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1章 Run after me -若狼-
9.運命
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どんな人狼も運命と出会うことに憧れる。けれど番と出会えない人狼もいる。
郷に番がいないと分かったとき、他郷へ番探しの旅に出る人狼もいるが、多くは番なしとして生を全うする。精霊に定められたことだと受け入れるのだ。
けれど同じような番無しと番うこともある。発情の季節、運命でない相手にうまく発情できないときは、癒しが発情を助ける薬をくれる。子狼を増やすのが大切なとき、これも人狼として正しい道の一つとされるのだ。ただ精霊に厭われると匂いが薄れて老い衰えやすくなるので、その道を選ぶ人狼は少ない。番を定めるのは精霊であり、人狼は本能にあらがわないのだ。
稀ではあるが、ひと族が番である人狼もいる。
番がひと族であるということは、『商人』という役目を与えられるということ。郷の序列から離れるので、アルファの影響を受けなくなる。
商人は郷のものをひと族の里に運んで、郷へ必要なものを運ぶ役割だ。
大昔は語り部が他郷とのやり取りを行うくらいで、ひと族とのやり取りはなかったから、『商人』という役目はなかったらしい。でも今の郷にとって、商人は大切な役目だ。
人狼は畑で作物を作るのが苦手だから、麦も麦の酒も作れない。
郷で強い火を使うことを精霊が厭うので鉄やレンガを作れない。
だから大工の使うような釘とか工具や、ひと族のような建物を作る時に必要になる材料とか、その他にもよく切れるナイフとかハサミとか、そういったものは商人から得る。
癒しや語り部はペンやインクを欲しがるし、本や地図も商人に頼んでた。機織りでは織れない薄い布とか、きれいな首飾りや髪飾りなど番への贈り物を頼むやつもいる。
それに商人の話は面白い。だから商人が来ると、子狼たちはお話をせがんだ。俺がひと族の村や町でなんとなくやってこれたのも、商人の話を聞いてたからだ。
いなければ困る大切な仕事なのに、序列に入っていないから正しい人狼ではないというやつはいる。
アルファの下に従うのが人狼であり、番が人狼で無いから正しくない、ひと族といると人狼の力を失う、なんて老いたものとかが言ってるのを聞いたことがある。けど精霊に与えられた番で役目なんだ。正しくないってことはないだろう。俺だって運命がひと族と繋がってたなら商人になるんだし。
―――そうだよな。
考えたこと無かったけど、それであんな風に言われたらいやだな。ひと族の番に優しくするって掟を作れば良いのにな。俺がアルファならそういう掟を作って、みんな商人に優しくするよう言うのに。アルファが作った掟には皆従うんだから、それが正しいことになるよな。
……アルファか。正しいアルファとかあるのかな。精霊に選ばれるんだから、間違いなんてありえないけど……でもあのアルファ、言うことが勝手なんだ。番でもないのにオメガになるなんて精霊に反すること、おかしいだろ? だからこんなことになってる。俺は掟を破りたくて破ったんじゃ……、ん? ちょっと待って。
え、……なら、なら…………俺が、アルファになれば──────?
そうだ、そうだよ、俺がアルファになればいいんじゃないか?
アルファになれば、誰にも従わなくていい。オメガにならないで済むんだ。そうだよ、どうして気付かなかったんだろ。“あいつ”に近づくなと命令することだってできるんだ。
けれどアルファは群れで一番強い雄。俺はあんまり強くない。
でも動きは敏捷だ。相手の牙や爪を躱せる。それに気配の変化を感じ取って隙を見つけるのは得意だ。足を引っかけたり、腕を逆に決めたり、そういう関節技も褒められたし、長所を伸ばすよう鍛えてた。狩りとして必要な能力は戦いにも使えるって学んだ。子狼の頃、年上もいた相撲で一番になったことだってある。けど……“あいつ”に勝てるだろうか。
次のアルファが誰かという話になると、みんなが“あいつ”じゃないかと言っていた。
なるべく見ないように近づかないようにしてたから戦うところなんて見たこと無いし、俺はよく分からない。けど同世代、“あいつ”は強いって思ってるんだ。俺だって、遠くからだけど強者の気配を感じ取っていた。匂わないようにしてたから、気配だけだけど。
でも、だからって俺が絶対勝てない、なんてことも無いような気がする。そうだ、逃げる必要は無いんじゃないか?
郷で雄同士が諍いを起こすと、アルファの前で戦って裁量を受ける。負けた方が無条件に従うのだ。
あれが他郷のやつだったなら、人狼として正しくないんだから潰してやればいい。ここにアルファはいないけど、発情してないアグネッサと子作りしたいひと族のために俺を潰すなんて、バカのすることだ。そもそも匂いも気配も薄いし、たいしたことないから勝てる。
でも、考えにくいけど、もしあれが“あいつ”だったなら。
俺はあいつに従う気が無い。ならいずれ戦うってことだ。どっちにしろやり合うなら、今やったって同じこと────いや、もうすぐ新月だ。この時期に怪我なんてしたら、下手すると失われてしまう。同族殺しはダメだ。
そうじゃなくても喰わない相手を殺すことはしたくない。もっと月が太るまで待った方が良い。
あれを倒し、郷に戻って“あいつ”を倒せたなら、アルファだって倒せる。そんな気がしてきた。
決めた。郷に戻ってアルファと番わないために、俺はそうする。
人狼として衰える前に、いまのうちに。
俺は鍛え始めた。
郷を出たのは冬の終わり。それから季節二つが過ぎ、秋の初めに至っているけど、その間なにも訓練してなかったのだ。
ひと族に負けるわけ無いし、匂いや気配や音や、そういうのを感じないよう感覚を閉ざす方が重要だったから、意識がそっちにいってた。
けれど人狼同士で戦うなら話は別だ。さまざま鈍っているに違いないものを取り戻さなければならない。勝つために役に立つと思えることは全部やる。
アグネッサに命じられた務めがない時間、ビッシリ訓練する。町をうろついたりしないで、いつも以上に肉を食い、酒は断った。
鍛えたいからと頼んだら、重いものを運ぶ仕事をやらせて貰えた。空いてる時間は屋敷の庭で走り込む。夜は屋根伝いに走り飛んで、人目の無い場所を見つけ、郷に居た頃よくやってたような訓練もしてみた。
切り立った岩肌を音を立てず気配も殺して上り降りしたり、高いところから飛び降りて音を立てない訓練。岩肌はないので高い建物の壁でやった。木に登り、枝や葉をうまく使って飛ぶのは森が無いから同じにはできなかったけど、町の細くて背の低い木でやった。感覚を研ぎ澄まして木に重さを伝えないようにしないといけなくて、身の軽さを要求されるから、いい訓練になったと思う。
ひと族は鈍いから気付かないけれど、気配を抑えていても獣には分かる。人狼というか、強者がいるって伝わってしまう。
だからアグネッサのところで働く前、最初に馬車に乗ったとき、アグネッサの馬に怯える必要はないと教え込んだ。屋敷で務めを得てからは馬にも犬にもしっかり働くように伝えてる。
供として出かけるときは感覚を限界まで抑えていた。そこらにいる馬や犬がおびえると、目立ってしまうかもしれないと考えたから。
でも今は取り戻す必要がある。
気配を追う感覚も必要になるだろうと思い、一瞬だけ解放してみたけれど、ぐわっと襲ってきたもろもろに目眩がして、焦って抑えた。
けれどいざとなったら目眩とか言ってる場合じゃない。なんでも使わなければならない。
ちょっとはマシな川縁に行って、少しずつ、短時間だけ、感覚を解放してみたりもした。けど近くにいた馬や鳥や犬が怯えて騒いだし、周囲の気配がざわついたからすぐに閉じた。少しだけでもかなりキツかった。
カネを全然使ってなかったから、ひと族の使う武器を手に入れようと考えた。武器屋で聞いてみると、強い武器なら剣や弓矢と言われたけれど、使いこなせそうにないから小型の斧と棍棒を選んだ。夜中に試してみたけど、あまり役に立ちそうにない感じ。でも一応、使えるように練習はした。
あの人狼から強者の気配はしなかったし匂いも薄かった。たいしたやつじゃないと思うけれど、勝つためにはなんでもしないと。あれに勝てば郷に戻ってあいつに戦いを挑むのだ。アルファに挑むのだ。
そんな風に過ごしながら月が満ちるのを待ち、満月まで五日となった深夜。
人型のまま、腰に棍棒と斧を装備して窓から屋根に昇る。
人狼ならおそらく、満月まで戦うことは無いと予測しているだろう。その虚を突くのだ。やるなら勝たなければならない。たいしたこと無いやつだとしても、油断はできない。
屋根の上を走って、ゲイルの屋敷へ向かう。
中心にある高い塔から少し外れたあたり、アグネッサの屋敷より大きくて、周囲を高い塀で囲まれ、門が閉ざされている。けどいくら高かろうが、塀なんて人狼には意味がない。ひと飛びで越えた。
庭には水場や花壇、四阿なんかがあり、犬が何匹か放たれていた。
俺が庭に降り立つと、犬どもは尻尾を股ぐらに挟んで頭を垂れる。目で命じると、おとなしく巣へと去った。犬が狼に従うのは当たり前のこと。まして満月まで五日の人狼なのだ。いくら抑えたって獣には分かる。
この町に来たばかりの頃、まず匂いに耐えられなかった。雑多な気配や音や、さまざまなものに苛まれ、ひどく疲れた。
川縁が少しだけマシだったので、しばらく河原で寝起きしながら少しずつやってみていた。眼を耳を鼻を、肌で感じ取ってしまう気配を遮断するやり方。臭さに倒れそうになりながら、少しずつ身につけていった。
抑えていると獣に騒がれなくなったので、相手にも気配が伝わりにくくなると気付いた。そう分かってから、ずっと抑えるようにしていた。
完璧に閉ざすなんて無理だけど、それでなんとかやってきた。アグネッサのところで働く頃には、だいぶできるようになっていたし、今はかなり慣れて自然にできるようになって……そうしないと、ひと族の町で暮らすなんて無理だったから。それを開放するのは、勇気がいる。
ふう、と息を吐いて眼を閉じる。
あれを倒すと決めてから、何度か川縁で少し開いてみた。
でも全開にはしていない。少しだけでもかなりキツかった。
覚悟を決めて、感覚を全解放し──────、ゾゾっと肌がそそける。
奥歯を噛みしめ、必死に耐えた。
耳が、鼻が、肌が、一気に情報を連れてくる。久しぶりに味わう感覚の奔流。あらゆる匂い、あらゆる音、多くのひと族や獣の気配。雑多なものが一気に浴びせかけられ、ものすごい圧に目眩がする。
抑えたいという衝動を必死にこらえ、ひたすら受け止め────全身の毛が逆立つ。歯を食いしばって言い聞かせる。しっかりしろ、少しの間だけ耐えろ。感覚を思い出せ。必要なものだけに意識を向けるんだ。あの人狼の気配を探せ。できるはず。ひと族じゃない、あの気配。
あらゆるものの奔流の中から微かな違和感を感じ、そこに意識を向ける。
匂い……は、分からない。でも、これだ。ひと族とは明らかに違う、新月近かったあの時でさえゾクッとした感じ。今は感覚のるつぼにいるけど、同じものだ。
奥歯を噛みしめて身の奥から立ち上る怖気に耐え、掴んだ気配へと向かう。……上だ。
手頃な木に昇り、枝の反動を利用して壁に張り付いた。爪を立て、音を立てずに壁を昇る。
――――感じ取った気配は薄い、けどここだ。絶対にひと族じゃない。もういいだろうと感覚を閉ざし、ホッと一息ついた。でも気は抜けない。用心しながら窓を覗き込む。
窓に明かりは無いが人狼には関係ない。それは相手も同じだろう。
丸いガラスがたくさん嵌め込まれた窓は、向こう側が歪んで見えるけれど、いる。
シャツ一枚羽織った逞しい背中。短く刈り込んだ髪。色は分からない。彫像のように動かない────と思ったら。
全身から汗が吹き出し、動けなくなった。
微かだった気配が、一気に……強者の気配にふくれあがる。
「蒼の雪灰」
低い声が耳に響く。全身の毛が逆立ち、汗は滝のよう。動けない。
「蒼の雪灰」
彫像のように動かなかった背中が振り返る。髭に覆われた頬。そして……金の瞳。
────“あいつ”だ。
そして悟った。
──────こいつには勝てっこない。
郷に番がいないと分かったとき、他郷へ番探しの旅に出る人狼もいるが、多くは番なしとして生を全うする。精霊に定められたことだと受け入れるのだ。
けれど同じような番無しと番うこともある。発情の季節、運命でない相手にうまく発情できないときは、癒しが発情を助ける薬をくれる。子狼を増やすのが大切なとき、これも人狼として正しい道の一つとされるのだ。ただ精霊に厭われると匂いが薄れて老い衰えやすくなるので、その道を選ぶ人狼は少ない。番を定めるのは精霊であり、人狼は本能にあらがわないのだ。
稀ではあるが、ひと族が番である人狼もいる。
番がひと族であるということは、『商人』という役目を与えられるということ。郷の序列から離れるので、アルファの影響を受けなくなる。
商人は郷のものをひと族の里に運んで、郷へ必要なものを運ぶ役割だ。
大昔は語り部が他郷とのやり取りを行うくらいで、ひと族とのやり取りはなかったから、『商人』という役目はなかったらしい。でも今の郷にとって、商人は大切な役目だ。
人狼は畑で作物を作るのが苦手だから、麦も麦の酒も作れない。
郷で強い火を使うことを精霊が厭うので鉄やレンガを作れない。
だから大工の使うような釘とか工具や、ひと族のような建物を作る時に必要になる材料とか、その他にもよく切れるナイフとかハサミとか、そういったものは商人から得る。
癒しや語り部はペンやインクを欲しがるし、本や地図も商人に頼んでた。機織りでは織れない薄い布とか、きれいな首飾りや髪飾りなど番への贈り物を頼むやつもいる。
それに商人の話は面白い。だから商人が来ると、子狼たちはお話をせがんだ。俺がひと族の村や町でなんとなくやってこれたのも、商人の話を聞いてたからだ。
いなければ困る大切な仕事なのに、序列に入っていないから正しい人狼ではないというやつはいる。
アルファの下に従うのが人狼であり、番が人狼で無いから正しくない、ひと族といると人狼の力を失う、なんて老いたものとかが言ってるのを聞いたことがある。けど精霊に与えられた番で役目なんだ。正しくないってことはないだろう。俺だって運命がひと族と繋がってたなら商人になるんだし。
―――そうだよな。
考えたこと無かったけど、それであんな風に言われたらいやだな。ひと族の番に優しくするって掟を作れば良いのにな。俺がアルファならそういう掟を作って、みんな商人に優しくするよう言うのに。アルファが作った掟には皆従うんだから、それが正しいことになるよな。
……アルファか。正しいアルファとかあるのかな。精霊に選ばれるんだから、間違いなんてありえないけど……でもあのアルファ、言うことが勝手なんだ。番でもないのにオメガになるなんて精霊に反すること、おかしいだろ? だからこんなことになってる。俺は掟を破りたくて破ったんじゃ……、ん? ちょっと待って。
え、……なら、なら…………俺が、アルファになれば──────?
そうだ、そうだよ、俺がアルファになればいいんじゃないか?
アルファになれば、誰にも従わなくていい。オメガにならないで済むんだ。そうだよ、どうして気付かなかったんだろ。“あいつ”に近づくなと命令することだってできるんだ。
けれどアルファは群れで一番強い雄。俺はあんまり強くない。
でも動きは敏捷だ。相手の牙や爪を躱せる。それに気配の変化を感じ取って隙を見つけるのは得意だ。足を引っかけたり、腕を逆に決めたり、そういう関節技も褒められたし、長所を伸ばすよう鍛えてた。狩りとして必要な能力は戦いにも使えるって学んだ。子狼の頃、年上もいた相撲で一番になったことだってある。けど……“あいつ”に勝てるだろうか。
次のアルファが誰かという話になると、みんなが“あいつ”じゃないかと言っていた。
なるべく見ないように近づかないようにしてたから戦うところなんて見たこと無いし、俺はよく分からない。けど同世代、“あいつ”は強いって思ってるんだ。俺だって、遠くからだけど強者の気配を感じ取っていた。匂わないようにしてたから、気配だけだけど。
でも、だからって俺が絶対勝てない、なんてことも無いような気がする。そうだ、逃げる必要は無いんじゃないか?
郷で雄同士が諍いを起こすと、アルファの前で戦って裁量を受ける。負けた方が無条件に従うのだ。
あれが他郷のやつだったなら、人狼として正しくないんだから潰してやればいい。ここにアルファはいないけど、発情してないアグネッサと子作りしたいひと族のために俺を潰すなんて、バカのすることだ。そもそも匂いも気配も薄いし、たいしたことないから勝てる。
でも、考えにくいけど、もしあれが“あいつ”だったなら。
俺はあいつに従う気が無い。ならいずれ戦うってことだ。どっちにしろやり合うなら、今やったって同じこと────いや、もうすぐ新月だ。この時期に怪我なんてしたら、下手すると失われてしまう。同族殺しはダメだ。
そうじゃなくても喰わない相手を殺すことはしたくない。もっと月が太るまで待った方が良い。
あれを倒し、郷に戻って“あいつ”を倒せたなら、アルファだって倒せる。そんな気がしてきた。
決めた。郷に戻ってアルファと番わないために、俺はそうする。
人狼として衰える前に、いまのうちに。
俺は鍛え始めた。
郷を出たのは冬の終わり。それから季節二つが過ぎ、秋の初めに至っているけど、その間なにも訓練してなかったのだ。
ひと族に負けるわけ無いし、匂いや気配や音や、そういうのを感じないよう感覚を閉ざす方が重要だったから、意識がそっちにいってた。
けれど人狼同士で戦うなら話は別だ。さまざま鈍っているに違いないものを取り戻さなければならない。勝つために役に立つと思えることは全部やる。
アグネッサに命じられた務めがない時間、ビッシリ訓練する。町をうろついたりしないで、いつも以上に肉を食い、酒は断った。
鍛えたいからと頼んだら、重いものを運ぶ仕事をやらせて貰えた。空いてる時間は屋敷の庭で走り込む。夜は屋根伝いに走り飛んで、人目の無い場所を見つけ、郷に居た頃よくやってたような訓練もしてみた。
切り立った岩肌を音を立てず気配も殺して上り降りしたり、高いところから飛び降りて音を立てない訓練。岩肌はないので高い建物の壁でやった。木に登り、枝や葉をうまく使って飛ぶのは森が無いから同じにはできなかったけど、町の細くて背の低い木でやった。感覚を研ぎ澄まして木に重さを伝えないようにしないといけなくて、身の軽さを要求されるから、いい訓練になったと思う。
ひと族は鈍いから気付かないけれど、気配を抑えていても獣には分かる。人狼というか、強者がいるって伝わってしまう。
だからアグネッサのところで働く前、最初に馬車に乗ったとき、アグネッサの馬に怯える必要はないと教え込んだ。屋敷で務めを得てからは馬にも犬にもしっかり働くように伝えてる。
供として出かけるときは感覚を限界まで抑えていた。そこらにいる馬や犬がおびえると、目立ってしまうかもしれないと考えたから。
でも今は取り戻す必要がある。
気配を追う感覚も必要になるだろうと思い、一瞬だけ解放してみたけれど、ぐわっと襲ってきたもろもろに目眩がして、焦って抑えた。
けれどいざとなったら目眩とか言ってる場合じゃない。なんでも使わなければならない。
ちょっとはマシな川縁に行って、少しずつ、短時間だけ、感覚を解放してみたりもした。けど近くにいた馬や鳥や犬が怯えて騒いだし、周囲の気配がざわついたからすぐに閉じた。少しだけでもかなりキツかった。
カネを全然使ってなかったから、ひと族の使う武器を手に入れようと考えた。武器屋で聞いてみると、強い武器なら剣や弓矢と言われたけれど、使いこなせそうにないから小型の斧と棍棒を選んだ。夜中に試してみたけど、あまり役に立ちそうにない感じ。でも一応、使えるように練習はした。
あの人狼から強者の気配はしなかったし匂いも薄かった。たいしたやつじゃないと思うけれど、勝つためにはなんでもしないと。あれに勝てば郷に戻ってあいつに戦いを挑むのだ。アルファに挑むのだ。
そんな風に過ごしながら月が満ちるのを待ち、満月まで五日となった深夜。
人型のまま、腰に棍棒と斧を装備して窓から屋根に昇る。
人狼ならおそらく、満月まで戦うことは無いと予測しているだろう。その虚を突くのだ。やるなら勝たなければならない。たいしたこと無いやつだとしても、油断はできない。
屋根の上を走って、ゲイルの屋敷へ向かう。
中心にある高い塔から少し外れたあたり、アグネッサの屋敷より大きくて、周囲を高い塀で囲まれ、門が閉ざされている。けどいくら高かろうが、塀なんて人狼には意味がない。ひと飛びで越えた。
庭には水場や花壇、四阿なんかがあり、犬が何匹か放たれていた。
俺が庭に降り立つと、犬どもは尻尾を股ぐらに挟んで頭を垂れる。目で命じると、おとなしく巣へと去った。犬が狼に従うのは当たり前のこと。まして満月まで五日の人狼なのだ。いくら抑えたって獣には分かる。
この町に来たばかりの頃、まず匂いに耐えられなかった。雑多な気配や音や、さまざまなものに苛まれ、ひどく疲れた。
川縁が少しだけマシだったので、しばらく河原で寝起きしながら少しずつやってみていた。眼を耳を鼻を、肌で感じ取ってしまう気配を遮断するやり方。臭さに倒れそうになりながら、少しずつ身につけていった。
抑えていると獣に騒がれなくなったので、相手にも気配が伝わりにくくなると気付いた。そう分かってから、ずっと抑えるようにしていた。
完璧に閉ざすなんて無理だけど、それでなんとかやってきた。アグネッサのところで働く頃には、だいぶできるようになっていたし、今はかなり慣れて自然にできるようになって……そうしないと、ひと族の町で暮らすなんて無理だったから。それを開放するのは、勇気がいる。
ふう、と息を吐いて眼を閉じる。
あれを倒すと決めてから、何度か川縁で少し開いてみた。
でも全開にはしていない。少しだけでもかなりキツかった。
覚悟を決めて、感覚を全解放し──────、ゾゾっと肌がそそける。
奥歯を噛みしめ、必死に耐えた。
耳が、鼻が、肌が、一気に情報を連れてくる。久しぶりに味わう感覚の奔流。あらゆる匂い、あらゆる音、多くのひと族や獣の気配。雑多なものが一気に浴びせかけられ、ものすごい圧に目眩がする。
抑えたいという衝動を必死にこらえ、ひたすら受け止め────全身の毛が逆立つ。歯を食いしばって言い聞かせる。しっかりしろ、少しの間だけ耐えろ。感覚を思い出せ。必要なものだけに意識を向けるんだ。あの人狼の気配を探せ。できるはず。ひと族じゃない、あの気配。
あらゆるものの奔流の中から微かな違和感を感じ、そこに意識を向ける。
匂い……は、分からない。でも、これだ。ひと族とは明らかに違う、新月近かったあの時でさえゾクッとした感じ。今は感覚のるつぼにいるけど、同じものだ。
奥歯を噛みしめて身の奥から立ち上る怖気に耐え、掴んだ気配へと向かう。……上だ。
手頃な木に昇り、枝の反動を利用して壁に張り付いた。爪を立て、音を立てずに壁を昇る。
――――感じ取った気配は薄い、けどここだ。絶対にひと族じゃない。もういいだろうと感覚を閉ざし、ホッと一息ついた。でも気は抜けない。用心しながら窓を覗き込む。
窓に明かりは無いが人狼には関係ない。それは相手も同じだろう。
丸いガラスがたくさん嵌め込まれた窓は、向こう側が歪んで見えるけれど、いる。
シャツ一枚羽織った逞しい背中。短く刈り込んだ髪。色は分からない。彫像のように動かない────と思ったら。
全身から汗が吹き出し、動けなくなった。
微かだった気配が、一気に……強者の気配にふくれあがる。
「蒼の雪灰」
低い声が耳に響く。全身の毛が逆立ち、汗は滝のよう。動けない。
「蒼の雪灰」
彫像のように動かなかった背中が振り返る。髭に覆われた頬。そして……金の瞳。
────“あいつ”だ。
そして悟った。
──────こいつには勝てっこない。
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