VOICE-Run after me-

紅と碧湖

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1章 Run after me -若狼-

28.ガンマの森へ

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 実りの季節も終わり、もうすぐ雪が来る。俺が産まれた季節だ。
 風は冷たいけれど、棲まいにはいい匂いの風が吹き抜けて、むしろ心地良い。
 寝床の草からは良い香りが漂っている。でも…… 
 ベータの棲まいなのに、ベータはまだ、あの郷から戻って来ていない。

 ──────いつ、戻ってくるんだろう。

 あれから何度か、アルファの匂いがこの棲まいに近づいてきたけど、そのたびにすぐ逃げた。カッパやベータ次席やイプシロンが来て、アルファと話し合えと言われたけど、俺は絶対に嫌だと言った。
 ベータを待つ、おとなしく待ってるって約束したから、暴れたりはしてない。
 でもアルファと逢うのは絶対に嫌だったし、この棲まいに入られるのも嫌だった。
 シグマは俺に近寄れないっていうから、いつベータが帰ってくるのかイプシロンを介して聞いたけど

「そりゃ俺には分からんよ。ガンマ次第だ」

 シグマはそう言ったって。じゃあガンマに聞こうと洞穴まで行ったけど、深く眠ってるみたいでいくら揺すっても寝床から顔も上げなくて、ぜんぜん起きない。なにも話せないまま帰ってきた。
 けど、あの洞穴に入れるのはシグマ筆頭だけだ。一度イプシロンを介して頼んで、ガンマのところに行って貰ったけれど、『もう少し』しか言わないって呆れてた。つまり、何も分からない。
 ああ、雪が来る前に帰ってきてくれないかな。早くこの棲まいを見て欲しいな。ここを見たら、なんて言うかな。
 二匹で森を歩いたり、色んな話もしたい。
 ベータのこと、たくさん教えて貰う。俺のことも全部分かって貰う。
 ううん、そんなことより……逢いたい。
 逢いたいよ。逢いたい逢いたい逢いたい。
 こっちに居るって分かるのに、行けない。
 だって俺は約束した。

『俺、おとなしく待ってるよ』

 だからベータの所へ行けない。
 だから俺は待つ。
 約束通り待ってる。

 だから、早く帰ってきて。
















 ふっと、目が覚めた。

 ────おいで

 呼ばれてる。

 ──────おいで

 ──────はやくおいで
 ──────おいで、おいで
 ──────ときがきたよ

 ──────おいで、おいで

「……どこに」

 ────こっちだよ
 ────こっち

「こっち?」

 ────こっちだよ
 ────おいで
 ────おいで

 ──────おいで……

 呼ぶ声が俺を包む。
 耳に聞こえるんじゃない。肌に響くよう……これは精霊たちだ。
 近くにいる。たくさんいる。いつも瞬いてるだけで、嬉しそうとか愉しそうとかは分かるけど、こんなふうに呼びかけることもあるんだ。
 俺は寝床から出た。ふわ、とあくびが漏れる。
 俺が眠いとか、眠る時間とか、精霊には関係ないからなあ。
 扉を開いて、棲まいから一歩出ると……

「うわ」

 思わず声を上げていた。
 だって、群がってきたんだ。
 黄色、青、赤、緑、橙、白、水色、黄緑…………いろんな光。
 夜闇の中、精霊たちはキラキラと光ってる。こんなにハッキリ見えたのは初めてだ。
 なんとなく嬉しい。
 精霊たちが嬉しそうに瞬いているから。

「入ってくればいいのに」

 ────いや
 ────いや
 ────いや
 ──────いや

「中に入るのが? いやなの?」

 ────いこう
 ────いこう

 精霊は言いたいことを言うだけ。いちいち答えてはくれない。

 ────いこう
 ────いこう
 ────いこう

「どこへ?」

 ────こっち
 ────こっち
 ────こっち

 精霊たちはフワフワ進む。
 ついていくと、光は森へ入っていく。
 暗い森の樹間を、フワフワ漂う光が進むのはとてもキレイで、みんなとてもワクワクしてるのが分かった。俺もどんどん嬉しくなっていきながら、精霊たちを追いかける。
 どんどん進むと辻になり、今は誰もいない先輩ルウのカザエが見えた。
 この先はガンマの森だ。精霊たちに誘われるまま進んでいく。
 光はどんどん増えていく。色んな光が、そこら中に漂ってる。

 この森は子供の頃、入ってはいけない場所だった。理由を聞いても、みんな「そのうち分かる」としか言わないから、仲の良い何匹かと、こっそり入ろうとしたことがあった。けれど踏み込んで十五歩も進むと、なぜだかすごく怖くなって駆け戻ったっけ。
 でも、金の銅色へ向かって走ったときから精霊を感じるようになったから、分かる。ここにはものすごくたくさん精霊が居るんだ。

 ―――気配や匂い。
 それは、どんなに小さな生き物であっても、生きている限り、必ず常に発している。
 湖や川を泳ぐ魚にも獣も、小さな虫や木や花も、草むらに茂る草たちも、それは同じだ。
 ほんの幼い頃から、人狼おれたちはそういうものを感じ取っている。匂いを、気配を感じてそこに何があるか知るし、どうするか判断するときも、見たり聞いたりするよりも感覚に頼ってる。だから分からなくなるのは、すごく怖いことなんだ。
 なのに、ここにいる精霊は、その感覚を邪魔する。郷にもたくさんの精霊がいるけど、俺たちの邪魔になるようなことはしない。でもこの森にいるのは好き放題やりまくり。今だって滅茶苦茶じゃれて来てる。
 たぶん俺たちが発している気配や匂いも喰らいまくってるんだろう。ガンマの森に入ると匂いや気配が分かりにくくなるんだけど、精霊こいつらに悪意なんて無い。
 人狼おれたちのことが大好きみたいだし、愉しくて悪戯してるだけなんだろう。でも理由も分からず、いきなり感覚を奪われるというのは、とても怖い。だから成獣でもこの森には来たがらないし、子狼には行くなと言う。
 シグマだけは、不思議なことに筆頭も次席も平気そうだ。もしかして、もともと感覚が鈍いから、だったりして。言ったら怒りそうだな。いや、シグマ筆頭ならガックリするのかな。
 想像してクスクス笑うと、精霊たちもキラキラした。
 愉しそう。
 こいつらが愉しそうだと、俺もなんか嬉しくなる。
 すごく気分が良い。
 俺はガンマから精霊たちが悪戯好きだって聞いたし、今はぜんぜん怖くならない。あそこに長くいたから精霊たちに慣れたのかも。
 それに辛いときや苦しいとき、こいつらは力を貸してくれる。
 ガンマの洞穴に担ぎ込まれたとき、色んな感覚とか凄くてベータの声も聞こえるし熱っぽかったし、いろいろ参ってたけど、この森に入って少し楽になった。
 こいつらが元気になる力を貸してくれてた、ような気がする。
 そして金の銅色の棲まいを整えていた間も。
 一心に作業してても、ふっと感じ取る声に、あの瞳を、眼差しを、……体温や逞しい腕を、たまらなくなる気配を、……思い出してしまっていた。
 恋しくて逢いたくて、でもおとなしく待ってるって約束したから我慢して。でもやっぱり走り出しそうになるのを、ダメだって必死で耐えてたとき、こいつらは森から出てきて、耐える力を貸してくれた。
 お願いしたからじゃない。精霊たちがやりたくてやってくれたんだ。
 今も愉しそうにはしゃいでるのが分かる。こいつらが愉しいのは、きっといいことな気がする。精霊たちが愉しそうだからかな。嬉しそうだからかな。俺もなんか、嬉しい。フワフワした気分。
 愉しい気分で森を進み、洞穴の前の広場まで来ると、ガンマが立っていた。

「え?」

 ずっと寝てて顔合わせてくれなかったガンマが、怒ってるのかと思ってたのに笑ってる。すごく優しい笑顔で……ううん、今まで見たこと無いくらい嬉しそうな顔で。
 それに、いつものローブじゃない。白っぽくて丈の長いストンとした服だけ。

「「「 ……ようやく 」」」

 ガンマの周りには、お日様みたいな優しい黄色い光がたくさん。
 ゆらりと手が上がり、俺を招く。

「「「 おいで 」」」

 ────肌から響くような、ガンマの声。
 精霊たちと同じ、嬉しそうな愉しそうな、そんな響き。 
 ふわりと身を返したガンマについて行こうと足を進めると。森に入ってからついてきた精霊たちがふわりと離れていく。

「あれ」

 何歩か進み、振り返ると、色んな色のキラキラは洞穴前の草むらに残ってる。
 周りに残ってるやつもいるけど……

「どうしたの。一緒に行こうよ」

 精霊たちは嬉しそうな愉しそうな気配のまま、チラチラ震えてその場から動かない。
 ガンマはどんどん進んでる。
 道の無い森の中へ。
 今までなぜだか足の向かなかった方向へ、ゆっくり歩いて行く。

「ガンマ、こいつら」

 背中へ声を掛けると、ガンマは立ち止まって振り返り、笑みのまま伝えてきた。

「「「 こっち 」」」

 それだけでまた歩いて行く。
 まあいいか。
 背中を追い、並んで歩いた。
 ガンマの周りに居た、お日様色のキラキラが、俺の周りにも漂う。
 ああ、気持ち良いな。
 なんでこっちに行ったこと無かったんだろ。こんなに気持ち良いのに。
 うん、こっちは気持ち良い。この先は、もっと気持ち良い。
 葉の無い枝が寒々と立ち並ぶ森には濃緑の梢のみが残って、真円の月にずぶずぶ突き刺さるよう。月は光を落とし、落ちた葉が埋め尽くす木々の根元まで届いている。
 そんな、冬を迎える準備の整った森を、ガンマと俺は、ゆっくり歩く。
 実りの季節が終わって、風は冷え、もうすぐ雪が来る。
 俺たちは冬毛を纏い、炉には常に火種を用意して、雪が来てから羽織る毛皮を準備する。そんな季節。
 なのに。
 夜闇の中、俺とガンマの周りに、お日様色の精霊がどんどん増えていき、森の様子が変わっていく。
 枝に紅葉した葉が残ってる。
 下生えの草も青々として……あったかい。
 いつ雪が来てもおかしくないはずなのに、暖かい。
 やがて立ち並ぶ木々は鬱蒼と繁り、良い匂いの果実が実って……まるで実りの季節のただ中のよう。
 さらに進むと、葉は緑色になっていく。
 ぽかぽかと、夏のはじめみたいに──── そしてガンマの足が止まった。

 深緑の木々に囲まれ、ぽっかりと開けた場所。両腕を広げたくらいの広さが、苔に覆われている。
 濃緑の葉を覆うように、黄や赤に色づいた蔓植物が絡みついて垂れ下がり、まるで大きな窓の下げ布のよう。
 その下辺りには、苫を重ねただけのかんたんなカザエがいくつかあった。
 これだけ葉が茂っていれば月の光も届かないだろうに、苔に覆われた真ん中あたりだけ、ほんのり明るい。
 苔の少し手前で立ったガンマは俺を見てる。
 精霊がたくさんいる。そこら辺で遊んでる。
 ……あ
 分かる。
 これは焔の精霊。それに光も。
 ああ、そうか、だからか。こんな季節なのに、ここだけがこんな風に暖かく明るい。
 そうか、ここにある木々、草も、ああ、こんなにもたくさん。
 おまえは風だね。水もいるね。あれ、もしかしておまえは音? アグネッサのところにいた? あそこからついてきてくれた?
 分かる。分かる。そうなんだ、ずっと一緒にいてくれたんだ。
 精霊たちと遊んでいたら、ガンマの声がした。

「「「 おいで 」」」

 ガンマが手をさしのべる。声が肌に響いてくる。精霊とおんなじだ。
 歩み寄り、手を繋ぐ。
 焔が、光が、集まってくる。俺にまとわりつく。
 ガンマがこっち見てる。真っ白な毛が垂れ下がって目は見えない、けどくちもとが、満足そうに笑んでいる。
 足を進め、誘われるまま苔の真ん中に立った。
 苔はふわふわだ。気持ちいいな。

「「「 ……だいぶ進んでる 」」」
「なにが?」

 苔から湧きあがるように、水の精霊がふわっと漂い出た。
 蔦から、木から、辺りに潜む小さな虫たちから、湧き出でる精霊たちが俺を包む。音も来る。嬉しそう……

「「「 だいじょうぶ。きっと、早い 」」」

 水色、黄緑、赤や橙や紫や青や……いろんな精霊たちが集まって、風の精霊がみんなをまとめている。それが分かる。まとまった精霊たちは塊のようになっていく。
 塊が俺を包むように伸びて、膜のようになっていく。さまざまな色と匂いを纏った、濃密な膜。
 それは何重にも、何重にも、重なっていく。


 …………なにかが、流れ込んでくる。

 視界がまばゆいもので満ちる。
 耳は血流がドクドクと流れる音のみ感じ取る。

 それ以外何も……
 聞こえない
 匂わない

 感じない────
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