VOICE-Run after me-

紅と碧湖

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1章 Run after me -若狼-

17.精霊師

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 岩壁に手を突きながら少し進む。人狼が二匹並んで通るのが難しいくらいの幅、曲がりくねった洞穴が続いた。蔦の間からの光も届かなくなって真っ暗な中、足音や衣擦れの微かな音が響く。
 何歩進んだか、いきなり洞穴が広く開けた。明るい。
 岩の部屋だ。アグネッサの館の食堂と同じくらい。かなり広い。
 いびつな丸い天井が高い。手が届かないくらい高い場所に明り取りのようなものがいくつかあって、ほんのり明るい。
 壁は歪にでこぼこしてるけど、磨かれたみたいに滑らかでつるつるして見える。といっても半分くらいは棚があって、書物や箱がぎっしり並んでる。
 一面は水瓶や箱や簡単な竈と、寝床が二つ。けど、竈にも水瓶の上にも物が積んであって、あまり使われていないみたい。
 中央には作業台のような大きめのテーブルと椅子が三脚。台の上にもさまざまなものが乱雑に積み上げられていて、少しきれいな端っこには、カップがひとつ置いてあった。
 乾いた草を盛った寝床二つから、いい匂いがしてる。
 人狼の寝床は、ひと族の寝台と違う。良い香りの草を乾かして盛りあげ、草が散らないよう枠が置いてあるのだ。眠るときはその中に潜り込んだり、上に寝っ転がったりする。
 岩の……教会みたい。そうだ、天井とか壁とか棚があるところとか、ひと族の教会に似てる。教会に竈や寝床はないけど。
 ガンマは中央の台の端っこにあったカップを取ってひとくち飲み、

「は」

 息を吐きながらローブのフードを背に落とし、煩わしそうに毛をかき上げる。
 上等な玻璃みたいな薄い灰色の瞳が、俺を見た。
 今まで見たことのなかったガンマの顔。初めて見たそれは、作り物みたいにキレイだった。
 子狼はみんなガンマがどんな顔してるか知りたくて成獣に聞いたりするけど、見たことがある者はいなかった。だからみんなで想像していた。
 身体が小さいから、子供みたいな顔なんじゃないか。雌みたいな顔なんじゃないか。鼻と口はキレイに見えるけど、隠れてるトコはすごく怖い顔なんじゃないか。
 でも実際は───生きてるものじゃないみたいに色素の薄い、整った顔だった。肌は透きとおるように白くて、小作りの鼻と唇も整っている。けど子狼や雌みたいじゃない。雄の成獣の顔。
 ひと房の毛と同じ、淡い青灰色のまつげが薄い灰色の瞳に濃い影を落として、明かり取りから落ちた光を受けて淡い灰色がキラキラと俺を見つめてる。
 そんなキレイな顔なのに、表情は面倒くさそうで、ゆらりと伸ばした手が寝床を示す。

「横になって」

 声はすごく小さい。囁いてるみたい。

「寝て」
「あ……はい」

 よろよろしながら寝床にのっかって、はあっと息を吐いた。
 ここに入ってから、なぜだがベータの声が遠くなってる。他のいろいろも治まってきて、少し楽になってる。
 寝床から見てるとガンマは手を下ろし、ばさっと毛が落ちる。顔が見えなくなった。

「気に、するな」

 囁き声と一緒に、目の前にカップが突き出される。

「えっ?」
「ああいうの、は、……いる」

 受け取ったカップは、さっきガンマが飲んでたやつだ。飲みかけ? と見上げながら聞いた。

「ああいうの?」
「シグマ、……イプシロン。……小賢しいやつ」

 ふうっと息を吐いて、「飲んで」言いながらガンマは椅子を一脚引きずってきて、怠そうに座った。

「ああ、はい」

 言われた通り、カップにくちをつける。冷えた液体は少し甘くて、喉を通ると胸がスッとした。

「うわ……これ、なに?」

 マジマジとカップの中を見る。水じゃないけど透きとおってて、スッキリするような匂いもする。

「精霊に貰った、……寝て」
「精霊に?」

 ガンマはコクンと頷いて、ふうっと息を吐いた。
 すごく怠そうだ。

「起きたら、……シグマが」
「シグマってあの? 表にいる、次席?」

 あいつは嫌だなあと思いながら聞くと、ふるふると首を振り、「筆頭」と言って俺からカップを奪い、ひとくち飲んだ。

「説明」

 カップをこっちに寄越す。受け取って俺もひとくち飲む。

「……するから、……それまで、寝て」
「えーと、ガンマって喋るの苦手なの?」
「……大きい声……疲れ……」
「いや、じゅうぶん小さいけど?」

 ふうっと息を吐いたガンマは、殆どくちを動かさずに「…………」なにか言った。

「え? 聞こえない」

 ガンマは腰を上げ、ぐいっと近づいた。「うわ」思わずのけぞってカップの中身を零しながら寝床に倒れる。覆い被さってきたガンマは耳元にくちを近づけた。

「オメガは精霊の器」

 呟くような声も、この位置で話されると聞こえた。
 けどそんなことより──────

「え。アルファの番でしょ?」
「そう。……けど、だけじゃない」

 ククッと笑い、ペロリと耳を舐められた。

「うひゃ」
「今おまえの周りに精霊が集まってる。みんな面白がってる」
「面白がって?」
「おまえは面白い」
「おれ……?」
「ほら。面白がってる。分からない?」

 確かにここの空気はちょっと違う。匂いが強くなったし、ほんの少し風が起こってるような感じもする。それになんだか、楽だ。

「オメガは特別。精霊が認めないとダメ。おまえは認められた」

 呟くような声が耳に響く。

「え、でも俺なにも……」

 してない、と言おうとして言えなかった。ガンマが耳をぺろぺろ舐めるからだ。息を呑んで声が途切れる。

「おまえじゃない。精霊の話」

 え、でも精霊って郷を守るものだろ? 俺は郷を逃げ出したわけだし、精霊は怒ってるんじゃないのか?

「おまえが面白いんだと」

 耳にフフッと息がかかり、ビクビクッとしてしまう。
 でもさっき飲んだ、あの飲み物のせいか、頭がハッキリしてきた。
 そして、おかしい、と考える。
 アルファが決まった時、その番がオメガになる。そうすると、なぜか仔を産めるようになる。
 オメガの産む仔は強い。あくまでアルファの番で、強い仔を残すための存在。
 俺たちはそう教わってる。

「アルファなんて誰がやっても良い。オメガは違う」
「いやそれは逆だろ。……だってアルファは群れで一番強い……」
「ケンカ強いだけ」

 いやいや違う、違うだろ。強く賢いアルファには、なにか不思議な力があって、だからみんな従うんだろ?
 でもあのときベータ言ってなかったか?
『精霊の祝福を受ける』
 とか……でもあのときは『郷の宝』とか言われた方がショックで色々分かんなくなってて、あんまり考えられなかったけど、それって……教わってたことと違う……よな?

「バカでも誰でも、アルファになれる」

 え、そういうこと?
 混乱していたら、また耳を舐められ、ビクッとした。

「うまい。おまえ、うまい」

 呟きながら時々笑い、ガンマは耳をピチャピチャ舐めた。まずい。

「ちょ、やめて」

 ベータの声が遠くなって少し楽になってるのに、こんなされたら俺また──────

「やめって……」
「発情しない」

 フフッと息がかかる。

「俺で発情しない」
「そ、んな、分かんないじゃ……だって俺今変だし……」
「……試す?」
「なに」

 ガンマの手が俺の股間に伸びる。「ちょっ」声あげてもお構いなしにそこを撫でる。

「……あれ」

 なにも感じない。
 ガンマの手は股間を撫でた後グリグリしてギュッとしてさわさわしてるのに、なにもまったく反応しない。ベータが触ったら背筋がビリビリして、色々止まんなくなったのに……

「番以外に発情しない。俺たちはそうできてる」

 え。
 じゃあ俺がオメガになっても、アルファと番うのってできないってこと? でもオメガは強い仔を産む。そのために必要だって……じゃ、じゃあオメガになったらアルファと子作りできるようになるってこと? そういうことなのか?

「オメガは精霊に好かれる」
「俺、好かれてる……?」

 それで番じゃないのにアルファと……子作り?
 なんだそれ。なんなんだよそれ? いくら精霊でも、そんなこと勝手に……!

「だからオメガになって? それで強い仔産めって?」

 勝手に好いて、勝手に俺のこと変えようって?

「違う」
「なにが違うって!?」
「精霊は、仔を産めなんて思わない」
「……え」

 盛り上がった怒りが、いきなり鎮火した。
 股間からガンマの手が離れ、また耳を舐められた。やっぱりピクッとしたけど焦りは無い。
 ガンマはまた耳元でフフッと笑う。

「精霊は自由。掟もなにも無い。好きなものを好く。それだけ」
「自由……」

 ひと族の里で“自由”を楽しもうって思って、でもなんか分からなくて……ひと族と同じことしても心から楽しいなんて思えなくて、……“自由”のどこがいいのか、ひと族のことも、俺にはやっぱり分からなかった。
 分かったのは、ひと族は違うもんなんだってことだけ。
 なら……精霊が自由なもんだっていうなら、精霊のことなんて俺に分かるわけない。

「ガンマは精霊のこと分かるの?」
「分からない」

 あ、そうなんだ。
 精霊師ってくらいだから、分かるのかと思った。

「けど好かれてる。ものすごく」
「もの、すごく……?」
「そういうのが、ガンマになる」

 えーと……。

「オメガがいなくなったら、アルファは役目を終える」

 さっきからガンマの言うことが、いちいち教わったことと違い過ぎて混乱する。
 ともかく、今のアルファはオメガを失ったわけで、だから役目を終える……てこと? でも俺がオメガになれば続けられるのか? だから俺が必要ってことなのかな?
 え、じゃあ失われたオメガ、俺の親は、……アルファがアルファになるために、無理矢理オメガになった?
 今の俺みたいな、わけ分かんないことになって……混乱したよな。だって半人前のルウな俺でもこんなに混乱してるんだ。親はシグマとしてちゃんとした階位も得ていて、なのにいきなり……なんかひどい。ひどいなそれ。
 しかもオメガがいなくなったら次のオメガが必要? 郷のために? それもなんかひどい。
 ……え、ちょっと待て、じゃあ……

「アルファがいなくなったら、オメガは……」
「ここに来て眠る。身体も、心も、精霊に捧げる」

 ……ということは。
 あのアルファが死んだら俺は……いなくなる、のか……?
 なんかオメガばっかりひどい。ムカムカしてきた。

「怒るな」

 すぐ近くでニコニコしてるガンマにもイラッとする。

「怒るよ! だってひどいよ!」
「ひどくない。心地良い」

 あ、そうなんだ。
 ガンマはまた、ぴちゃりと耳を舐める。

「……好かれすぎると、こうなる」

 そう呟いてフフッと笑った。
 しばらく寝床で舐められたり撫でられたりしてた。
 けど、ガンマが小さいからかな、飴を欲しがる子供みたいに思えて、髪を撫でたら抱きしめられた。
 自分より小さな身体に抱きつかれるのが、子狼にじゃれられてる感じでなんだかほっこりして抱きしめ返したりして。
 いつのまにか眠ってしまったらしい。
 目覚めたとき、体に力が戻ってた。
 ベータと逢ってから、薬なしでは眠れなかったし食欲も無くなってたのに、ぐっすり寝ていたし腹も減ってる。
 ここは心も身体もすごく落ち着く。ずっとモヤモヤしてたのがスッキリしてるし、身体もあまり熱くならない。ガンマは精霊が集まってるって言ってたけど、そのせいかな。
 ガンマはもう一つの寝床で寝てたから、森に行ってなんか取ってこようと洞穴の外に出た。シグマ・次席はいなくて、荷車もなくなってた。
 なんか肉を食いたいと思わなくて、果物や木の実を採って戻ると、ガンマはあの不思議な飲み物をカップで飲んでた。俺にも飲めって差し出してくるから、今日も同じカップで回し飲みしながら、種なしパンと一緒に食事した。
 ガンマは、鳥がついばむより少ないんじゃ? てくらい、ほんのちょっとしか食べなかった。
 食ったらガンマはふらふら寝床に近づいて、もそもそ横になった。でも俺は元気になってたので、あんまり眠くなくて、汲み溜めてあった水で埃だらけのカップや皿を洗い、積みあがってたものを棚やかごに片付け、竈に薪を組んで湯を沸かした。
 棚の隅っこに茶葉があったのでお茶を入れて、台も片付けて拭き、一緒に飲もうよってガンマを誘ったけど、ふるふる首振って眠ってしまった。
 ガンマは若く見える。けどいくつなんだろう?
 子狼ガキの頃、こんな毛はいなかった。真っ白で一房だけ青灰色なんて、こんな目立つ毛してたら、絶対覚えてる。つまり同世代じゃない。
 でも親の世代だとしたら若すぎる。肌も匂いも毛も、ぜんぜん衰えてない。老いたものの匂いなんてまったくしない。
 不思議でたまらなくて起きてるときに聞いたら、フフッと笑ってガンマは言った。

「俺は前の前の、もっと前の、オメガ」
「え?」
「好かれ過ぎた」

 クックッと笑って、ガンマはやっぱりすぐ寝てしまう。
 しかたないので部屋を掃除したりしたけど、俺もすぐ疲れて眠くなって、寝床に潜り込む。
 起きて、寝て、食って、飲んで、寝る。
 ガンマはたまに起きて、棚にある書物をぜんぶ読めとか言う。他にやることも無いから読んで、分かんないトコ聞きたいときはガンマを起こす。

 ……そんな風に過ごしてて分かった。
 ガンマが極端に体力が無い。
 高いところの書物を取っただけで疲れてフラフラするし、話すのも疲れるみたい。少し話すと眠くなるガンマと二人だとヒマだったので、掃除したり、書物読んだり、元気になってきてからは森に出て木登りしたりして過ごした。
 元気になってきたらどんどん腹が空くんだけど、ここにはあまり食べ物がない。カラカラに乾いた種なしパンが少しあるくらい。
 普通ならどの棲まいにも置いてあるはずの木の実や干し肉、果物を干したものも無い。
 ガンマがあんまり食べないからだろうなと思うと、食い尽くしたらまずいかなって遠慮しちゃうし、いくら落ち着く場所だって言っても、やっぱり太陽や月の光を浴びたくなる。
 ここにある書物を色々読んで、少しずつ話を聞いて、なんとなく分かった。ガンマはあくまで精霊の立場でものを言ってる。そして郷のみんな、アルファのことでさえ下に見てる。
 元オメガって言ってたけど、ガンマって本当は精霊とかなんじゃないのかな。
 だって綺麗すぎる。
 肌が白すぎだし、産毛の生えた頬なんて肌触りが良すぎるし、薄桃色の唇はコケモモみたい。薄灰のまつげの影が玻璃みたいな灰色の瞳に落ちて、笑うときや楽しいときは瞳がキラキラして、……なんか生き物じゃないみたいだ。
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