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1章 Run after me -若狼-
29.顧みる
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葉や土が雪に覆われ、湖が氷に閉ざされる季節を前に、人狼は粛々と冬を迎える準備を始める。
雄たちは冬の間の薪とする倒木を集めては適度な大きさにする。雌たちや子狼たちが集めた森の恵は、塩づけ肉を燻したものと共に炊事場近くの洞へ蓄えられる。
成獣は儀式の森の庵に必要なものを揃え、若狼が儀式へ向かうとき持たせるよう準備する。
そうして雪が来るのを待つのだ。
人狼にとって、冬は豊かな季節である。
洞に蓄えた果実や木の実はおのずと熟成して深い味わいを得る。塩づけ肉は温かいスープとなり、胃の腑から人狼たちを暖める。
実りの季節に蓄えた蜂蜜は、その為だけに使われるハーブと共に漬け込んで、味わい深い蜂蜜酒となる。熟成した木の実や果実は蜂蜜酒ともよく合う。冬ならではの甘露である。
冬は狩りに良い季節でもある。
鋭いルウの感覚は雪に隠れる生命、冬眠するリスなど小動物、ときには熊、そして成獣の鹿や老いた鹿などを感じ取って、獲物を郷へもたらす。眠るために実りを食い溜めた獣は肥えており、その血肉やはらわたは、雪に閉ざされた郷でこそ愉しめる、格別なごちそうだ。
冷たい風は獲物を冬毛にしており、得られる毛皮は人狼の棲まいに敷かれたり、暖かい外着になる。
初めての冬を迎える子狼は、一つ年かさの子狼と共に雪の上を走り回り、じゃれ合いながら匂いや気配を、狩りの手順を覚えていく。子狼を守りながら森に入る成獣は森を整える務めを果たす。
余分な枝を落とし、朽ちかけの木を倒す。これは森を治める人狼の大切なつとめだ。得られた枝や幹は、暖をとる薪になり、幼狼を産む番の棲まいを整える材となる。
そうして雄も雌も若狼も、みながつとめを果たすべく働き、その周りで遊ぶ子狼も人狼のつとめをおのずと理解して行く。
冬は、命を育む季節でもある。
この春に番のいた雌たちが、冬が深まると次々仔を産むのだ。
番は力を合わせ、ねぐらで幼狼を育む。
幼狼を健やかに育てることは、郷にとってなにより大切なこと。それ以外の勤めなど二の次三の次だとみなが分かっているから、郷の全てが育児に協力する。
やがて雪に覆われた郷や森をよちよちと駆ける幼狼の姿が見られるようになる頃、ガンマの洞穴からほど近い森の奥で成人の儀が行われる。
儀式を受け階位を得た若狼たちは、周囲に数々設えた粗末な庵で夜を十二ほど過ごし、成獣となる。
冬は、神聖な季節でもあるのだ。
そんな季節の入り口を肌で感じ取ったある夜。
あと夜七つで誕生した夜となる蒼の雪灰が、ひとり儀式の森へ入った。
ガンマからそれを聞いたシグマがアルファへ奏上し、アルファはルウの三番手へ命じた。
『至急郷へ戻れ』
そうベータ筆頭へ伝えろ。
◇ ◆ ◇
報せを伝えられた俺は金のアルファに即刻暇を告げ、三番手を引き連れて疾駆した。
ただでさえ皆とは違う階位を受ける蒼の雪灰なのだ。今までとは違うことが起こることは考えられた。そもそも成人前に番が近寄ってはいけないなどありえないこと、今までなかったことだ。
さらに常とは違う時期に儀式の森へ入ったというのだ。何が起こったのか。身体が落ち着いたのか? それともなにか良くないことが起こって、ときを待たずに入らざるを得なかったのか?
我が番を案じる心で足は止まらず、飲まず食わず眠らずで郷まで走り抜けるつもりだったのだが、一昼夜経過した頃、三番手に止められた。
「ちょ、落ち着けって。儀式の森に入れば、夜を十二数えるくらい出てこないって知ってるだろ」
「しかし、なにか悪いことが起こっているのではないのか」
「知らんよ、けど、だとしても、あんたが急いで帰ったところで、できることなんて無いだろ」
分かっている。儀式の森は常に閉ざされる場所。
儀式が行われるときのみ、儀式を受ける若狼だけがガンマに導かれ向かう場所。
若狼が精霊からゆるぎない恵みを与えられるよう、その間はガンマですら足を踏み入れることが無いのだ。何者であろうと儀式を邪魔してははいけない。分かっている。焦っても自分にできることなど無い。
そのまま野宿をしたが、逸る気持ちは抑えきれず、短い仮眠から目覚めると三番手を叩き起こして、俺は疾駆した。
永の年月、待ちに待ったのだ。この腕に蒼の雪灰を迎えられるときを待っていたのだ。悠長に構えていられるわけがないではないか。
休もうとする三番手を叱咤して、それから一度も足を止めずに郷まで走り抜けた。
到着したのは夜を三つ越えた朝である。
「おまえらの足、異常だなー!」
「ていうか早く来すぎだっての! 森に入ってまだ夜七つだから!」
などとルウ次席やシグマ筆頭に言われながら、鼻は、耳は、肌は、愛しい気配を、匂いを求めた。こっちにいると分かったとき、衝動的に森へ踏み入ろうとして、ルウやらカッパやらベータの次席やらに寄ってたかって止められる。
「もう少し待て」
「分からんじゃねえけど落ち着け」
「おま、いくら急いだって行って帰ってに夜十個ははかかるだろ普通! 三番手がヨレヨレになってるじゃないか! 初めて見たよ、コイツがこんなになってんの」
声を高め、腹を抱えて爆笑するシグマを横目に、俺は唸る。
確かに到着は早過ぎたかも知れない。しかし、それのなにが悪いというのか。
ことさら胸を張って睨みをきかせたのに、シグマの笑いをさらに煽る結果を呼んだ。
呼吸すら苦しそうなシグマをいつもどおり放置して、ルウ筆頭が感慨深げに目を細めている。
「あいつが成人か。良いルウになるだろうと期待していたが」
そうだ、蒼の雪灰は期待されていた。優れているのだ。
ひょろっと顔を出したイプシロンが、にまにま笑んでいる。
「まあねぇ、オメガなんだからねえ。ルウとは違う恵みを得るんだろうなぁ。楽しみだねえ」
しかし我が番に課されたつとめは、誰もが予測し得ぬものだった。
そのため、辛い思いをしたのだろう。心が痛む。
カッパが顎を擦りながら言う。
「それよりおまえの棲まい。あいつがしっかり整えたんだ。見てやれよ」
ハッとした。
そうだ、蒼の雪灰は俺の棲まいを用意すると言っていた。
カッパに誘われ向かったそれは、森にほど近い他の棲まいと離れた場所にぽつんと設えられていた。ここは確か、いつ壊すか相談をしていた朽ちかけがあった場所だ。
「見事に直してくれたな。さすがだ、カッパ」
新しい枝葉で葺かれた棲まいは屋根が高く、二本の柱でしっかりと支えられていて、二匹だけで棲むものとしては大きめだ。窓には葉が下げられ、出入り口は枝を編んだものがあり、凝った作りになっている。
「その出入り口、あいつが心を込めてやってたぞ。窓だってな、雌たちにからかわれながら頑張ってた」
カッパの声に、全身が感動で打ち震える。
そうか、辛いであろう中、俺と二匹で過ごす棲まいのために……
「中も見てやれよ。なかなか居心地よさそうに仕上がってる」
頷いて一歩踏み入れると、気持ちの良い匂いがした。
こんもりと盛り上がった寝床は、寝心地が良さそうだ。こぢんまりとした炉には、いかにも不慣れな造りの、簡単な鍋が刺さっている。
炉の周りに敷いてある布に腰を下ろし、改めて見回した。
「……いいな。良い棲まいだ」
「おう、一所懸命やってたぞ。雌たちも喜んで手伝ってた」
「おお~? いいねえ、いい感じじゃないか」
ようやく笑いの収まったらしいシグマも入ってくる。
火種の落ちていた炉に火を熾していたら、フィーが気を利かせて茶を持って来た。水瓶から汲んだ水を我が番の造った鍋に満たし、茶を淹れることにする。
ルウ筆頭やイプシロンもやってきて、炉を囲むように座る。成獣の雄が五匹入っても座れるとは、かなり大きい棲まいだ。
「あいつ、どんな風になるんだろうな」
ぽつりと漏らしたルウは、やはり感慨深げだ。
誘われるように想像する。
おそらく、神々しいほど美しいに違いない。
「あの子はぁ、頑張り屋さんだからねぇ」
「だーいじょうぶだよ! ガンマもついてる」
イプシロンとシグマも言いつつ、茶を啜る。
カッパは屋根や柱の様子などしげしげ眺めながら顎を擦ってる。
「どうだ見てみろ。柱を二本使って頑丈に組んだんだぞ。おまえら二匹で組んずほぐれつしても大丈夫なようにな」
「……ああ」
組んずほぐれつ……そうか。組んずほぐれつか。
「おい、聞いてるのか。見ろと言ってるだろう」
「ああ……、ああ。そうだな、立派な柱だ」
シグマがブッと吹き出して俺の肩を小突く。
「なーにワクワクしちゃってるの? 待ちきれないとか?」
「…………そういうことではない」
からかうような声を向けられ、憮然と返しながら、柱や窓の辺りを睨む。
「素晴らしい棲まいだ。広くて、丈夫で、いい匂い……」
「うっそ! おまえホント誤魔化し下手だな!!」
また爆笑し始めたシグマの向こうで、ルウが目を細めて茶を啜った。
「……思い出すな。成人の儀」
ルウは俺とイプシロンと同じ、世代で最初に儀式を越えた同期だ。
「……ああ。思い出すな」
「懐かしいねぇ」
────あの当時、働ける成獣はいないに等しかった。
雌たちは衰え無気力になって働かず、若い雄共も郷のための働きに積極的ではなく、……そいつらにはアルファの威光が及ばないようで、叱咤しても動かなかったのだ。
冬を十越えるほどの間、郷では儀式が行われていなかったが、アルファと老いた者たちで念のためにと準備をしてくれて、俺たちは無事に成人の儀を越えることができた。
成人の儀は、儀式の森にて行われる。
そこには庵が設えてあり、その中で若狼は成獣となる。
成獣は恙なく儀式を終えられるようガンマの森までの道を清め、準備をする。そして、そのときが来たら若狼たちの身を清め、送り出すのだ。
ときが来て精霊に呼ばれた俺は、同じように呼ばれた七匹と共にガンマの森に入った。
ガンマに導かれ、儀式の森に入ると、そこは冬とは思えぬほど暖かく、草木は春や夏や秋の、様々な色と匂いに彩られていた。中央に丸く苔の生えた場所があり、誘われるようにその周りに佇むうち、俺たちは自らの階位を知った。
すぐに潜り込もうとした庵は朽ちかけていた。
念のためにと持たされた大きな葉を庵にかぶせ、良い匂いの草を敷いて、俺たちは庵の中で丸くなる。引きずり込まれるように眠り────それからのことは覚えていない。
夜を十二越えるほどの間、何も感じず、なにも考えず、心地よいものに包まれ揺蕩うのみ。
やがて目覚めたとき、庵の中で丸まったまま、俺は自らが以前と違うことを知った。
体内に満ちる精強で堅牢な何か。それがあふれ出さんばかりに漲っていることに驚いた。
自ら発見する、揺るぎない己。
郷の一員であり、森を治める者なのだという自覚。
歓びに満たされながら庵を出て、ゆっくりと身を伸ばし、ハッとした。中央の苔の辺りに光が落ちていたのだ。
どこから来るのか、柔らかな光はぼんやりと苔を照らし、俺はそれが自分を受け容れてくれていると感じる。そうと分かって更なる歓びに満たされ、苔のある場所へ歩み寄ったが踏むことは躊躇われ、すぐ近くに立った。
一匹、二匹、庵から出てきては、同じように苔の周りに立ち、俺たちは互いを驚きで見つめ合った。
それまでとは違う匂いを発し、堂々たる表情の同輩たち。例外なく確信に満ち、輝いている。おそらく自分も同じなのだ。
これが成獣。儀式を越えるということ。
精霊に言祝がれるとは、こういうことなのだ。
そのときそこにいた雄七匹の感覚が共有されていた。皆が同じ歓びを知ったのだと分かった。
共に在れる歓び。
己にはなにができるか。その時既におのおの考え始めている。ルウが、イプシロンが、そして俺も、それぞれが強い意欲をくちにして、深い歓びと共に語り合う。それぞれの仕事を全うすることで成り立つ。それこそが人狼の郷なのだと、その一員となったのだと、俺たちは知ったのだ。
オメガの森の外れ、辻の辺りには、数少ない成獣すべてが待っていた。
アルファが、老いたものたちが、そのころすでに寝てばかりだったオメガも。そこでまた共有される感覚に、感じ取れた一体感に、心が震えた。
アルファが頭。オメガが心臓。脳、手、足、目、鼻、そして牙。……それぞれがそれぞれの役割を全うし、一体となってこの森を治める。
ハッキリと分かった。
これが群れ。人狼のありかた。
我々は群れでひとつの生き物なのだ。
次の冬は老いたものに加えて俺たちも、儀式を滞りなく進められるよう準備した。
そのとき儀式に向かったのは、カッパやベータ次席ら十四匹の雄。
しかし十八をはるか過ぎても精霊に呼ばれずにいた若い雄どもは、俺たちが階位を得たことに怒り、今度こそ自分たちも儀式を越えるのだとゴリ押しして儀式の森へ押し入ろうとした。
あの森は精霊に呼ばれたもののみがガンマにより導かれる場所。それ以外のものにはどこにあるかすら分からない。精霊に呼ばれなければ、入れるわけがないのだ。
だが、やつらは分かっていなかった。ガンマの森の奥へ行けば良いのだと思い込んでいた。
強引に、あるいは隠れて、やつらは森に乱入しようとしたが、俺たちは遺漏無く補足し、威嚇して、足を踏み入れるどころか、近寄ることすら許さなかった。腰砕けになりつつ向かってきたやつらを阻止する内、俺はふつふつと燃え上がる怒りに咆哮した。
郷の神聖な儀式の妨害など、許せるものか。
儀式を越えていない若狼など、年上だろうが敵では無い。
彼我の違いを思い知らせてやる。
怒りが、こぶしが、足が、牙が、止まらなかった。イプシロンやルウに止められても止まらなかった。
『静まれ! 同族殺しになるつもりか!!』
アルファが吼え、俺はなんとか動きを止めた。気づくと一匹残らず打ち倒し、半殺しにしていた。
神聖な儀式をさまたげるものなど、正しい郷の形に至る第一歩に差し支えるようなものなど、郷には必要ない。俺はその場で、アルファを差し置いて、やつらの追放を宣言した。
それにはルウなど同世代も同意し、アルファは苦渋の表情で俺たちの選択を受け容れた。
俺たちは一切気を緩めず、やつらが郷から完全に離れるまで見張っていた。
その道行きでアルファは何事か言い含めていたが、やつらはそれ以降、郷の森へ入れなくなったようだった。
「あのときは、必死だったな」
「確かに。おまえを止めるのに必死になった」
ルウと共に思い返していると、イプシロンがほよほよ笑った。
「ルウは昔っからツッコミ鋭いよねぇ」
クッと笑うルウを横目で睨み、茶を飲む。
雄たちは冬の間の薪とする倒木を集めては適度な大きさにする。雌たちや子狼たちが集めた森の恵は、塩づけ肉を燻したものと共に炊事場近くの洞へ蓄えられる。
成獣は儀式の森の庵に必要なものを揃え、若狼が儀式へ向かうとき持たせるよう準備する。
そうして雪が来るのを待つのだ。
人狼にとって、冬は豊かな季節である。
洞に蓄えた果実や木の実はおのずと熟成して深い味わいを得る。塩づけ肉は温かいスープとなり、胃の腑から人狼たちを暖める。
実りの季節に蓄えた蜂蜜は、その為だけに使われるハーブと共に漬け込んで、味わい深い蜂蜜酒となる。熟成した木の実や果実は蜂蜜酒ともよく合う。冬ならではの甘露である。
冬は狩りに良い季節でもある。
鋭いルウの感覚は雪に隠れる生命、冬眠するリスなど小動物、ときには熊、そして成獣の鹿や老いた鹿などを感じ取って、獲物を郷へもたらす。眠るために実りを食い溜めた獣は肥えており、その血肉やはらわたは、雪に閉ざされた郷でこそ愉しめる、格別なごちそうだ。
冷たい風は獲物を冬毛にしており、得られる毛皮は人狼の棲まいに敷かれたり、暖かい外着になる。
初めての冬を迎える子狼は、一つ年かさの子狼と共に雪の上を走り回り、じゃれ合いながら匂いや気配を、狩りの手順を覚えていく。子狼を守りながら森に入る成獣は森を整える務めを果たす。
余分な枝を落とし、朽ちかけの木を倒す。これは森を治める人狼の大切なつとめだ。得られた枝や幹は、暖をとる薪になり、幼狼を産む番の棲まいを整える材となる。
そうして雄も雌も若狼も、みながつとめを果たすべく働き、その周りで遊ぶ子狼も人狼のつとめをおのずと理解して行く。
冬は、命を育む季節でもある。
この春に番のいた雌たちが、冬が深まると次々仔を産むのだ。
番は力を合わせ、ねぐらで幼狼を育む。
幼狼を健やかに育てることは、郷にとってなにより大切なこと。それ以外の勤めなど二の次三の次だとみなが分かっているから、郷の全てが育児に協力する。
やがて雪に覆われた郷や森をよちよちと駆ける幼狼の姿が見られるようになる頃、ガンマの洞穴からほど近い森の奥で成人の儀が行われる。
儀式を受け階位を得た若狼たちは、周囲に数々設えた粗末な庵で夜を十二ほど過ごし、成獣となる。
冬は、神聖な季節でもあるのだ。
そんな季節の入り口を肌で感じ取ったある夜。
あと夜七つで誕生した夜となる蒼の雪灰が、ひとり儀式の森へ入った。
ガンマからそれを聞いたシグマがアルファへ奏上し、アルファはルウの三番手へ命じた。
『至急郷へ戻れ』
そうベータ筆頭へ伝えろ。
◇ ◆ ◇
報せを伝えられた俺は金のアルファに即刻暇を告げ、三番手を引き連れて疾駆した。
ただでさえ皆とは違う階位を受ける蒼の雪灰なのだ。今までとは違うことが起こることは考えられた。そもそも成人前に番が近寄ってはいけないなどありえないこと、今までなかったことだ。
さらに常とは違う時期に儀式の森へ入ったというのだ。何が起こったのか。身体が落ち着いたのか? それともなにか良くないことが起こって、ときを待たずに入らざるを得なかったのか?
我が番を案じる心で足は止まらず、飲まず食わず眠らずで郷まで走り抜けるつもりだったのだが、一昼夜経過した頃、三番手に止められた。
「ちょ、落ち着けって。儀式の森に入れば、夜を十二数えるくらい出てこないって知ってるだろ」
「しかし、なにか悪いことが起こっているのではないのか」
「知らんよ、けど、だとしても、あんたが急いで帰ったところで、できることなんて無いだろ」
分かっている。儀式の森は常に閉ざされる場所。
儀式が行われるときのみ、儀式を受ける若狼だけがガンマに導かれ向かう場所。
若狼が精霊からゆるぎない恵みを与えられるよう、その間はガンマですら足を踏み入れることが無いのだ。何者であろうと儀式を邪魔してははいけない。分かっている。焦っても自分にできることなど無い。
そのまま野宿をしたが、逸る気持ちは抑えきれず、短い仮眠から目覚めると三番手を叩き起こして、俺は疾駆した。
永の年月、待ちに待ったのだ。この腕に蒼の雪灰を迎えられるときを待っていたのだ。悠長に構えていられるわけがないではないか。
休もうとする三番手を叱咤して、それから一度も足を止めずに郷まで走り抜けた。
到着したのは夜を三つ越えた朝である。
「おまえらの足、異常だなー!」
「ていうか早く来すぎだっての! 森に入ってまだ夜七つだから!」
などとルウ次席やシグマ筆頭に言われながら、鼻は、耳は、肌は、愛しい気配を、匂いを求めた。こっちにいると分かったとき、衝動的に森へ踏み入ろうとして、ルウやらカッパやらベータの次席やらに寄ってたかって止められる。
「もう少し待て」
「分からんじゃねえけど落ち着け」
「おま、いくら急いだって行って帰ってに夜十個ははかかるだろ普通! 三番手がヨレヨレになってるじゃないか! 初めて見たよ、コイツがこんなになってんの」
声を高め、腹を抱えて爆笑するシグマを横目に、俺は唸る。
確かに到着は早過ぎたかも知れない。しかし、それのなにが悪いというのか。
ことさら胸を張って睨みをきかせたのに、シグマの笑いをさらに煽る結果を呼んだ。
呼吸すら苦しそうなシグマをいつもどおり放置して、ルウ筆頭が感慨深げに目を細めている。
「あいつが成人か。良いルウになるだろうと期待していたが」
そうだ、蒼の雪灰は期待されていた。優れているのだ。
ひょろっと顔を出したイプシロンが、にまにま笑んでいる。
「まあねぇ、オメガなんだからねえ。ルウとは違う恵みを得るんだろうなぁ。楽しみだねえ」
しかし我が番に課されたつとめは、誰もが予測し得ぬものだった。
そのため、辛い思いをしたのだろう。心が痛む。
カッパが顎を擦りながら言う。
「それよりおまえの棲まい。あいつがしっかり整えたんだ。見てやれよ」
ハッとした。
そうだ、蒼の雪灰は俺の棲まいを用意すると言っていた。
カッパに誘われ向かったそれは、森にほど近い他の棲まいと離れた場所にぽつんと設えられていた。ここは確か、いつ壊すか相談をしていた朽ちかけがあった場所だ。
「見事に直してくれたな。さすがだ、カッパ」
新しい枝葉で葺かれた棲まいは屋根が高く、二本の柱でしっかりと支えられていて、二匹だけで棲むものとしては大きめだ。窓には葉が下げられ、出入り口は枝を編んだものがあり、凝った作りになっている。
「その出入り口、あいつが心を込めてやってたぞ。窓だってな、雌たちにからかわれながら頑張ってた」
カッパの声に、全身が感動で打ち震える。
そうか、辛いであろう中、俺と二匹で過ごす棲まいのために……
「中も見てやれよ。なかなか居心地よさそうに仕上がってる」
頷いて一歩踏み入れると、気持ちの良い匂いがした。
こんもりと盛り上がった寝床は、寝心地が良さそうだ。こぢんまりとした炉には、いかにも不慣れな造りの、簡単な鍋が刺さっている。
炉の周りに敷いてある布に腰を下ろし、改めて見回した。
「……いいな。良い棲まいだ」
「おう、一所懸命やってたぞ。雌たちも喜んで手伝ってた」
「おお~? いいねえ、いい感じじゃないか」
ようやく笑いの収まったらしいシグマも入ってくる。
火種の落ちていた炉に火を熾していたら、フィーが気を利かせて茶を持って来た。水瓶から汲んだ水を我が番の造った鍋に満たし、茶を淹れることにする。
ルウ筆頭やイプシロンもやってきて、炉を囲むように座る。成獣の雄が五匹入っても座れるとは、かなり大きい棲まいだ。
「あいつ、どんな風になるんだろうな」
ぽつりと漏らしたルウは、やはり感慨深げだ。
誘われるように想像する。
おそらく、神々しいほど美しいに違いない。
「あの子はぁ、頑張り屋さんだからねぇ」
「だーいじょうぶだよ! ガンマもついてる」
イプシロンとシグマも言いつつ、茶を啜る。
カッパは屋根や柱の様子などしげしげ眺めながら顎を擦ってる。
「どうだ見てみろ。柱を二本使って頑丈に組んだんだぞ。おまえら二匹で組んずほぐれつしても大丈夫なようにな」
「……ああ」
組んずほぐれつ……そうか。組んずほぐれつか。
「おい、聞いてるのか。見ろと言ってるだろう」
「ああ……、ああ。そうだな、立派な柱だ」
シグマがブッと吹き出して俺の肩を小突く。
「なーにワクワクしちゃってるの? 待ちきれないとか?」
「…………そういうことではない」
からかうような声を向けられ、憮然と返しながら、柱や窓の辺りを睨む。
「素晴らしい棲まいだ。広くて、丈夫で、いい匂い……」
「うっそ! おまえホント誤魔化し下手だな!!」
また爆笑し始めたシグマの向こうで、ルウが目を細めて茶を啜った。
「……思い出すな。成人の儀」
ルウは俺とイプシロンと同じ、世代で最初に儀式を越えた同期だ。
「……ああ。思い出すな」
「懐かしいねぇ」
────あの当時、働ける成獣はいないに等しかった。
雌たちは衰え無気力になって働かず、若い雄共も郷のための働きに積極的ではなく、……そいつらにはアルファの威光が及ばないようで、叱咤しても動かなかったのだ。
冬を十越えるほどの間、郷では儀式が行われていなかったが、アルファと老いた者たちで念のためにと準備をしてくれて、俺たちは無事に成人の儀を越えることができた。
成人の儀は、儀式の森にて行われる。
そこには庵が設えてあり、その中で若狼は成獣となる。
成獣は恙なく儀式を終えられるようガンマの森までの道を清め、準備をする。そして、そのときが来たら若狼たちの身を清め、送り出すのだ。
ときが来て精霊に呼ばれた俺は、同じように呼ばれた七匹と共にガンマの森に入った。
ガンマに導かれ、儀式の森に入ると、そこは冬とは思えぬほど暖かく、草木は春や夏や秋の、様々な色と匂いに彩られていた。中央に丸く苔の生えた場所があり、誘われるようにその周りに佇むうち、俺たちは自らの階位を知った。
すぐに潜り込もうとした庵は朽ちかけていた。
念のためにと持たされた大きな葉を庵にかぶせ、良い匂いの草を敷いて、俺たちは庵の中で丸くなる。引きずり込まれるように眠り────それからのことは覚えていない。
夜を十二越えるほどの間、何も感じず、なにも考えず、心地よいものに包まれ揺蕩うのみ。
やがて目覚めたとき、庵の中で丸まったまま、俺は自らが以前と違うことを知った。
体内に満ちる精強で堅牢な何か。それがあふれ出さんばかりに漲っていることに驚いた。
自ら発見する、揺るぎない己。
郷の一員であり、森を治める者なのだという自覚。
歓びに満たされながら庵を出て、ゆっくりと身を伸ばし、ハッとした。中央の苔の辺りに光が落ちていたのだ。
どこから来るのか、柔らかな光はぼんやりと苔を照らし、俺はそれが自分を受け容れてくれていると感じる。そうと分かって更なる歓びに満たされ、苔のある場所へ歩み寄ったが踏むことは躊躇われ、すぐ近くに立った。
一匹、二匹、庵から出てきては、同じように苔の周りに立ち、俺たちは互いを驚きで見つめ合った。
それまでとは違う匂いを発し、堂々たる表情の同輩たち。例外なく確信に満ち、輝いている。おそらく自分も同じなのだ。
これが成獣。儀式を越えるということ。
精霊に言祝がれるとは、こういうことなのだ。
そのときそこにいた雄七匹の感覚が共有されていた。皆が同じ歓びを知ったのだと分かった。
共に在れる歓び。
己にはなにができるか。その時既におのおの考え始めている。ルウが、イプシロンが、そして俺も、それぞれが強い意欲をくちにして、深い歓びと共に語り合う。それぞれの仕事を全うすることで成り立つ。それこそが人狼の郷なのだと、その一員となったのだと、俺たちは知ったのだ。
オメガの森の外れ、辻の辺りには、数少ない成獣すべてが待っていた。
アルファが、老いたものたちが、そのころすでに寝てばかりだったオメガも。そこでまた共有される感覚に、感じ取れた一体感に、心が震えた。
アルファが頭。オメガが心臓。脳、手、足、目、鼻、そして牙。……それぞれがそれぞれの役割を全うし、一体となってこの森を治める。
ハッキリと分かった。
これが群れ。人狼のありかた。
我々は群れでひとつの生き物なのだ。
次の冬は老いたものに加えて俺たちも、儀式を滞りなく進められるよう準備した。
そのとき儀式に向かったのは、カッパやベータ次席ら十四匹の雄。
しかし十八をはるか過ぎても精霊に呼ばれずにいた若い雄どもは、俺たちが階位を得たことに怒り、今度こそ自分たちも儀式を越えるのだとゴリ押しして儀式の森へ押し入ろうとした。
あの森は精霊に呼ばれたもののみがガンマにより導かれる場所。それ以外のものにはどこにあるかすら分からない。精霊に呼ばれなければ、入れるわけがないのだ。
だが、やつらは分かっていなかった。ガンマの森の奥へ行けば良いのだと思い込んでいた。
強引に、あるいは隠れて、やつらは森に乱入しようとしたが、俺たちは遺漏無く補足し、威嚇して、足を踏み入れるどころか、近寄ることすら許さなかった。腰砕けになりつつ向かってきたやつらを阻止する内、俺はふつふつと燃え上がる怒りに咆哮した。
郷の神聖な儀式の妨害など、許せるものか。
儀式を越えていない若狼など、年上だろうが敵では無い。
彼我の違いを思い知らせてやる。
怒りが、こぶしが、足が、牙が、止まらなかった。イプシロンやルウに止められても止まらなかった。
『静まれ! 同族殺しになるつもりか!!』
アルファが吼え、俺はなんとか動きを止めた。気づくと一匹残らず打ち倒し、半殺しにしていた。
神聖な儀式をさまたげるものなど、正しい郷の形に至る第一歩に差し支えるようなものなど、郷には必要ない。俺はその場で、アルファを差し置いて、やつらの追放を宣言した。
それにはルウなど同世代も同意し、アルファは苦渋の表情で俺たちの選択を受け容れた。
俺たちは一切気を緩めず、やつらが郷から完全に離れるまで見張っていた。
その道行きでアルファは何事か言い含めていたが、やつらはそれ以降、郷の森へ入れなくなったようだった。
「あのときは、必死だったな」
「確かに。おまえを止めるのに必死になった」
ルウと共に思い返していると、イプシロンがほよほよ笑った。
「ルウは昔っからツッコミ鋭いよねぇ」
クッと笑うルウを横目で睨み、茶を飲む。
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このまま一晩ナニをしなければ、死んでしまうと知って、朱音は一宿一飯の恩義と、淡い恋心からデュアロスにその身を捧げた。
しかしそこから、なぜだかわからないけれど監禁生活が始まってしまい……。
好きだからこそ身を捧げた異世界女性と、強い覚悟を持って異世界女性を抱いた男が異世界婚をするまでの、しょーもないアレコレですれ違う二人の恋のおはなし。
※いつもコメントありがとうございます!現在、返信が遅れて申し訳ありません(o*。_。)oペコッ 甘口も辛口もどれもありがたく読ませていただいてます(*´ω`*)
※他のサイトにも重複投稿しています。
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椿蛍
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