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1章 Run after me -若狼-
8.あいつ
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新月近い夜。
その日もアグネッサは、歌姫として呼ばれた夜会へ向かった。ひと月に一回か二回はあることだ。
そういうとき、俺はぴったりアグネッサについて歩く。なにがあろうと雇い主から離れない。それが仕事だ。
ひと族であるアグネッサは俺の主ではないけど、与えられた務めをまっとうするのは当たり前のこと。カネをくれるんだから、俺はそれに足る仕事をする。これは従っているのではない。対等に取引してる感じだ。
馬車の中のアグネッサは、たいてい目を閉じている。細い息をゆっくりと吸い、ゆっくりと吐く。何度もそうしている。呼吸を整えているようにも見えるけれど、心音や脈に乱れはない。
建物に着くと俺は先に馬車を降り、馬車の扉へ向けて手を伸ばす。上向きのてのひらに、そっと乗る柔らかい手をゆっくり引いて、アグネッサが堂々と危なげなく降りられるようエスコートする。
この瞬間から、ひと族の視線が集まる。アグネッサが場の主になる。小さな感嘆の呻き、何か呟く声、密かな噂、囁き、小さな声が重なり、周囲がざわざわするけれど、アグネッサに気にする様子はない。
いつもより強い眼差しが少し細まって、まっすぐ前だけを見ている。
少し顎を上げ、くちもとに薄い笑みを湛えたアグネッサは、迎え入れるように開く扉を当然のように通り、広い廊下を進んでいく。
俺はアグネッサが下を見ずに歩いても危なくないよう、階段を上がるときも足元を見ないで済むようにエスコートして、一番奥まで進んでいく。
奥の広間は高い天井の下、奥に楽師たちが並んでいて、その前に少し高くて赤いじゅうたんの敷かれた所がある。そこに上がると、俺はエスコートの手を下ろす。絨毯の上は俺とアグネッサだけ。
小さく息を吐き、くるりとひと族たちに振り返って、アグネッサは嫣然と笑む。
髪を高く結い上げ、煌びやかなドレスを纏ったアグネッサは、笑んだまま場を見渡し、ゆっくりと両腕を広げたまま肩の高さまで上げていく。
ざわざわが静まった。郷で感じたことがあるような爽やかな風がすうっと吹きわたる。
歌姫をやるときのアグネッサは、いつもとちょっと違う。
香油を使わないのに、四十を過ぎた円熟を感じさせる匂いが強く香って、気配がいつもより強くなるというか、体も一回り大きい感じがする。
ひと族はみな吞まれたように、この場の主をみつめている。
広げた形のままの腕が、ほんの少し上がり、ゆっくり下がり、胸元に両手が集まり、……いつのまにかアグネッサは歌っている。
風に乗って声が広がっていく。不思議な波長が場のすべてに浸透していく。ひと族はみんなぼうっとしている。
歌うアグネッサから、清涼な風が流れていくよう。いつも不快に感じる匂いや雑多な気配が薄れ、場がアグネッサに支配される。
普段はすぐ発情する雄も雌も、ただアグネッサに魅了されてるみたいで、すぐ後ろに立ってる俺のことなんて誰も見ない。
声にひと族を魅了する力が宿っているんじゃないかな。俺にはまったく効かないから、ひと族にだけ効く力なんだろう。
人狼もこんな風になることがある。
アルファの遠吠えを聞いたり厳かな声をきいたとき、俺たちは魅了され、なんでもできる気分になる。
アグネッサは雌なのに、ひと族に対してアルファのような力を使えるのかもしれない。弱い種族だと思ってたけど、ひと族にもこういうのがいるんだなと、俺は知った。
ともかく、俺は与えられた務めをこなすべく、会場を注意深く見ていた。
注意しなければならないやつが何人かいるので、この状態のうちに誰が来ていてどこにいるか確認しておくと後が楽なのだ。俺は感覚を殺したまま目を凝らす。
歌が終わると、ひと族は一気に発情とかひどくクサい匂いとか色んな匂いを発し始めて、アグネッサに近づこうとする。感覚を少しでも広げたりしたら立っていられなくなるだろう。そうでなくてもこの場は、甘ったるい匂いとクサいのとが混じりあって、かなりひどいのだ。だからその前、魅了されているうちに見ておくのだが、特に注意する必要がある貴族のゲイルがいない。いつも一番目立つところにいるのに。
ゲイルはひと族の王にアグネッサを手に入れたと言ったとかなんとか。意味は分からないが、王とかが出てきたら面倒なことになるらしい。今日もどんな動きをするか分からないので、どこにいるか確認しておかないといけないのに……どこにいる? まさか来てないんだろうか。ゲイルの気配を拾うべく、少しだけ感覚を……、
……? なんだ?
違和感があった。
明らかに異質な気配がいる。
ひと族はみな魅了されてるのに、俺と同じように影響を受けてない感じが……ある。どういうことだ?
警戒すべきと本能が警鐘を鳴らした瞬間、無自覚に閉ざしている感覚が解放されて慌てる。新月近いし、鋭くはない、でもこんな場で感覚を広げたら気持ち悪く……なる前にゾクッとした。
背筋が泡だつ。
薄い、けどこの気配。
悪寒に似た、ゾクゾクする、これって────
まさか……“あいつ”……?
アグネッサでなく俺を見る視線。
ひと族で埋め尽くされた広間の中、頭ひとつ抜きん出た銅色。 あれは────
毛の色は“あいつ”と同じ。けれどあの眼は? 暗く沈んだ茶色に見える。“あいつ”は『金の銅色』と呼ばれてた。眼は深く輝く金色のはず。仮の階位につくまで、俺たちは眼と毛の色で個体を判別するんだ。間違いない。
身体が細かく震えて膝が折れそう。慌てて目を逸らし感覚を閉じる。
少し気持ち悪い、生ぬるい感覚、つまりいつもの感じになって、知らず滲んでいた汗を指先で拭う。チラリと目を向けると、銅色の毛の男は、まだ真っ直ぐ俺を見てる。やっぱりゾクッとしてすぐ視線を動かす。見てたらマズイ。
でも……あれは“あいつ”なんだろうか。
あんな顔だったか? あんな髭だったか?
郷では気配感じたら逃げてた。匂いだけでもゾクゾクするから嗅がないようにしてた。顔なんて見てないし分からない。分からない。分からないけど、確かめなければ。
額やこめかみに滲み続ける汗。指先では足りなくて手の甲も使って拭い、もう一度チラッと見て、そいつの近くにゲイルがいるのに気付いた。
そういえば前に馬鹿が言っていた。ゲイルが新しく用心棒を雇ったとか、俺よりデカくて強いやつだとか。そうだ言ってた。デカかろうがひと族に負けるわけないから聞き流して、すっかり忘れてた。
けどあれは……。
“あいつ”ではないにしても、ひと族では無い。絶対に違う。じゃあ似た毛の色をした違う人狼……?
ギリッとくちびるを噛む。
まさかあの下町を抜けられる人狼が居たなんて。
追っ手だろうか。そうとしか思えない。目的無しにあの下町を抜ける人狼が居るとは思えない。
おそらくアルファが命じたのだ。俺を連れ戻せ、逃がすなと。俺が苦手にしている“あいつ”に、敢えて命じたのか。あれは“あいつ”なのか違うのか。追っ手なのか違うのか。
確かめるべきか? そうするべきか?
────そうするべきだ。
確かめて、追っ手なら追えないようにしないと。じゃないと捕まって連れ戻される。あのアルファと番うことになる。それは嫌だ。絶対に嫌だ。
アグネッサが歌い終え、ひと族の臭いや気配が戻る。務めを果たさなければ。
息を吐いて、俺は緊張感を高める。
夜会が始まった。
台を降りたアグネッサに、さまざまな雄や雌が話しかける。触れようとする者もいる。俺は務めを果たす。
なぜかゲイルは近寄ってこない。いつもならグイグイ来るのに、さっきと同じ場で見てるだけ。気づいたらあの用心棒と一緒に帰ったらしく、いなくなっていた。
歌姫をやった後、アグネッサは疲れやすくなる。
夜会が終わる前に帰ると言ったので、付き添って屋敷へ戻り、寝室まで送り届けた。
何も食べていないけれど、夕食を断って借りてる部屋へ戻った。メシどころじゃない。
────確かめるべきだろう?
“あいつ”なのか別の追っ手なのか。あるいは別の郷の人狼か?
けれど気配は“あいつ”に思えた。気配だけは分かるんだ。薄かったけれど、すごく似てた。それとも他郷には似た気配の奴がいるんだろうか。
追っ手なら、ただ逃げてもすぐ追いつかれてるだろう。追うことが得意な者が命じられているに違いないし、町まで入って来れるなんて、そうとうなやつってことだ。なんとかしないと俺程度、すぐ捕まる。
けど追わせない方法はいくつかある。
相手の鼻を潰す、足を潰す。今は新月だから傷の治りも遅い。
俺よりアレの方がデカい。けど俺の方が敏捷だったら勝機はある。ぶち倒して、その隙にこっちの気配を抑えて逃げれば……
────くそ……っ
俺は努力したんだ。やっと町でやっていけると思えるようになったんだ。
鼻を抑えて臭いに耐え、耳を殺しても聞こえてくる誰かの秘密や噂話も知らないフリをして、発情するひと族の匂いも無理矢理慣れたフリをした。ひと族はそういうもんなんだと考えるようにして、ひと族のようにふるまい、ひと族と酒を飲んで笑って。
俺は“自由”なんだから、楽しく過ごそうって────だんだん感覚を失っていくんじゃないか、そんな恐れと戦いながら。
そう俺は怖かった。人狼としての力を失うんじゃないかって思うと怖かった。
むりやりひと族に馴染んで、……それで俺は、郷に戻れるのか? 戻れなかったらここで暮らしていくのか? 感覚が鈍っても、ひと族と相容れないという事実は残るのに?
胃の奥から迫り上がるような怖さを感じると、俺は下町へ行って酒を飲んだ。月が満ちてれば人狼の本能だけで屋根を飛んだ。でも大丈夫だって実感なんて無かった。感覚を全解放はしなかったから。ひと族の町でそんなことをしたら、とっても辛いと分かってたから。
アルファと番うのは絶対に嫌だ。
いきなりオメガだと言われて、納得なんてできなくて。郷にいたらアルファの下す命には従わななきゃだから発作的に逃げた。けれど一人の時間が増え色々考えるようになって、気付いたんだ。
郷から逃げたってことは、アルファに従わないって言ってるようなもの、掟を破ったことになるんじゃないか?
いずれ戻ろうと思ってた。
けどあのアルファが失われて戻って、郷は掟破りを受け容れるのか? みんな“あいつ”が次のアルファになるだろうと言ってる。一番強い雄だから。でも……掟を絶対に守るあいつがアルファになったら、俺はどうなるんだろう。
郷を出てから季節二つが過ぎた。もうすぐ十八、成人だ。
もう一匹の雄としての働きを求められるってことだ。
掟に対してもそう。
成人前にやらかしても許されることが、成獣には許されなくなる。
郷にいた頃、成人したら立派に狩りを務めるんだと思っていた。自信もあった。
成人の儀式。
一週間ほどかけて行われるもの。
本来、発情は春に来て、仔は冬に産まれる。けれどかつて稚い雄たちは季節問わずに発情し、雌たちは癒しが作った薬を飲んで、むりやり発情した状態になって子作りした。少しでも早く子狼を増やさねばならないとアルファが指示したんだと聞いてる。
だから俺たちの世代までは季節外れがけっこういて、十八になる時期はバラバラだ。
けれど成人の儀は本来の時期、冬のさなかに行われる。その年成人した者はその時期まで待って儀式を受ける。
儀式を終えると、みんなそれまでとは厳然と違うなにかを身につけ、纏う雰囲気が変わって、匂いすらまったく変わって戻ってくる。
少し前まで一緒に遊んでいたはず、同じやつのはずなのに、その姿は郷のために働く成獣そのもの、まったく違って見えてかっこよかった。
だから子狼はみんな憧れる。早く大きくなって立派に成人し、郷のために働けるような力を得るのだと。俺もあんな風になるのだと。
俺だって儀式を終えて狩りとして認められるようになったなら、郷のために働くんだと思ってた。そしてできるなら番を捜す旅に出る許しを得ようと思ってた。唯一の番に出会えば、きっと素晴らしく幸せになれると、信じていた。
……俺が番と出会うことなんて、あるんだろうか。
その日もアグネッサは、歌姫として呼ばれた夜会へ向かった。ひと月に一回か二回はあることだ。
そういうとき、俺はぴったりアグネッサについて歩く。なにがあろうと雇い主から離れない。それが仕事だ。
ひと族であるアグネッサは俺の主ではないけど、与えられた務めをまっとうするのは当たり前のこと。カネをくれるんだから、俺はそれに足る仕事をする。これは従っているのではない。対等に取引してる感じだ。
馬車の中のアグネッサは、たいてい目を閉じている。細い息をゆっくりと吸い、ゆっくりと吐く。何度もそうしている。呼吸を整えているようにも見えるけれど、心音や脈に乱れはない。
建物に着くと俺は先に馬車を降り、馬車の扉へ向けて手を伸ばす。上向きのてのひらに、そっと乗る柔らかい手をゆっくり引いて、アグネッサが堂々と危なげなく降りられるようエスコートする。
この瞬間から、ひと族の視線が集まる。アグネッサが場の主になる。小さな感嘆の呻き、何か呟く声、密かな噂、囁き、小さな声が重なり、周囲がざわざわするけれど、アグネッサに気にする様子はない。
いつもより強い眼差しが少し細まって、まっすぐ前だけを見ている。
少し顎を上げ、くちもとに薄い笑みを湛えたアグネッサは、迎え入れるように開く扉を当然のように通り、広い廊下を進んでいく。
俺はアグネッサが下を見ずに歩いても危なくないよう、階段を上がるときも足元を見ないで済むようにエスコートして、一番奥まで進んでいく。
奥の広間は高い天井の下、奥に楽師たちが並んでいて、その前に少し高くて赤いじゅうたんの敷かれた所がある。そこに上がると、俺はエスコートの手を下ろす。絨毯の上は俺とアグネッサだけ。
小さく息を吐き、くるりとひと族たちに振り返って、アグネッサは嫣然と笑む。
髪を高く結い上げ、煌びやかなドレスを纏ったアグネッサは、笑んだまま場を見渡し、ゆっくりと両腕を広げたまま肩の高さまで上げていく。
ざわざわが静まった。郷で感じたことがあるような爽やかな風がすうっと吹きわたる。
歌姫をやるときのアグネッサは、いつもとちょっと違う。
香油を使わないのに、四十を過ぎた円熟を感じさせる匂いが強く香って、気配がいつもより強くなるというか、体も一回り大きい感じがする。
ひと族はみな吞まれたように、この場の主をみつめている。
広げた形のままの腕が、ほんの少し上がり、ゆっくり下がり、胸元に両手が集まり、……いつのまにかアグネッサは歌っている。
風に乗って声が広がっていく。不思議な波長が場のすべてに浸透していく。ひと族はみんなぼうっとしている。
歌うアグネッサから、清涼な風が流れていくよう。いつも不快に感じる匂いや雑多な気配が薄れ、場がアグネッサに支配される。
普段はすぐ発情する雄も雌も、ただアグネッサに魅了されてるみたいで、すぐ後ろに立ってる俺のことなんて誰も見ない。
声にひと族を魅了する力が宿っているんじゃないかな。俺にはまったく効かないから、ひと族にだけ効く力なんだろう。
人狼もこんな風になることがある。
アルファの遠吠えを聞いたり厳かな声をきいたとき、俺たちは魅了され、なんでもできる気分になる。
アグネッサは雌なのに、ひと族に対してアルファのような力を使えるのかもしれない。弱い種族だと思ってたけど、ひと族にもこういうのがいるんだなと、俺は知った。
ともかく、俺は与えられた務めをこなすべく、会場を注意深く見ていた。
注意しなければならないやつが何人かいるので、この状態のうちに誰が来ていてどこにいるか確認しておくと後が楽なのだ。俺は感覚を殺したまま目を凝らす。
歌が終わると、ひと族は一気に発情とかひどくクサい匂いとか色んな匂いを発し始めて、アグネッサに近づこうとする。感覚を少しでも広げたりしたら立っていられなくなるだろう。そうでなくてもこの場は、甘ったるい匂いとクサいのとが混じりあって、かなりひどいのだ。だからその前、魅了されているうちに見ておくのだが、特に注意する必要がある貴族のゲイルがいない。いつも一番目立つところにいるのに。
ゲイルはひと族の王にアグネッサを手に入れたと言ったとかなんとか。意味は分からないが、王とかが出てきたら面倒なことになるらしい。今日もどんな動きをするか分からないので、どこにいるか確認しておかないといけないのに……どこにいる? まさか来てないんだろうか。ゲイルの気配を拾うべく、少しだけ感覚を……、
……? なんだ?
違和感があった。
明らかに異質な気配がいる。
ひと族はみな魅了されてるのに、俺と同じように影響を受けてない感じが……ある。どういうことだ?
警戒すべきと本能が警鐘を鳴らした瞬間、無自覚に閉ざしている感覚が解放されて慌てる。新月近いし、鋭くはない、でもこんな場で感覚を広げたら気持ち悪く……なる前にゾクッとした。
背筋が泡だつ。
薄い、けどこの気配。
悪寒に似た、ゾクゾクする、これって────
まさか……“あいつ”……?
アグネッサでなく俺を見る視線。
ひと族で埋め尽くされた広間の中、頭ひとつ抜きん出た銅色。 あれは────
毛の色は“あいつ”と同じ。けれどあの眼は? 暗く沈んだ茶色に見える。“あいつ”は『金の銅色』と呼ばれてた。眼は深く輝く金色のはず。仮の階位につくまで、俺たちは眼と毛の色で個体を判別するんだ。間違いない。
身体が細かく震えて膝が折れそう。慌てて目を逸らし感覚を閉じる。
少し気持ち悪い、生ぬるい感覚、つまりいつもの感じになって、知らず滲んでいた汗を指先で拭う。チラリと目を向けると、銅色の毛の男は、まだ真っ直ぐ俺を見てる。やっぱりゾクッとしてすぐ視線を動かす。見てたらマズイ。
でも……あれは“あいつ”なんだろうか。
あんな顔だったか? あんな髭だったか?
郷では気配感じたら逃げてた。匂いだけでもゾクゾクするから嗅がないようにしてた。顔なんて見てないし分からない。分からない。分からないけど、確かめなければ。
額やこめかみに滲み続ける汗。指先では足りなくて手の甲も使って拭い、もう一度チラッと見て、そいつの近くにゲイルがいるのに気付いた。
そういえば前に馬鹿が言っていた。ゲイルが新しく用心棒を雇ったとか、俺よりデカくて強いやつだとか。そうだ言ってた。デカかろうがひと族に負けるわけないから聞き流して、すっかり忘れてた。
けどあれは……。
“あいつ”ではないにしても、ひと族では無い。絶対に違う。じゃあ似た毛の色をした違う人狼……?
ギリッとくちびるを噛む。
まさかあの下町を抜けられる人狼が居たなんて。
追っ手だろうか。そうとしか思えない。目的無しにあの下町を抜ける人狼が居るとは思えない。
おそらくアルファが命じたのだ。俺を連れ戻せ、逃がすなと。俺が苦手にしている“あいつ”に、敢えて命じたのか。あれは“あいつ”なのか違うのか。追っ手なのか違うのか。
確かめるべきか? そうするべきか?
────そうするべきだ。
確かめて、追っ手なら追えないようにしないと。じゃないと捕まって連れ戻される。あのアルファと番うことになる。それは嫌だ。絶対に嫌だ。
アグネッサが歌い終え、ひと族の臭いや気配が戻る。務めを果たさなければ。
息を吐いて、俺は緊張感を高める。
夜会が始まった。
台を降りたアグネッサに、さまざまな雄や雌が話しかける。触れようとする者もいる。俺は務めを果たす。
なぜかゲイルは近寄ってこない。いつもならグイグイ来るのに、さっきと同じ場で見てるだけ。気づいたらあの用心棒と一緒に帰ったらしく、いなくなっていた。
歌姫をやった後、アグネッサは疲れやすくなる。
夜会が終わる前に帰ると言ったので、付き添って屋敷へ戻り、寝室まで送り届けた。
何も食べていないけれど、夕食を断って借りてる部屋へ戻った。メシどころじゃない。
────確かめるべきだろう?
“あいつ”なのか別の追っ手なのか。あるいは別の郷の人狼か?
けれど気配は“あいつ”に思えた。気配だけは分かるんだ。薄かったけれど、すごく似てた。それとも他郷には似た気配の奴がいるんだろうか。
追っ手なら、ただ逃げてもすぐ追いつかれてるだろう。追うことが得意な者が命じられているに違いないし、町まで入って来れるなんて、そうとうなやつってことだ。なんとかしないと俺程度、すぐ捕まる。
けど追わせない方法はいくつかある。
相手の鼻を潰す、足を潰す。今は新月だから傷の治りも遅い。
俺よりアレの方がデカい。けど俺の方が敏捷だったら勝機はある。ぶち倒して、その隙にこっちの気配を抑えて逃げれば……
────くそ……っ
俺は努力したんだ。やっと町でやっていけると思えるようになったんだ。
鼻を抑えて臭いに耐え、耳を殺しても聞こえてくる誰かの秘密や噂話も知らないフリをして、発情するひと族の匂いも無理矢理慣れたフリをした。ひと族はそういうもんなんだと考えるようにして、ひと族のようにふるまい、ひと族と酒を飲んで笑って。
俺は“自由”なんだから、楽しく過ごそうって────だんだん感覚を失っていくんじゃないか、そんな恐れと戦いながら。
そう俺は怖かった。人狼としての力を失うんじゃないかって思うと怖かった。
むりやりひと族に馴染んで、……それで俺は、郷に戻れるのか? 戻れなかったらここで暮らしていくのか? 感覚が鈍っても、ひと族と相容れないという事実は残るのに?
胃の奥から迫り上がるような怖さを感じると、俺は下町へ行って酒を飲んだ。月が満ちてれば人狼の本能だけで屋根を飛んだ。でも大丈夫だって実感なんて無かった。感覚を全解放はしなかったから。ひと族の町でそんなことをしたら、とっても辛いと分かってたから。
アルファと番うのは絶対に嫌だ。
いきなりオメガだと言われて、納得なんてできなくて。郷にいたらアルファの下す命には従わななきゃだから発作的に逃げた。けれど一人の時間が増え色々考えるようになって、気付いたんだ。
郷から逃げたってことは、アルファに従わないって言ってるようなもの、掟を破ったことになるんじゃないか?
いずれ戻ろうと思ってた。
けどあのアルファが失われて戻って、郷は掟破りを受け容れるのか? みんな“あいつ”が次のアルファになるだろうと言ってる。一番強い雄だから。でも……掟を絶対に守るあいつがアルファになったら、俺はどうなるんだろう。
郷を出てから季節二つが過ぎた。もうすぐ十八、成人だ。
もう一匹の雄としての働きを求められるってことだ。
掟に対してもそう。
成人前にやらかしても許されることが、成獣には許されなくなる。
郷にいた頃、成人したら立派に狩りを務めるんだと思っていた。自信もあった。
成人の儀式。
一週間ほどかけて行われるもの。
本来、発情は春に来て、仔は冬に産まれる。けれどかつて稚い雄たちは季節問わずに発情し、雌たちは癒しが作った薬を飲んで、むりやり発情した状態になって子作りした。少しでも早く子狼を増やさねばならないとアルファが指示したんだと聞いてる。
だから俺たちの世代までは季節外れがけっこういて、十八になる時期はバラバラだ。
けれど成人の儀は本来の時期、冬のさなかに行われる。その年成人した者はその時期まで待って儀式を受ける。
儀式を終えると、みんなそれまでとは厳然と違うなにかを身につけ、纏う雰囲気が変わって、匂いすらまったく変わって戻ってくる。
少し前まで一緒に遊んでいたはず、同じやつのはずなのに、その姿は郷のために働く成獣そのもの、まったく違って見えてかっこよかった。
だから子狼はみんな憧れる。早く大きくなって立派に成人し、郷のために働けるような力を得るのだと。俺もあんな風になるのだと。
俺だって儀式を終えて狩りとして認められるようになったなら、郷のために働くんだと思ってた。そしてできるなら番を捜す旅に出る許しを得ようと思ってた。唯一の番に出会えば、きっと素晴らしく幸せになれると、信じていた。
……俺が番と出会うことなんて、あるんだろうか。
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