VOICE-Run after me-

紅と碧湖

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1章 Run after me -若狼-

20.正しい郷

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 俺を、追ってくれてた? ……ベータが?
 誰より掟を守る、あのベータが? ガンマに怒られても?

「まあ激怒ってもガンマだからなあ、迫力はゼロなんだけど」

 怒られるから、だから誰にも秘密で俺を探して、俺に……会いに来てくれた?
 近づくなって言われて……だから物陰から見てた? 離れて見てた、そういうこと?
 じわじわと喜びが湧いてくる。

「あいつが怒ると、周りの気配が変わるんだよ。なんかピリッとするっていうか、ヤバイ感じがする。それでみんな慌ててガンマを宥めたりしてさ」

 シグマのくちは一瞬も止まらなかったけれど、声はどんどん遠くなっていく。
 ああ、どうしてあんなに怖いなんて想ってたんだろう。
 もし村で気配を感じたとき逃げ出さなかったら、俺の方からベータに会いに行っていたら……今とは違う感じになったんだろうか。

「成人近くなると、オメガの素質を持つ者の身体は変化する準備を始めるんだ。変化は精霊がもたらすもので、春から秋の終わりにかけて少しずつ、ゆっくりと変わっていく。けれど変化があまり進まないうちに引き金が作用すると、一気に変わろうとしてしまう。ひと族の所にいたときのおまえが、それだよ」

 そっか。引き金……。ベータと触れ合った、あれが。

「そういうときは精霊が守ってくれるものらしいけど、おまえは精霊の少ないとこにいたろ? だからどんどん辛くなっちまった。ここなら精霊がたくさんいるからな。ここに来て楽になったろ?」

 確かに。
 ここでぐっすり寝て、起きたらすごく楽になってた。
 俺の顔を見てにんまり笑ったシグマは、「俺が知る範囲だけになるけど」と言いつつ続ける。

「今、成人の儀は春産まれから冬産まれまでまとめて、十八になった次の冬に受けるだろ。これは『正しい形』を郷に根付かせるためなんだよ」

 俺たち世代は“季節外れはぐれ”がけっこういて、俺も実りの季節、冬になる前に産まれてる。春産まれや夏産まれもいるから、十八才せいじんを迎える時期は、かなりバラけてる。
 それは発情期に関係なく子作りしたからで、これは間違っている。
 そう言うシグマは、ひどく真剣な顔だった。

「俺たちの世代は、きちんと春に発情を迎え、仔は冬に産まれてる。だからいずれ形式だけじゃ無くて自然に、正しい形になっていくと思う。けど今のうちから間違いないリズムで生活しないと。森のあるじたる俺たちが乱れれば森のリズムも乱れちまう。摂理に反した森に、精霊は居着かないからな」

 季節構わず子狼が産まれていた頃、自分の森から出てきたガンマがフラフラになりながら、ガンマにしては大声で、他の人狼にとっては囁くような声で訴えた。
 多くの精霊が失われたり、他郷の森に行ってしまった。郷を立て直さねば、この郷も森も生気を失う。精霊に嫌われた郷は滅びてしまう。
 ガンマの訴えはみんなの危機感を強くしたけれど、その頃は誰も、どうするのが正しいか知らなかった。
 知恵を引き継ぐべきシグマは失われ、オメガとなった元シグマは二匹目の仔を産んでからガックリ体力が落ちて、ほとんど眠っていた。皆を教え諭すなんて無理な状態。ガンマも今よりもっと元気が無くて、すぐ倒れるしほぼほぼ動がない、しゃべらない。その頃の子狼たちは、成人の議があるってことすら知らなかった。
 時期を選ばず子作りした雄たちは十八を越えていたけれど、何も知らないし精霊に呼ばれることもない。若い雌も薬を飲んで子作りしていたけれど、みな体力がなくて、ほとんど孕まなかったし、病みやすく、失われることも多かった。
 これではいけない。
 まだ子狼だった鋼の若草シグマは考えた。
 今すぐに郷のために知恵を生かして働く語り部シグマが必要だ。
 鋼の若草はオメガの寝床の傍で記録を読み漁って、オメガが目を覚ましている間にシグマの知恵と知識を乞う。そのときオメガは『自分から教わったとアルファに言ってはいけない』と言った。
『シグマの知恵と知識は、他の階位に知らされないことが多い。これはオメガが知らないことであるべき』
 そうして知識を得て、みんなで相談もして、鋼の若草はアルファに助言した。自分で調べたのだと胸を張って。
 精霊に呼ばれ受けた成人の議では、語り部シグマの階位を与えられた。

「ま、そんなわけでな! 俺がこの役割を与えられたのは、そういうのを精霊が見てたってことかなと思う。つまり師とみんなのおかげなわけだ。俺以外のシグマとかベータたち、イプシロンたちとかな。んでカッパとかルウとか考えるのは苦手なやつらは、身体を使うことなら惜しまず協力してくれた」

 そこまで話して、ようやくシグマは一旦くちを閉じ、思い馳せるように細めた目で遠くを見ている。その横顔は近寄りがたくて、息を止めて見つめてしまう。
 シグマはふっと俺を見て、いつものニヘラとした顔に戻ると、両手を広げ、声を高めた。

「だからさ! 俺は貰った以上のものを郷に返さなきゃ、ってわけよ!」

 うん、こういう奴だから好かれるんだよな。
 ずっと喋ってるし、すぐからかうし、偉そうだし、掟とかいい加減だし木から落ちるし、いつもヘラヘラ笑ってるし……でも、みんなシグマのことが好きだ。

「精霊は俺たちの中からお気に入りを選んで、子狼の頃からずっとまとわりついてる。俺たちの力はそういう精霊がくれるもので、たくさんの精霊に気に入られると、より能力が強くなるってこと、らしい。ここら辺、俺はまったく実感ないんだけどな」

 ククッとシグマが笑う。確かになあ、と俺も笑ってしまう。
 走るの遅いし力弱くてすぐ疲れる。鼻も耳も感覚もボロボロのスカスカ。シグマには、人狼として優れた部分がほとんど無いように見えるし、俺たちだって子狼のころ、好きに弄ってからかってた。
 けどシグマは誰より賢くて、なにげに優しい。他の誰も考えつかないようなことを思いつくし、常に郷がよりよくなることを考えてる。
 シグマを気に入ってる精霊は、知恵の精霊に違いない。
 俺を気に入ってる精霊って、どんななんだろ。

「郷の外へ行くときも、精霊たちは勝手について来るんだと。といってもなあ。ひと里にも精霊はいるけど、森や郷に比べればものすごく少ないだろ。そういう場所にいると恵みを受けられず、本当なら郷で精霊に守られながらゆるゆると進むべき変化がなかなか進まなくて、変化しかけた中途半端な状態が続くってことになる。ひと族の町にいたおまえは、そういう状態だった」

 町にいた時、俺は変化しかけ……てたのか。よくわかんないな。

「しかも成人近い時期に引き金と接触したことで、変化が一気に進んだ。急激な変化は体調を狂わせる。ましておまえは鼻が効くし感覚が鋭いからな。かなり苦しい思いをすることになっちまった」

 うん、ひどく苦しかった。辛かった。
 おかしくなってるって、俺はどうなるんだろうって、不安で仕方がなかった。

「その時期の不安定は、後々まで響いてしまう。それをガンマは危惧してたんだ。師が、おまえの親が、そうだったからな」

 確かに、俺の知るオメガは……親は、たいてい寝てた。
 すごく優しかったけど、気配も匂いもすごく薄くて……大切にしないとって、そんな気分になった子狼おれたちは、最も良く実った果実や一番おいしい新鮮なはらわたを持って遊びに行き、お話を強請った。
 シグマも鋼の若草だったころ、そうだったのかな。知恵を聞きに行く前、俺たちと同じだったのかな。

「……師が二十一のとき、当時のアルファを初めとする郷の雄のほとんどが失われた。大きな戦いがあったらしいけど、師も詳しいことは教えてくれなかった。知る必要ないと思ったから言わなかったのかもな」

 そのときベータの一匹が、戦えない雄や雌たちと子狼や幼狼おさなご、そして郷を守るために残っていた。郷をまったく無防備にすることはできないってことだったんだろう。
 しかし他の雄が失われてしまい、そのベータが必然的にアルファとなった。
 シグマだった俺の親はオメガが必要だと主張し、残った戦えない雄の中で選ぶことになって────自ら選ばれてしまった。

「いったん成人の儀を超えてシグマの階位を得ていた身体が、無理矢理二度目の変化を受け容れたんだから、本当なら特別手厚い加護が必要だった、らしいんだけどね」

 ガンマは俺の親のことが好きじゃなくて、おざなりな世話しかしなかった。

「前のアルファについて誰も語らないから、どんな奴だったのか分からない。でも雄がほぼ全滅するような戦いをしたという一事で、俺は無能なアルファだったと判断する。そして諫言しなかったシグマも……それは師が自ら言っていたけどね。俺はだから、みんなみたいに素直に信じることができなくなってる。アルファでも無能はいるんだ」

 シグマは、珍しく笑わない顔で語ってる。

「その頃のオメガは守りミュウも兼任していた。守りは常にアルファと共にあって、盾となる務めだからな、アルファ共々失われてしまった。うちの郷では狩りルウがその務めもやってくれてるけど、本来ルウの役目は、狩りや採集をするだけなんだ。郷の食を司る重要な役目だから、ルウはすぐに必要だった。ていうかルウ筆頭がとにかく優れた能力を持っていたからな、いろいろ背負わせちまってる」

 ミュウというのは、郷や森を守る役目を負う。うちの郷には無い階位。そういうのを知ったのは、ガンマに読めと言われた書物を読みまくったから。
 知った事は、他にもある。
 発情は春の恵みの収穫が終わる頃に来て人狼は子作りする。もちろん番以外に発情なんてしない。
 そして冬、森が雪に沈んだ一番寒い時期に幼狼が産まれる。子狼は郷に育まれ若狼になって、十八歳になった冬に成人の儀を迎え、次の春から発情するようになる。
 けれど成人前から子作りすることを求められたわかい雄たちは、番と発情のタイミングが合わないときに使う薬を使って無理矢理発情し、雌用の薬を飲んで発情の状態になった雌と子作りした。番など選ばずに、発情のタイミングが合えばどんな相手でも。
 本来、番以外に発情しない人狼おれたちには禁忌もなにも無い。自分の母と子作りしたやつもいたらしい。本能に反する子作りをした彼らは、ひと族のように、いつでも発情するようになってしまった。

「やつらは成人の儀を超えられなくて、階位を得られなかった。あいつらも可哀想なんだよな。分別が産まれる前、ガキの頃にやれと言われた通りにやってただけなのに、精霊に嫌われちまったんだから」

 階位を得られなかったそいつらは、能力も身体も、子狼から成長しない。ガキと見下していた子狼世代ベータたちに、どんどん追い抜かれていく。鼻、耳、目、感覚、走る速さ、走り続けるスタミナ、腕力……すべてが年下より劣ることを見せつけられ、荒れた。

『俺たちは命じられた通りにやっただけだ。郷のために必要だと言われたのだ。なのになぜ報われない?』

 ほんの少しだけ、胸が痛む。
 俺は雄たちが荒れて暴力的になったのしか見てないし、本能に反して好き勝手した連中のことなんて興味無かったけど。
 そういう話を聞いたら、少し……うん、哀れだ。

「変な話になっちまったな。ベータのことも聞きたかったんだっけ?」
「うん、聞きたい」

 森を経巡へめぐり、狩り食いを続けながら、シグマはずっとしゃべり続ける。
 ベータやみんなの幼い頃とか役目をうけてからとか、可笑しい話ばっかり。

「それであのバカ、真正面から突っ込んで、相手ごと崖から落ちたんだぞ!」

 俺は笑って、ずっと笑って、心が軽くなっていく。

「ほんっとバカだよなあー。それでかすり傷ひとつで済んでるんだから、バカだけど頑丈すぎるよな! 単純バカ、つうか」

 良くこんなに喋り続けられるなこいつ。
 と、感心しながら。

「すぐ周りが見えなくなるんだよ、バカだけど面白すぎつうかさ、───って、おっと脱線したな、オメガの~……なんだった?」

 いやずっと脱線してるから。しかも忘れてるし。

「いいよ、ベータの話聞かせて」

 笑い過ぎて目尻に滲んだ涙を指で拭いながら言った。
 むしろ聞きたいし、その方がいい。ていうか今まで意識して避けてたから、あんまり知らなかったベータのこと、一杯聞けて嬉しい。
 真っ直ぐ突き進むベータ。きっとそのとき、雄々しく遠吠えなんかも……うん、カッコイイ。
 それに落ちてもかすり傷……なんて素晴らしい強さなんだろう。
 でも少しは痛かったんじゃないかな。それでも痛い顔なんてしないで、くちもとを引き締めて、あのキリッとした目で…………うわあ……。
 やっぱりカッコイイよなあ。
 ああ、逢いたいなあ……
 ふっと、そう思ってしまい、ずっと考えないようにしてたことを思い出す。
 ここに来てから声は薄まって、無闇に身体が熱くなることは無くなったし、少し思い出すだけなら大丈夫っぽいけど。
 でも怖かった。

 ────あの夜。のことを思い出すと。

 またあの時みたいに身体が熱くなるんじゃないかって、怖かった。
 けど、今はシグマがいる。辛くなってもガンマがいる。精霊がたくさんいるこの森なら……助けてくれるって、なんとなく、そう思えて。
 しゃべり続ける陽気な声を聞きながら────あの日、あの短い時間。思い出しても……いいよな……封をしていた、ベータのこと……

 ────最初に名前を呼ばれて。

 ガキじゃ無い、とか言ったけど、あれは全身の血が逆流するみたいで……やめさせたかったから。
 毛穴が全て開いてるみたいで、そこから身の内に忍び込んできた。
 匂いも感覚も音も、それ以外の何か圧倒的なものも、全てが。
 身体がどんどんヘンになってくから、やめさせようって思ったんだ。なんかおかしいって、ゾクゾクするし毛は逆立つし、怖くて、怖くて────
 だからやめて欲しいのは本当だったけど、……もっと呼ばれたい……とも、思って……でもそれを認めるのも怖くて……いきなりだったし、わけが分からなかった。

 ────だからずっと声が聞こえるのかな。あのときの望みが続いてるのかな。

 あの指。
 髪や頬や……なぞるみたいに滑るあの指から、なにかがジワジワ染みこんでくるみたいだった。
 そして────ああ、ヤバい、思い出すな。でも、だって…………あんなの知らなかった。
 すごく幸せな気分、だった。あのまま、あの匂いに、ベータの温かい気配に、包まれていたかった。逞しい腕で、もっと抱き締めて欲しかった。 
 ……でも逃げ出しちゃった。
 だって……真っ暗な深い穴のどん底に落ちたみたいな気分になって────
 それから姿は見てない。
 なぜか声は聞こえるけど、間近で見たのも触れたのもあのときだけ。
 なのに、今でも脳裏に、あの凜々しい姿が浮かぶ。

 雄らしいがっしりした身体は力強く俊敏だった。
 誰より輝く瞳は、逢えなくても俺を魅了し続ける。
 最高に魅力的な────ベータ。……ああ、ベータに逢いたい……

「おい聞いてるか? 赤くなってるぞ? おまえ、せっかく話してるんだから聞けよ~」
「あ……うん。ごめん」

 でも、だって。
 声は……まったく消えてるわけじゃない、ような気がする。
 今でもうっすら声が聞こえる気がするんだ。ここにベータはいないのに、ずっと俺を呼んでる気がする。

「しょうがねえなあ」

 ヘラッと笑ったシグマは、ベータや他のみんなの笑い話を喋り続けながら一緒に洞穴に戻ると、「また来る」と帰って行った。
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