VOICE-Run after me-

紅と碧湖

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1章 Run after me -若狼-

19.やるべきこと

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「十五の春、ベータはおまえを強く意識した。突然だった上に強烈で、あいつは衝動に負けた。まだ八才だったおまえを抱き上げて、ほおずりして噛みついて、泣きわめこうが離そうとしなかった。俺たちで引っぺがしたけどね」

 真剣な目で見上げてくるシグマに、首を縦に動かした。そのときのことは良く覚えてる。俺だってすごくゾクゾクして、ものすごく怖かった。

「あん時あいつ、おまえを食ってしまいたいと思っちまったんだと。全ての欲が集約しちまったんだろうな。けど、おまえにしたらひたすらおっかないよな。けどまあ、勘弁してやってくれないか。まだ十五だったんだ。初めての発情が強烈過ぎたし、番と意識したのが子狼で、しかも雄だ。そりゃ取り乱すだろ」

 あれが、番だっていうビビッと来る感じだなんて知らなかったし、ものすごく怖くて、ベータに近づくのが嫌になった。ずっと避けてたけれど。
 十五だったベータが、あの夜の俺みたいになったんだとしたら……。それなら普通じゃ無かったのかもって、今ならそう思える。

「ベータは七つの夜を越えるまで、おまえに発情してた。落ち着いて後悔しまくるあいつを引きずって、俺たちは師、オメガに、おまえの親に相談したんだ。郷で唯一の元シグマだったし、あいつになにが起こったのか、みんな分からなかったからね」
「え、でも俺も……」
「うん、おまえも来たって聞いたよ。あの頃の師は子狼の癒し担当だったからな。俺たちが行ったのはだいぶ後だ。オメガが金の銅色とおまえの親だったから、俺は雄に発情するってことが特別だって思ってなかった。たまにそういうのが居るんだろうな~てなもんさ。師はものすごく怖い顔で、金の銅色を叱りつけた」

 そうだったんだ。知らなかった。

「おれたちがアルファとオメガがなんなのか聞いたのは、それが初めてだった。これは子狼にきちんと教えるべきことだって、まだ十二だったけど俺は頑張ったよ。ガキどもに分かりやすい言葉を選んで、飽きないよう話を組み立て、語り聞かせのときを作って話した。おまえも聞いてたよな? それから郷の掟や人狼として正しいことを教える活動してた。師に聞いたり、シグマの建屋にある書物も読んだ。同じくらいから、枯草の柘榴……癒しイプシロンと一緒にあらゆる書物を読み漁った。ガンマのところの本も、そのころ読んだよ」

 十五にも満たないそんなころからシグマは、いやまだ鋼の若草と呼ばれてたころから、郷のために知恵と知識を蓄えようとしてたんだ。すごいな。
 なんとなく尊敬の気持ちが湧いてきて、今度はよく実ってるのをもいで落としてやる。

「おっ、よく実ってるな」

 受け取ったシグマは、いつもの顔でヘラッと笑った。

「そういやガンマは、師よりもっと怒ってたな。金の銅色はなんかくどくど言われてた。あいつすっかりしょげて、しばらく狩りごっこにも走りっこにも来なかった」

 シグマは懐かしい顔になってる。もっと楽しそうな、子狼たちに悪戯する時みたいな顔に。

「それからあいつ、奥歯噛みしめたぜんぜん納得してない顔で、おまえに近寄らないようにして、その代わり暇さえあれば離れたところから見てた。少しでも見てたい、に置いた、なんてけなげなこと言って。なのにおまえの方は避けるようになっただろ? あいつ落ちてたよ。嫌われたんだろうか、なんてさ、めちゃくちゃ泣き言こぼして。面白かった」
「泣き言?」
「そう! いやハッキリ言おう、あれはほんとに泣いてた! いやそりゃ気持ちは分かるよ? 経験無いけど俺だって、番に嫌われたら泣きそうになるのはまあ、そうなんだろうなって思うよ? けどさ、考えてみろ、あのベータがだよ?」

 シグマは腹を抱えてゲラゲラ笑ってる。俺も想像して顔がニマニマと緩む。
 この間初めて間近で見たベータ。金に輝く瞳、浅黒い肌、太い鼻柱、しっかりとした顎には髭が……見てるだけでドキドキするくらい男らしく……いやそうじゃなく泣きそう、いや泣いてたって……

「なのに物凄い早さでまばたきして誤魔化そうとしてるんだよ! 誤魔化されるわけねえだろ!? もう笑うしかないって!!」

 プッと吹き出す。
 なにそれ、必死にまばたきってすっごい可愛いよな!! うわ見たい!
 でももう十五じゃないし、そんなのやんないかな? でも見てみたいなあ!!

「おい、もう一個くれよ」
「くくっ、ねえ、他には無いの」
「ベータの笑える話ならいっぱいあるぞー」
「ほんとに? 聞きたい聞きたい」

 ワクワクしながら良く実っている実を選んで両手に持ち、枝から飛び降りて、一個渡す。

「はい」
「おー、ありがとさん」

 シグマは嬉しそうに笑ってかぶりつく。

「甘いな。若い実の歯触りも好きだけど、やっぱりうまいな」
「ねえ、もっと話してよ、教えてよ、ベータのこと」
「おう、いいとも」

 食べた実の種を捨て、たシグマはまだ汁のついてる手を俺の頭にポンと乗せた。そのままグシャグシャと撫でられ、「ちょっと」手を払う。毛がちょっとベタッとしていた。

「手を舐めてからにしろよ」
「いいじゃないか。毛艶が良くなるかも」
「そんなの聞いたことない、あ、やめろって」

 シグマがまた毛をグシャグシャにするので、手を掴んで止める。

「やっと笑ったな」

 え、と顔を見る。俺より少し背の低いシグマは、すごく優しい顔をしていた。

「わけ分からず混乱してたのに、すぐ来れなくてごめんな? 一応ガンマやうちの次席に頼んどいたし、めいっぱい急いだんだけど」
「……ガンマは、あんたが来たら説明するって、それだけ。あとは精霊のこと」
「ま、そうなるよな。ガンマだし」

 頭グシャグシャされ続けてるけど、嫌ではない。
 ニヤニヤしてるシグマの後ろには、たくさんの恵みを纏わせた森がある。赤や黄に色づいた葉が地に落ち、香しい匂いに満ちた森。
 郷を出たのは雪解けしてすぐくらい、芽吹きの季節のはじめ。郷は土の匂いがして、若葉と花の匂いもし始めていた。今は実りの季節も終わりに近い。
 こんなに季節が変わる間、郷を離れていたんだ。
 ここに来て楽になって、森を歩いたり木の実や果実を味わうたびに思ってしまう。季節を三つ越える間、ここから離れてた間に俺は変わってしまったんだなって。
 ひと族の“自由”を知り、人狼には合わないと知って、ひと族とは相容れないっていう意味も分かった。発情のことも少し分かった。考えて制御できるようなことじゃない、本能に突き動かされる、それが人狼なんだなって。
 それにあれから、ベータの手で……ああなってから、ずっとモヤモヤしてる。ここでガンマと二匹になって身体は落ち着いたけど、分からないことは分からないまんま。ガンマは精霊のことしか話さない。

「ガンマは発情の話が嫌いなんだ。神聖なことなのにな」

 肩をすくめ、シグマが言った。

「だから発情についてだけでも早く教えた方がイイと思ってはいたんだけどさ、あのときはおまえがすごく辛そうだったろ? 寝ちまったから起きるの待って説明する方が良いかなとも考えたけど、体調を整えるのが先だと判断して、狩りルウたちに任せた」
「うん……先輩たちルウと一緒にいて、少し落ち着いた。薬のおかげかも、だけど」
「あいつらはお気楽で、つとめ以外のことは考えないからな。それにおまえが仕事を教わってた連中だから、気が楽だっただろ」

 そうか。
 なにも説明無く放り出されたように思ってたけど……そういうことか。
 考えてくれたんだ、俺のこと。

「それで、ベータの笑える話だっけ? それともオメガのこと聞きたいか?」
「え……」

 どうしよう、どっちも聞きたい。
 分からないことだらけで、でもベータのことも聞きたい。
 ああ、ベータに逢いたいなあ……

「ああ、そういう顔するんだよなあ、番持ちって」

 ヘラッと笑うシグマを見返す。そうだ、シグマに番はいないんだった。

「……あんたは番を探さないのか」

 俺たちは真剣に番を探す。成人して序列を受けてから番探しの旅に出る者も多い。他郷では独り身で過ごすらしいけど、うちの郷は番探しの旅の許可ならすぐ降りる。子狼を増やしたいのもあるんだろうな。

「う~ん、それより先にやることが多くてな」
「先にやること?」
「この郷を、ちゃんとした郷に戻す」

 にっこりとシグマは言う。

「ベータも、イプシロンも、ルウもカッパも、フィーや雌たちだって、みんな自分のつとめをしっかりとこなしてる。俺もやらなきゃだろ? そのためにやれることはたくさんある。ありすぎてぜんぜん終わらない」

 笑み細めた緑の目が熟れた実に落ちる。シグマはかぷっと実にかぶりついて、もぐもぐとくちを動かしながら続けた。

「シグマのつとめは知恵と知識を郷のために役立てること。俺は郷に残っていた書物を全て読んだ。オメガからシグマとしての知恵と知識を得た。成人になり階位を与えられ、まず他郷へ行って教えを請うた。商人に頼んで従者としてひと里にも行ったよ。ひと族の神や王や貴族と呼ばれるやつらのことも学んだ。やれることはぜんぶやらなきゃだろ? 今の郷が正しい状態じゃないなら正しい郷に戻す。俺たちの世代で足りなければ、次の世代に託す。託せるように整えておく。それが終わらないうちは、番探しに出るなんてできないよ」
「でもそれじゃ……あんたはいつまでも番に逢えない……」
「かもしれないね。まあ、それはしょうがないだろうな」

 シグマはそうやって務めを全うしてる。自分のことより郷のこと。そうか。
 俺だけじゃないんだ。郷のために。やるべきことを、やる。みんな、そうしている、のか。
 …………そうか。

「俺……オメガなんだよな? 精霊に好かれるから……それはもう、動かないんだよな?」

 ぽろっと言葉が零れた。
 ベータが番でベータと一緒にいられるなら郷なんて、精霊なんて、とか思ってたところがあった。
 なんで俺がって、親も俺も郷や精霊のためにひどいことになってるんじゃ、なんて。……でも
 ────俺は、……オメガ、なんだ。

「それは……分かった」

 分かったふり、だけなのかもだけど。

「郷のために、必要なんだって」
「そうか、偉いな」

 シグマの手が、頭を撫でている。

「やっぱり賢いよ、おまえは」
「けど……」

 あの夜、ベータの気配を感じ、絶対に勝てないと悟って……その後は良く覚えてない。すごく怖かったことも、今はなんだか遠くて、全部がぼんやりして霞んでる。
 強烈に覚えている、あれ以外。
 あの声、あの手、あの匂い、あの圧倒的な気配……ああ、思い浮かべただけで、今も。
 この森にいると苦しいほどにはならないけれど、やっぱり身体は熱くなる。

「俺、ずっとおかしいんだ。ベータの声がずっと聞こえるんだ」
「声? ベータはいないぞ?」
「そうだよ!」

 いきなり、頭の中までカッカして、頭の手を払いのけた。

「どこにもいないのに聞こえる! 耳にじゃないんだ、なんか聞こえ……感じて……それで……分かんない、分かんないよ! なにも考えられなくなって! 怠くて逢いたくて身体が熱くて、……なあオメガってみんなこうなのか? アルファと番うのがオメガだろ? なのに誰でも発情するのか!?」
「ああ、それはな……」
「でも! ガンマにはぜんぜん発情しなかった! アンタにもぜんぜん……! わけ分からないよ! どうしたらいいのか……!!」

 手が頭をポンポンと叩く。

「落ち着けって。歩きながらゆっくり話そう。な?」

 穏やかに笑む緑の瞳を見返し、興奮してしまったことを恥じる。ずっと冷静でいなければならないって意識してたのに……。
 歩き始めたシグマの後を、ゆっくり進む。色づいた森は深く、緑の匂いが濃厚。深く呼吸すると胸がスッキリする。……少し落ち着いてきた。

「産まれた時、すでにオメガになる素質のあるやつと無いやつってのは決まってるそうだ。ガンマにはそれが分かる。で~、オメガの素質があるやつを番と認識する者の中からアルファが出るんだと、ガンマは言ってた」
「……うん。アルファなんて誰でもイイって言っていた……」
「あいつは考えが精霊寄りなんだよ。森も郷も獣も俺たちも、ぜんぶ精霊のためにあると思ってるからな」
「うん、そういうコト言いそう」

 フフッと笑ったら、なんか身体から力が抜けた。

「あいつはオメガがいなければ始まらないとか言うけどさ、人狼おれたちは森を治めてるんだぞ? まずしっかりしたアルファがいないと森は治まらないだろ? オメガだって精霊だって、その後の話なのにな」

 シグマの言うことは分かる。子狼おれたちはずっと、そう教えられてきたし。
 けど今……ちょっと思ってしまった。ガンマも、シグマも、どっちも少し違うんじゃないかな。
 森はただ森……なんじゃないかなって。そう思う。
 たくさんの木があって草があって虫たちがいて鳥たちがいて、小さい獣がいて大きな獣がいて……そして俺たちも精霊も、ひとしくそこに存在するもの、それだけなんじゃ?
 精霊のためになにかがあるのもなく、人狼のためにすべてがあるのでもない。……そんな気がする。

「俺の師、おまえの親でもあるオメガの身体には、強い負担がかかっていた。シグマの階位からオメガへ変わるのに精霊の加護をうまく受けられなくて、オメガが受けるべき健やかな変化を得られなかったんだ。ひどく体力が低下して、疲れやすく病みやすい身体になってしまっていた」
「どうして、そんなを……」
「ん~、はっきり分かってるわけじゃないけど……アルファもおまえの親もガンマに嫌われてるから、そのせいじゃ無いかと思うんだ。ガンマが意識しなくても、精霊とガンマは近いからな」
「そんな、だって親は好きでオメガになったわけじゃない」
「そこら辺はなあ。好き嫌いってことになると、相性ってもんもあるしさ、ましてガンマは特殊だし」

 俺だって郷のためにやるべきことだって、そう思おうとしてはいる。
 決まったことなら従わなきゃならないって、……言い聞かせてる感じだ。
 けどオメガになりたいなんて、やっぱりぜんぜん思ってない。アルファと番うのはやっぱり嫌だし……親も同じだったんだろうか。

「まあガンマも後から色々手を尽くしたらしい。けど弱った身体を癒すことも、縮まった命を長らえることも、できなかった。ガンマも悔いはあったんだろう。だからおまえがいなくなったとき大騒ぎしたんだ。行事も無いのにこの森を出て、俺の所に怒鳴り込んできた。フラフラになりながら微かな声を叫ぶように張り上げたんだ」
『大切なとき、精霊のいないところで過ごすのはダメ。前と同じになる』
「……といってもガンマだからな。声はちっさかったけど、ものすごい迫力で、俺たちは心底怖れた」

 ずっと二人でいて分かった。素っ気なかったりはするけど、ガンマは優しい。
 けどあの、透きとおる玻璃のような薄い灰色の瞳が冷たい光を放ったなら、……想像しただけで、ちょっとゾクッとした。

「ガンマはそこに揃っていた筆頭共おれたちにそう言って、ひどく焦ってたよ。あんな事は二度と起こしてはいけないってね。自分を責めてたのかもな」

 俺がなぜ郷を出たか、どこに行ったのか、誰も分からなかったし、森で怪我でもして動けなくなってるんじゃないかと大捜索する中、ベータは誰にも言わずに郷を飛び出し、俺がひと里にいるのを見つけた。

「それもガンマは気にくわなかったみたいでな。近づくなってあれだけ言ってんのに、なにをやってるんだとか激怒してさ」

 笑いながらシグマがそう言って。
 俺はドキンとしていた。
 ベータが、俺を、追っかけてくれてた……?
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