VOICE-Run after me-

紅と碧湖

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1章 Run after me -若狼-

36.新生

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 いつしか身に纏っていたものは取り払われていた。
 互いに上になり下になり、甘噛みを繰り返し、ときに牙をたて、歓喜の余り一方が遠吠えすれば、もう一方も吠え声を重ねる。
 遠吠えは爽快。それが人狼だけれど、二匹で吠え声を重ね合わせると、心の奥底まで洗われる清々すがすがしさがあった。
 睦み合いは、互いに吐き出すものが無くなり、寝床となっていた枯れ葉がしっとりとしても止まらない。
 身の内に注ぎ込まれた新たな命の種は、精霊に言祝がれている。
 愛しい金の瞳には確かな喜びとみなぎる力が見える。
 我が運命に正しい導きを与えたのだ。そう知って、喜びが、熱が、おさまらない。

 いつしか闇が追い払われていた。
 葉の無い枝ごしに落ちる陽の光が、愛しい番をキラキラと照らしていた。
 そうと気づいて互いに目を合わせ、いかに夢中だったのかと互いに笑みを交わす。
 明るくなっても精霊たちは辺りを漂い、祝福するかのように瞬いている。
 毛先や手足の先に陽の光を受け眩しさに目を細めつつ、番の毛先を引っ張って悪戯している精霊を見つけ、笑ってしまいながら銅色の毛先を指先で払う。毛についていた枯れ葉と一緒に精霊が飛んで、嬉しそうに瞬く。
 どちらからともなく鼻を擦りつけ合い、微笑み合った。

「……俺の、アルファ」
「我が、オメガ……」

 なんて胸に響く声。金色に輝く瞳も、鼻も髭も逞しい顎も、照れくさそうに笑んでいるくちもとも、毛の一筋すら愛おしい。

 逞しい腕が引き寄せる力にに抗わず、胸に抱かれる。銅色の毛に覆われた胸板に頬を寄せる。
 ああ、鼓動すら愛おしい。
 胸元にほおずりしながら、胸に置いた手を、逞しい腹へと撫で下ろしていく。この肌の触れ心地。さらに下は、もう全てを放出し、だらりとした雄の印……

「おい」

 大きな手が俺の手を優しく止める。

「よせ。もう空っぽだ」
「だって、ぜんぶ愛しいもの。何度だっていい。絞りだそうか?」

 クスクス笑いながら鼻を擦りつけると、俺のアルファも苦笑しながら擦りつけてくる。

「馬鹿者が」
「馬鹿なのはあんただ」

 何も知らなかったんだから仕方ないけれど。

「あんたはひたすら俺を可愛がれば良かった。ほんの子狼の頃からそうされていたら、俺はなんの不安も抱かずに、あんたがアルファになる日をただ待ったのに」

 過去のオメガから得た知識だ。

 かつて、ここが最も強大な郷と呼ばれていた頃。

 見出した番が雄だった者は、アルファになる資質を備えた者として特別な教えを受けていた。幼いうちから番とあることはプラスに働く。精神は安定し、精霊は歓び、さらなる強い成長を促され……。
 むしろ番と触れ合うことを阻害されると精神が歪みがちだった。性質がアルファに向かぬと判断され、番とまみえることを禁じられて気狂いの病になり、郷を出奔する者もあったという。

「なのにずっとずっと我慢していたなんて。あんたはまったく……」

 共に時を過ごした番同士は、オメガとなる準備が始まると接触を絶ち、穏やかな変化を待つ。この時期は引き金たる番が近寄ることは禁じられる。

 十五歳の頃、ガンマが近寄ることを禁じたのは、そのとき獣欲と食欲の区別がつかなくなっていたから、なのかもしれない。あのときは頭から俺を食いたいと思ったらしい。けどその後のケアは……まあガンマだからね。
 いつも寝てるし、言葉足りないし、シグマがそう誤解したなら、誰も訂正する者はいない。仕方ないことだった。けれど……

 今はアルファも知っている。俺が教えたから。

「そうだな」

 ただ俺を待ち続け、歪まずにいてくれた。精霊たちも驚いていたよ。

「だがもう良い」

 誰より強いアルファたる資質があるのだろうって、褒めたり馬鹿にしたりだったよ。

「おまえを我が腕に抱けたのだから、それで良い」
「うん。嬉しい……」

 ずっとこのままでいたい。
 けれど腹が減った。喉も渇いた。でも離れたくない。
 目を細めた俺のアルファが、大きな手を上げて毛を払う。

「なに?」

 目を細め、目の前に枯れ葉を見せた。

「毛に、たくさんついてる」
「ああ、ありがと……あんたも」

 俺も身体や毛を払う。
 少し湿った枯れ葉が落ちていく。

「こうしていたいのはやまやまだが……皆の所へ行かねば」

 身を起こしたアルファは俺の背に腕を回し、身を起こさせて、また毛を払う。
 クスリと笑う我が運命さだめ。ああ、朝陽を背にした俺のアルファは、なんて雄々しくも綺麗なんだろう。
 でも郷のみんななんてどうでも良いじゃない。俺とあんた、二匹でずっといられれば、それだけで。

「おまえを、皆に見せねばならない」

 宥めるように毛を撫でられ、少し不満な顔をしていたのに気づく。

「俺は、アルファとしてのつとめを果たす。聞き分けてくれ。俺のオメガ」

 分かる。
 アルファも本当は片時も離れたくないと思っているのが伝わる。
 なんの不安もない。

「……分かった。行くよ」

 だから俺は、しぶしぶ頷いてアルファの手を取り、立ち上がった。
 なにも身に纏わぬ姿のまま、郷へと二匹、ゆっくりと進む。

 いつしか、狼の姿となっていた。
 新月なのに、何の障害もなく、変化へんげしていた。



 銅色と雪灰銀の狼が、ゆったりと郷へ向かって進む。
 王者とその伴侶である風格を漂わせ。


 ただ歩むだけで、森の全てが二頭に傅いていく。


 炊事場や集会所に周囲を取り囲まれた広場。

 郷の中心たるそこに、すべての人狼が集い、背を丸めて控えていた。
 誰一人くちを開かず、しわぶきひとつ発する者なく、老いも若きも雄も雌も、いつもは落ちつきなど無い子狼たちまで、凍りついたように動かずに。

 夜半に響いた遠吠え。
 何度も聞こえたそれに、幼き者はただ畏怖を感じ、長じた者は、森を、郷を、新たに支配する者が現れたのだと悟り。
 怖れと寄る辺無さに身を寄せ合いながら、人狼たちは粛々とここに集い、地に伏し背を丸めた。
 圧倒的なものを感じ取り、けして逆らうべきではないと本能が命じるままに、二頭の偉大な狼の気配がする方向へ額ずいて、ひたすら待っていた。



 どれほどの時が経ったか。
 朝陽が昇り、人狼たちを照らし出し始めた頃。
 森の奥から悠々と近づいてくる気配を感じ取り、人狼たちの緊張は高まった。

 やがて肩を並べた二頭の狼が、森から出て来た。
 誰ひとり動かぬ中、ベータ次席セカンドだった雄が、額ずいたまま前へ進み、告げる

「偉大なるアルファ。お待ちしておりました」

 銅色の狼は、金の瞳を細める。
「よしてくれ。俺はかしずかれることを望まない」

「はっ。では失礼して」
 ひとつ年下のベータ次席は腰を上げ、そばに歩み寄りながら、もう一人のベータに目配せをする。受けたベータがいずこかへと走り去った。
 ベータ次席が背後に控えると、銅色の狼は、傍らにある淡い青灰色の狼と鼻を擦り合わせ、覇気を隠すことなく伝える。

「これは、蒼の雪灰と呼ばれていた若狼。今このときより、我がオメガとなった。みな、覚えてくれ」

 額ずいたままの人狼たちは動かずに、ただ同意の意思を返す。

「額を地につけるな。頭を上げてくれ」
 しかし人狼たちは動かない。
 狼は人型に変化し、小さくため息をついた。

「……では、命じる。頭を上げろ。立て」

 絶対者の声には、厳かな強制力がある。おずおずと、人狼たちの頭が上がった。
 何も身につけず、ひとり堂々と立つ姿を目にして、どの者も息を呑む。
 昨日までと同じ人狼であるはず。しかし明らかに、昨日とは違う。
 気配も匂いも強者のそれに変わった、彼らの主。

「この郷では、ただ額ずくことで敬意を示せると考えないでくれ」

 表情は以前と変わらない。
 しかし身内から光を発しているかのような、この存在感。
 これが真のアルファ。
 彼らのうち、このような覇気を感じたことがあるのは、他郷へ学びにいった者のみだった。彼らは他郷のアルファを目にして、自分たちのアルファと比べてしまっていた。
 しかし今、彼らの前に立つのは、他郷に劣らぬ、いや、むしろどの郷よりも強大な覇気と気配を持つ我がアルファである。
 そうと知った者たちは、心を歓びに打ち振るわせた。

「俺はアルファとなったが、郷を、森を守るのは、俺一人でできる仕事ではない。共に働こう」

 笑みを刻むその表情は、人狼たちの目に神々しいばかりに映った。
 隣にたたずんでいたオメガも人型となり、彼らの王と手を繋いだ。

「あっ」
 オメガが小さく声を上げると、アルファも厳しい眼になり、オメガと目を合わせる。小さく頷く二匹を見つめる人狼たちにも、なにやら不穏な気配が伝わる。
 そこに先ほど走り去ったベータが走り入り、アルファの前に膝をつき声を張った。

「失われました」

 それが誰のことなのか、皆すぐに分かった。
 ここ何日も、皆の治療や施薬は、昨年成人したばかりの次席セカンドやイプシロンの番がまかなっていた。
 前代のアルファが倒れたからだ。
 世話をしていた老齢の雌が、寝床に入ったまま起きないことに気づき、イプシロンの建屋に運ばれたのが十日ほど前。それからイプシロンは建屋に泊まり込み、付きっきりの世話をしていた。それが失われたということだ。

 人狼たちは不安を覚える。
 継承の儀式について何も伝えられておらず、誰もが初体験なアルファの代替わりに、何をどうするべきか分かる者はいなかった。
 儀式をせず前代のアルファが失われてしまったのだ。新たなアルファはこんなにも偉大で揺るぎない風格を漂わせている。しかし大丈夫なのだろうか。きちんと継承されなかったことで、この素晴らしいアルファに何か良くないことが起こりはしないか。

「分かってるよ。みんな、大丈夫」

 涼やかな声を発したオメガは、ニッコリと笑んでいた。

「精霊が知らせてくれたよ。継承は成された」

 人狼たちはオメガの言葉に、発される穏やかな波動に安堵する。

「うん~、みんな安心してぇ」
 声を張るでもない、のんびりした声は、建屋方向からゆっくりと歩いてきたイプシロンだった。

「最後にホッとしたって言ってた。とぉーってもいい顔でねえ。精霊に言祝がれていたよぉ」

 前代のアルファが寝込んでから不安を抱えていた人狼たの間に、穏やかな空気が流れる。

「間違いない」
 少し遅れてその場に入ってきたシグマが穏やかな声を発した。

「みんな、新たなアルファに全て任せるんだ」
 次いでアルファとオメガに眼を向け、呆れたような溜息を吐く。

「おまえら恥じらいとか……無いよな」

 ブツブツ言いながら、セカンドと共に手にした淡雪色の布を巻き付けていく。シグマ筆頭トップだけが気圧されることなく以前のままのように見えた。
 アルファとオメガは、さまざまな精霊を現す刺繍が施された布を纏わされ、互いの姿に目を瞠ってから、シグマに問う目を向ける。

「書物にあった衣は失われていたから、新たに造ったんだよ」
 示されたフィーは、まだ背を丸めて、それでも満足そうに二頭を見る。

「この精霊たちは?」
 オメガに促され、フィーは答えた。

「ガンマが言う通りに色を選んだ。色出しは難しかったけれど頑張ってみたんだ。どうだい?」
「うん、風や音も居る。ありがとう、フィー」

 穏やかに笑むオメガ。その春先に開いた花が匂い立つような笑顔に、人狼たちは皆好感を持つ。なにより崇めるアルファのそばにはべるオメガはこの者以外無いと、全ての人狼が納得した。
 そしてシグマやフィーの態度に、緊張がほぐれたように、みな身体の力を抜き、表情がほぐれていく。抱えていた僅かな不安も払拭されたようで、どの顔も穏やかで、嬉しげだ。

「皆、聞いてくれ」

 凜としたアルファの声に、人狼たちが嬉々として耳を立てる。

「我が郷に足りなかった階位クラスを配する。まず、探りカイに、我がオメガ」

 隣で深い蒼の眼を細め、オメガが頷いた。

「そして守りミュウに……」

 アルファの最初の采配は短い時間で終わり、すぐに宴の用意が始まった。
 新たなクラスを得た者たちは、オメガから改めてガンマの森へ向かうよう告げられて、顔を輝かせる。


 そうしてここに、新たな郷の歴史が始まった。

 最強と語り継がれるアルファに敬意を表し、後に『アウルム・アイス』と呼ばれることになるこの郷は、人狼にとって最後の砦となるのだが。

 それはまた、別の話である。


   《END》
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