているさ。わたしもそこまで性急ではないつもりだ。ひとまずおまえをそばにおいておければ、それでいいんだから」
手を伸ばしてアイディーンの髪先をもてあそぶのを楽しみつつ、クールドは満足そうに笑みをこぼした。
「では、もうひとつ」
アイディーンは兄のたわむれにかまわず立ちあがった。
「帰還早々、辞表を提出した団員から手をひいてください」
「というと?」
クールドは目を細めた。
「ヤーシュ殿とフェナー殿のことです。バルック隊長の騒ぎのときに、俺をかばったのを見ていたでしょう。彼らは彼ら自身の良心に従って行動しただけで、俺とは関わりのない問題です」
「さて、彼らは上司に逆らったのを恥じて、自らの進退を決めただけじゃないのか」
「兄上……」
アイディーンはクールドの座の前まで近づいて見おろした。
静かにすべてを透かし見る目だった。
「これ以上、手を汚さないでください。どれだけの人を追いやっても、俺と兄上との距離は変わらない」
アイディーンはクールドのこれまでの罪を知っている。
それをいま初めて口にした。
相応の覚悟をもってたずねてきた意味を、クールドはようやく理解した。
「アイド、なぜいまさら……」
「騎士団の同僚の事故死を止められなかったとき、兄上の苦しみを共にする覚悟を決めました。今回の騒動はきっかけでしかありません。
――兄上、あなたが抱える苦悩のすべては、俺には理解できないかもしれない。兄上自身もそうでしょう。それでも少しでも苦しみが薄らぐというなら、ここで俺を好きにあつかえばいい」
クールドはがたんと大きな音をたてて椅子から立ちあがった。
頭ひとつぶん以上小さな弟が、その琥珀色の瞳がまっすぐ彼を見つめている。
「おまえは……それを避けるために、わざと色遊びをくりかえしたんじゃないか」
「牽制にはならなかったようですね」
アイディーンは自嘲でも蔑むのでもなく、ただ小さく笑った。
クールドが結婚でもしたなら、どれほど祝福できただろう。
しかし一時的に関係をもつ相手はいても、彼の一番の関心は常に弟に向いたままだった。
暗く複雑な矛盾を含んだ感情は、どうにもならない重荷としてクールドの心の奥底に沈んでいる。
目の前に立つアイディーンにひきよせられるように、クールドは手をのばした。
まだ成長しきっていない未熟な肩が容易に手のなかにおさまる。
背をかがめて顔を近づけたとき、アイディーンが囁くように言った。
「一度だけです、兄上。それでもなお手を汚すというなら、俺は兄上を断罪します」
吐息が唇に触れる、その距離のままクールドはしばらく動けなかった。
一度身体を与えるのとひきかえに自分を忘れろと弟は言ったのだった。
愛情だけではない、ある種の嫉妬や羨望、執着といった鬱屈した感情もすべてひとくくりにして捨ててしまえ、と。
それはひどく恐ろしいことだった。
クールドは震える手を背中へまわし、弟を強く抱きしめる。
あまりの強さに息がつまるのを感じアイディーンは眉をひそめたが、抗いはせずじっとしていた。
弟を抱く腕に力がこもるのはクールドの懊悩で、そのまま微動だにせずすり減らしたずいぶんな時間は葛藤そのものの時間だった。
やがて、慎重に腕を弛緩させ軽く肩へまわす。
そして神聖なものに対するように、クールドはアイディーンの額へ口づけた。
「……アイドが生まれた年、わたしは大地神カースに帰依したんだ。その御子を貶めるようなことは絶対にしない」
アイディーンはどんな感情もみせなかった。
クールドがいたたまれなさを感じるほどじっと見ていて、それからようやく赦しを与えるように、兄の頬にそっとキスをした。
外伝二 縁由 END
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