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02 - 貴族の子弟が通う〈教院〉
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貴族の子弟が通う〈教院〉と呼ばれる学舎があり、シャルキスラ家の人間としてアイディーンもそこに在籍していた。
「次はアイディーンの番だ」
オーレン・ナルディスが顔をしかめて言った。
アイディーンはためらいなく手もとの駒を動かす。
「王手」
「あっ」とつぶやいて、オーレンはばったりと後ろに倒れこんだ。
教院の中庭にある大樹の下でチェスをしている二人である。
ここでは五歳から十一歳までを初等院、十二歳から十四歳を中等院、十五歳から十七歳を高等院とわけられており、彼らはともに十二歳、中等院にあがったばかりだった。
「これで一勝九敗か」
オーレンは王の駒を指で弾いて倒した。
「次は〈バッカル〉でもするか」
「冗談言うなよ! もっとアイディーンに有利になるだけじゃないか」
すねて芝生をごろごろと転がる友人をよそに、アイディーンは散らばった駒をかたづけはじめた。
バッカルはチェスと同様、桝目の刻まれた四角の盤上で駒とコインを使って進めるゲームである。
複雑な戦略や戦術が必要で実戦に近い作りになっており、現役の軍人もたしなむほどで、アイディーンは同年代はもとより大人を相手にしてもひけをとらない腕だと友人は知っていた。
バッカルよりかなり単純化された遊戯であるチェスでは勝ち目はなお少ないはずだが、あるときアイディーンが意外にもチェスはやったことがないと言ったのを聞いて、すでにバッカルで負けがこんでいたオーレンは勝負をもちかけたのだった。
これまでの戦歴一勝九敗の一勝はつまり最初に解説をしながら対戦したときで、以降はずっとオーレンの大敗なのである。
「このあいだはユーリックにあっさり降伏宣言させただろう。あいつ、戦術論の講義じゃ誰にも負ける気がしないって吹聴していたから、そうとうおちこんでたぞ」
「食いつきそうな顔で勝負しろって迫ってきたから、真剣に相手をしたんだ」
アイディーンが肩をすくめたとき、ちょうど向こうから話題の当人が歩いてきた。
「聞こえたかな」と言いながらオーレンがにやにやして見ていると、ユーリックは憮然とした顔でアイディーンを呼んだ。
「ハリカから伝言を頼まれた。図書棟に来てほしいって」
「へえ、それって……」
オーレンがにやけた顔のままアイディーンをからかおうとしたが、彼は軽口をたたくでもなくユーリックに礼を言って立ちあがった。
図書棟は中等院と高等院の舎屋のあいだにある。
院外からも学者などが訪れる規模で、建物もそれに見合った重厚さだった。
正面入口から入ってすぐの談話室でハリカは待っていた。
同級生の少女である。
彼女はアイディーンの姿をみつけると、それまでのかたい表情をやわらげてうれしそうにかけよってきた。
「アイディーン、来てくれたのね」
「今日は女の子たちは授業がなかったんじゃ?」
アイディーンが問うと、少女はじれったそうに答えた。
「だって、今日は中等院春宴会の日程が発表されるじゃない」
春宴会は教院の主催で行われる宴のひとつだ。
卒院と同時に社交界へ仲間入りする院生のために設けられた練習の場でもある。
宴には、同性異性を問わずペアでの参加が義務づけられている。
同性間の婚姻は認められていないものの、個人的なつきあいや愛人としての関係は貴族のステイタスとなっており、宴やサロンで同性をともなうのは珍しくない。
「さっき一番に掲示板をみてきたの。来月の十五日だって! それでね、わたしアイディーンにペアの相手をお願いしようと思って。他の人が申しこんでしまうまえに言いたかったの」
ハリカは興奮ぎみに言った。
宴などの催しは中等院から始まる。
そして春宴会は中等院にあがって初めての宴とあって、一級生たちは皆気合いがはいっているのだった。
しかし、アイディーンは少し困った様子で首をふった。
「残念だけど、それは受けられない」
「えっ、どうして!? もう誰かに申しこまれちゃったの? それとも、わたしの家が伯爵位だから……」
「いや、違うよ」
実際にはアイディーンたち一級生や二級生より先に日程を知らされる三級生からすでに何度も申し入れがあったが、それが理由ではなかった。
ましてや、アイディーンの家が公爵位でハリカが相手では身分がつりあわないからでもない。
「その日は兄が社交場へお披露目することになっていて、俺もそれに同伴するんだ」
「兄って、クールド様? あなたがクールド様のお相手を務めるの!?」
ハリカは声高に叫んで、慌てて口をおさえた。
アイディーンは初等院のころから成績優秀で人望があり、なによりマラティヤとして有名だったが、クールドも文武に秀で切れ者と評判で、さらに二人とも非常に端正な容姿をしているため、シャルキスラ家の兄弟といえばクールドの在籍中から院内でもよく知られていた。
クールドとアイディーンがそろって教院に通う姿をみるのを密かな楽しみにする者も多くいたほどで、そのうちのひとりであるハリカが気をたかぶらせたのも無理なかった。
「ああ、アイディーンはマラティヤだもの。十二歳でお披露目したってちっともおかしくないけど、クールド様と一緒のところを見られないのは残念だわ」
ハリカは自分の申し出が断られたことなど忘れて、本気で残念そうに言う。
機嫌をそこねることもなく、しかし近いうちにピクニックへ行く約束をそつなくとりつけて、彼女は帰っていった。
扉のむこうへ消えていく背中を見送ってアイディーンがふりかえると、書架の陰からこちらを見ていた少女と目が合った。
礼儀程度に微笑みかけると、一つ二つばかり年上らしい少女は顔を赤らめて隠れてしまう。
他にもいくつかの視線を感じながら、アイディーンはもう関心を向けなかった。
こんなやりとりは特筆するまでもない彼の日常で、向けられる関心が過剰でないかぎり、すすんで関わるべきではないことを経験から学んでいた。
アイディーンが図書棟をでると、ユーリックが立っている。
ハリカに用があるのかと思ったが、彼のまなざしが自分に強くそそがれているのに気づいて、内心で苦笑とため息を入り混じらせた。
この手の勘が鋭くなってしまったのはもはや不可抗力だ。
ユーリックは大切な友人の一人だからと、それ以外の事情を察しないようにしてきたつもりだったが、ハリカの積極的な行動にあてられたせいなのか、彼は余裕のない表情をしていた。
「アイディーン、話があるんだ」
「ユーリック」
アイディーンは相手の言葉をなかばさえぎるようにして強い口調で言った。
「俺はおまえを良いライバルで良い友人だと思ってる。いままでもこれからも」
穏やかだが有無をいわせない言葉の強さにユーリックはひどく傷ついた顔をし、それをこらえるために唇を噛んだ。
想いを告げることさえ許さないのは、アイディーンが示せる最上の、そして唯一の優しさだった。
あるいは慈悲といいかえてもいい。
ユーリックは日ごろからアイディーンに対して多大な競争心をいだいており、征服したいという欲求をもっていた。
それはアイディーンへの深い関心と執着でもある。
おさえがたい感情を闘争心というかたちにおきかえることで、ユーリックは自律を保っていたのだった。
だから彼が自分の想いをあえて明確に言葉にするべきではないとアイディーンは思ったし、実際口にだして自覚してしまえば満たされない苦悩ばかりが待っている。
アイディーンに受けいれる気がないからだ。
その点でいえば、少女たちは潔いほどに割りきっている。
好意はあっても、自分のものにはならないと承知していて――淡い期待はもちろん捨てきれないが――いわば自分の心の整理をするために、アイディーンに想いをうちあけるのだ。
しかし、同性からの告白はいっときの遊びとしての誘いでなければ悲痛なほど一途で、行き詰まった末にどうにもできず爆発するような激しさで告げられる。
その心をひとつひとつ拒絶するのはアイディーンにとってとうてい楽しいことではなく、相手のためにしてやれる慰めもなかった。
だからこそ、アイディーンは同性からの告白はただ伝えるのさえ許さなかったのである。
地面をにらむようにしていたユーリックはやがてゆっくりと顔をあげ、ふとアイディーンの湖緑の髪が日の光で輝くのをまぶしげに見た。
どこまでも秀麗な顔から気まずく目をそらすと、彼はもう一言も発することができず背を向けたのだった。
アイディーンはその場にたたずんだまま、友人の姿が小さくなっていくのを見つめた。
その顔にはもはや微笑はなく、静かなまなざしだけがあった。
「次はアイディーンの番だ」
オーレン・ナルディスが顔をしかめて言った。
アイディーンはためらいなく手もとの駒を動かす。
「王手」
「あっ」とつぶやいて、オーレンはばったりと後ろに倒れこんだ。
教院の中庭にある大樹の下でチェスをしている二人である。
ここでは五歳から十一歳までを初等院、十二歳から十四歳を中等院、十五歳から十七歳を高等院とわけられており、彼らはともに十二歳、中等院にあがったばかりだった。
「これで一勝九敗か」
オーレンは王の駒を指で弾いて倒した。
「次は〈バッカル〉でもするか」
「冗談言うなよ! もっとアイディーンに有利になるだけじゃないか」
すねて芝生をごろごろと転がる友人をよそに、アイディーンは散らばった駒をかたづけはじめた。
バッカルはチェスと同様、桝目の刻まれた四角の盤上で駒とコインを使って進めるゲームである。
複雑な戦略や戦術が必要で実戦に近い作りになっており、現役の軍人もたしなむほどで、アイディーンは同年代はもとより大人を相手にしてもひけをとらない腕だと友人は知っていた。
バッカルよりかなり単純化された遊戯であるチェスでは勝ち目はなお少ないはずだが、あるときアイディーンが意外にもチェスはやったことがないと言ったのを聞いて、すでにバッカルで負けがこんでいたオーレンは勝負をもちかけたのだった。
これまでの戦歴一勝九敗の一勝はつまり最初に解説をしながら対戦したときで、以降はずっとオーレンの大敗なのである。
「このあいだはユーリックにあっさり降伏宣言させただろう。あいつ、戦術論の講義じゃ誰にも負ける気がしないって吹聴していたから、そうとうおちこんでたぞ」
「食いつきそうな顔で勝負しろって迫ってきたから、真剣に相手をしたんだ」
アイディーンが肩をすくめたとき、ちょうど向こうから話題の当人が歩いてきた。
「聞こえたかな」と言いながらオーレンがにやにやして見ていると、ユーリックは憮然とした顔でアイディーンを呼んだ。
「ハリカから伝言を頼まれた。図書棟に来てほしいって」
「へえ、それって……」
オーレンがにやけた顔のままアイディーンをからかおうとしたが、彼は軽口をたたくでもなくユーリックに礼を言って立ちあがった。
図書棟は中等院と高等院の舎屋のあいだにある。
院外からも学者などが訪れる規模で、建物もそれに見合った重厚さだった。
正面入口から入ってすぐの談話室でハリカは待っていた。
同級生の少女である。
彼女はアイディーンの姿をみつけると、それまでのかたい表情をやわらげてうれしそうにかけよってきた。
「アイディーン、来てくれたのね」
「今日は女の子たちは授業がなかったんじゃ?」
アイディーンが問うと、少女はじれったそうに答えた。
「だって、今日は中等院春宴会の日程が発表されるじゃない」
春宴会は教院の主催で行われる宴のひとつだ。
卒院と同時に社交界へ仲間入りする院生のために設けられた練習の場でもある。
宴には、同性異性を問わずペアでの参加が義務づけられている。
同性間の婚姻は認められていないものの、個人的なつきあいや愛人としての関係は貴族のステイタスとなっており、宴やサロンで同性をともなうのは珍しくない。
「さっき一番に掲示板をみてきたの。来月の十五日だって! それでね、わたしアイディーンにペアの相手をお願いしようと思って。他の人が申しこんでしまうまえに言いたかったの」
ハリカは興奮ぎみに言った。
宴などの催しは中等院から始まる。
そして春宴会は中等院にあがって初めての宴とあって、一級生たちは皆気合いがはいっているのだった。
しかし、アイディーンは少し困った様子で首をふった。
「残念だけど、それは受けられない」
「えっ、どうして!? もう誰かに申しこまれちゃったの? それとも、わたしの家が伯爵位だから……」
「いや、違うよ」
実際にはアイディーンたち一級生や二級生より先に日程を知らされる三級生からすでに何度も申し入れがあったが、それが理由ではなかった。
ましてや、アイディーンの家が公爵位でハリカが相手では身分がつりあわないからでもない。
「その日は兄が社交場へお披露目することになっていて、俺もそれに同伴するんだ」
「兄って、クールド様? あなたがクールド様のお相手を務めるの!?」
ハリカは声高に叫んで、慌てて口をおさえた。
アイディーンは初等院のころから成績優秀で人望があり、なによりマラティヤとして有名だったが、クールドも文武に秀で切れ者と評判で、さらに二人とも非常に端正な容姿をしているため、シャルキスラ家の兄弟といえばクールドの在籍中から院内でもよく知られていた。
クールドとアイディーンがそろって教院に通う姿をみるのを密かな楽しみにする者も多くいたほどで、そのうちのひとりであるハリカが気をたかぶらせたのも無理なかった。
「ああ、アイディーンはマラティヤだもの。十二歳でお披露目したってちっともおかしくないけど、クールド様と一緒のところを見られないのは残念だわ」
ハリカは自分の申し出が断られたことなど忘れて、本気で残念そうに言う。
機嫌をそこねることもなく、しかし近いうちにピクニックへ行く約束をそつなくとりつけて、彼女は帰っていった。
扉のむこうへ消えていく背中を見送ってアイディーンがふりかえると、書架の陰からこちらを見ていた少女と目が合った。
礼儀程度に微笑みかけると、一つ二つばかり年上らしい少女は顔を赤らめて隠れてしまう。
他にもいくつかの視線を感じながら、アイディーンはもう関心を向けなかった。
こんなやりとりは特筆するまでもない彼の日常で、向けられる関心が過剰でないかぎり、すすんで関わるべきではないことを経験から学んでいた。
アイディーンが図書棟をでると、ユーリックが立っている。
ハリカに用があるのかと思ったが、彼のまなざしが自分に強くそそがれているのに気づいて、内心で苦笑とため息を入り混じらせた。
この手の勘が鋭くなってしまったのはもはや不可抗力だ。
ユーリックは大切な友人の一人だからと、それ以外の事情を察しないようにしてきたつもりだったが、ハリカの積極的な行動にあてられたせいなのか、彼は余裕のない表情をしていた。
「アイディーン、話があるんだ」
「ユーリック」
アイディーンは相手の言葉をなかばさえぎるようにして強い口調で言った。
「俺はおまえを良いライバルで良い友人だと思ってる。いままでもこれからも」
穏やかだが有無をいわせない言葉の強さにユーリックはひどく傷ついた顔をし、それをこらえるために唇を噛んだ。
想いを告げることさえ許さないのは、アイディーンが示せる最上の、そして唯一の優しさだった。
あるいは慈悲といいかえてもいい。
ユーリックは日ごろからアイディーンに対して多大な競争心をいだいており、征服したいという欲求をもっていた。
それはアイディーンへの深い関心と執着でもある。
おさえがたい感情を闘争心というかたちにおきかえることで、ユーリックは自律を保っていたのだった。
だから彼が自分の想いをあえて明確に言葉にするべきではないとアイディーンは思ったし、実際口にだして自覚してしまえば満たされない苦悩ばかりが待っている。
アイディーンに受けいれる気がないからだ。
その点でいえば、少女たちは潔いほどに割りきっている。
好意はあっても、自分のものにはならないと承知していて――淡い期待はもちろん捨てきれないが――いわば自分の心の整理をするために、アイディーンに想いをうちあけるのだ。
しかし、同性からの告白はいっときの遊びとしての誘いでなければ悲痛なほど一途で、行き詰まった末にどうにもできず爆発するような激しさで告げられる。
その心をひとつひとつ拒絶するのはアイディーンにとってとうてい楽しいことではなく、相手のためにしてやれる慰めもなかった。
だからこそ、アイディーンは同性からの告白はただ伝えるのさえ許さなかったのである。
地面をにらむようにしていたユーリックはやがてゆっくりと顔をあげ、ふとアイディーンの湖緑の髪が日の光で輝くのをまぶしげに見た。
どこまでも秀麗な顔から気まずく目をそらすと、彼はもう一言も発することができず背を向けたのだった。
アイディーンはその場にたたずんだまま、友人の姿が小さくなっていくのを見つめた。
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