VOICE-Run after me-

紅と碧湖

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1章 Run after me -若狼-

4.ひと里

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 俺を助けたあの雄は、この村の村長むらおさだった。その娘はリリと言って十六歳。ひとつ下なだけなのに、なんていうか、すごく幼い。

「ルーカス!」

 今もブンブン手を振って走り寄って来てる。
 まるでじゃれついてくる子狼ガキだな、と思いながらニッコリと笑いかける。

「やあ」

 リリはニコニコしたまま下を向いた。
 俺が笑いかけると、たいていの雌は少し黙る。そして匂う。ぷんぷん匂う。

「どう? 何か思い出した?」
「いや……」

 俺は物忘れの病だということになっているんだけど、正直困ってる。どうすれば良いか分からない。だから深く考えない。とりあえず恩を返す間だけ、ここにいればいいとは思ってるけど。

「ああ、頭が痛くなっちゃうんだもんね。無理しない方がいいよ」

 勝手に納得するリリに声を返すことなく、ただちょっと笑んで肩をすくめる。
 リリは赤くなって、ふふ、と笑った。発情しかけてる匂いをぷんぷん漂わせながら。
 ひと族は匂いに無頓着だ。何でもないフリして話しかけてくるけれど、匂うから丸わかり。バカみたい。
 けれど利用はできる。俺は知りたいことをいくつか、発情しかけの雌たちから聞いた。
 この村は農夫と牧夫がほとんどの小さな村である。小さいからみんな家族のように仲良し。半日ほど歩く範囲の中に同じような村がいくつかあって、その中でこの村は一番大きい。教会もあるから、みんなここにやってくる。
 もっと大きな町が馬車で五日ほどの所にあり、この村の十倍以上のひと族がいる。町にはこのあたりの領主様や貴族様がいて、おいしいものを出す店や綺麗な服を売る店なんかがたくさんある。そんな話を、この村の娘たちは発情の匂いをぷんぷんさせながらきゃいきゃい喋ってた。
 別の方向に十日ほど行くと鉱山があると教えてくれたのは村長だ。遠くからたくさんの男たちが集まって働いているらしい。
 どちらに行くのが良いだろう。
 町は、ひと族の馬車で五日ということは、人狼の足なら二夜か三夜で行けるだろう。すぐ行けそうなのはいいかなと思う。
 でも鉱山は男が多いらしいから、たくさんのひと族に紛れるなら良さそう。
 考えてたら、その日のうちに村長の家から教会へ移るよう言われた。村長は俺のことを物忘れの病だと教会のおっさんに伝えたようだった。
 村の教会は学びの場で、集会所で、病を癒すところでもあるらしい。だから行くよう言われたんだと分かったけれど、夜のうちに抜け出して狩ったウサギを喰ったので身体はすっかり復調していた。

「ここでゆっくり身体を休めなさい」

 教会のおっさんは俺を寝台に押し込み、すぐ傍に椅子を置いて色々聞いてきた。
 名前、住んでいたところ、仕事、年……どれもどう答えたら良いものか分からなくて、眉を寄せたりため息ついたりしてたら深刻そうに言った。

「頭が痛いのか」

 俺は首を振ったのに、おっさんは優しい笑みで俺を見て、胸の辺りをポンポン叩く。

「我慢しなくて良い、思い出そうとすると頭が痛むというのは知っている」

 とか言って酷い匂いの薬湯を飲まされた。
 郷でも癒しイプシロンがこういうのを作ってて、病のときは飲ませられたから、匂いを我慢して飲んだ。郷のよりまずかった。

「名前で無くても良い、なんて呼ばれてた」

 聞かれた時、思わず「狩りルウ……」と答えて、しまった、とくちを噤んだら、

「ルー……で始まるのか」

 そう納得してしまった。
 おっさんは他にも色々聞いてきて、そういう色々が全部、村長には伝わっていた。娘のリリにも。
 リリは勝手に『ルーカス』と呼んだので、俺はいつのまにか『ルーカス』になった。


 村で目覚めて二回目の朝。
 もう元気になったと言うと、村の中をあちこち連れ回された。
 家や家具が壊れたのを直してみろとか、畑を耕してみろとか言われてやった。
 山に入って木を切ってみたり、牛を育てる手伝いをしたり、言われるままに色々とやったけれど、うまくできるわけがない。狩りルウの仕事ではないから。

 郷では十五歳を過ぎると、さまざまな仕事を手伝わされる。それぞれがどんな階位に向いているか、やってみないと分からないからだ。きっと精霊はそういうのを見てて、それぞれに階位を授けるんじゃないかな。
 鼻が効くことと身の軽さを認められて、俺は狩りルウ見習いになった。他のことが得意ならルウじゃない仕事を手伝ってただろう。
 ひと族にも狩人ハンターという仕事があったけれど、弓矢を使ったことがないのでこれもうまくできなかった。俺たち狩りルウは弓も矢も使わない。自分の爪と牙で仕留めるから。
 ただ血抜きをしたり皮を剥いだりでナイフは使ったから、それはうまくできた。
 そんな風に色々やっていると、ひと族たちはしきりに首を捻った。

「なんの仕事をしていたのかなあ」
「物忘れの病で仕事ができなくなることもあるというから」
「仕事のやり方も忘れちまうのかい?」
「そうらしいよ」
「難儀だなあ」
「どうやって生きていくんだ」
「良い青年なんだがなあ」

 村長や教会のおっさんや他のおっさんおばさんたち、みんなでそんな風に話していたけれど、かまわずに手伝いも色々やった。世話になった恩を返さなければならないからだ。
 高いところの作業、重いものを運んだり、牧羊犬に指示を出したり。牧羊犬は俺の指示に完璧に従ったから、牧夫が向いているんじゃないかとか言われたけれど首を振った。犬が人狼の言うことを聞くのは当たり前のことだ。それが仕事と言われても意味が分からない。
 すると次の朝、ひと族たちは俺を村はずれの小屋に連れて行き、ニコニコ言った。

「ここに住んでいいぞ。思い出さなくてもいいから、心配せずにゆっくりしなさい」

 村の一員として認めようということらしい。けれどそれは困る。
 ここはまだ郷に近すぎる。本当なら目覚めてすぐ村を出た方が良かったくらいで、恩返しするためにいるだけなのだ。
 それでもひと族のいない小屋は少しホッとできたのに、村の若い雌たちが仕事の合間をみつけてやって来る。ぷんぷん匂う発情の匂いが気分悪かったし、の中に匂いが残るのがいやで小屋の前で話すようにしてたら、身持ちが固いと褒められた。

「それでねルーカス、聞いて!」
「教会で子供たちに字や計算を教えるのも、一度やってみちゃどうかって、あたしたち思って」
「牧師様は、物忘れの病では難しいだろうって仰ったけど」
「そんなのやってみないと……」

 なんか話してるけど、どうしたもんかなあ、なんて考えてたら、

 ────────……!

 唐突にゾクッとした。
 背筋に走るなにか。思わず警戒姿勢を取る。耳を立て、鼻に意識を集中する。

「……分からないじゃないって」
「ルーカス?」

 雌たちが話しかけてくるけれど、それどころじゃない。
 五感を研ぎ澄ませ。探れ。なにがいる?
 ────────だめだ、気配が消えた。風下にいるのか匂いはしない。どこにいるか掴めない。けれど人狼だ。近くに人狼がいる。それも……

「……ああ」

 背中に、脇腹に、冷たい汗が流れている。
 一瞬だった。
 けれどいた。近くにいた。だめだ、もうここにはいられない。
 こんなくらい、動揺などしちゃだめだ。狩りルウは冷静でいなければならない。そこはいつも褒められた。俺は冷静なルウ、だけど……

「どうしたの? 怖い顔してる」
「いや……」
「あ、頭が痛いの? ごめんなさい、変なこと言ったかな」

 けどダメだ。全身の毛が逆立つような、これは──── あいつベータ、だ。
 間違いない。こんな感じ、あいつだけだ。他の奴から受けたことないこんな感じ、あいつだけが、俺を根っこから怯えさせる。

「ごめんなさいルーカス、あたしそんなつもりじゃなくて」
「そうよ、ただ早く村に馴染めばって」
「……いや、ごめん、みんな……」

 なんとか言いながら、目は注意深く周りに巡らせる。

「大丈夫? すごい汗だよ」
「……ちょっと……横になる」
「うん、その方がいいよ」

 足早に小屋へ入って扉を閉じ、感覚を拡げる。
 やはりなにも感じない。
 ────なんであいつが追ってくるんだ? 俺のことは嫌いだろう? 俺がいなくなって、一番喜ぶのはあいつだろう?
 ああでもアルファに命じられたなら、あいつは断らない。そうだ、あいつは群れの中で一番掟に厳しい。

 歪んだ雄たちを『掟を破る』という理由で追い出したのもあいつだと、シグマから聞いた。
 わかいうちに番以外と子作りをした雄たちは成長しても変わらず、雌ならなんでも良くなって、季節を問わず発情するようになっていたらしい。それまで子作りの相手をしていた雌たちが醜く老いたからもう相手はしないと言い、俺たち世代の雌に子作りを迫るようになった。けれど、そいつらの相手をする雌なんていない。厳しく突っぱねていたんだって。
 するとそいつらは、既に番がいる雌だろうとかまわず、無理矢理子作りしようとしたんだ。当然雌たちは激しく抵抗した。番がいなくたって、そんな連中に発情するような雌なんていない。
 ベータあいつは、アルファよりも誰よりも激しく怒り、そいつらを次々ぶちのめした。このままでは殺してしまいそうだと、もう一人のベータやみんなが止めようとしたけど、あいつはけ、やめようとしない。

「同族殺しをするつもりか!」

 でもアルファが吠えると、ようやく動きを止めたって。
 それであいつが群れの誰より強いと証明されたわけだけど、ギラギラ光る金の目は、燃えたぎる怒りを抑えていなかったし、逆立つ毛並みも、噛みしめた牙も、まだ怒っていた。
 それでもやめた。同族殺しは最も重い掟破りだから。
 アルファの命は絶対。これも守られなくてはならない掟。だから従った。
 そういう奴だ。そういうふうにシグマから聞いてる。

 ともかく。
 あいつが来たなら、もうここにはいられない。
 小屋で寝台に潜り込んでいたのに、特に感覚を澄ませなくとも、何度か“あいつベータ”の気配を感じた。ゾクッと身が震え、すぐに逃げ出したくなったけど、すぐに気配は消えた。
 “あいつベータ”がすぐそばにいて、機会を伺っている。俺を連れ戻そうと見張っている。
 もう村長むらおさに恩は返せただろう。仕上げに家の草刈りと畑を耕したし。“あいつベータ”が来たなら出て行くだけだ。月は痩せてきたけれど、まだ走れる。
 そう考え、出るなら夜だろうと小屋の寝台に籠もった。
 体調が悪いと言ったら、教会のおっさんも村長も心配そうに言ったのだ。

「休んどけ、休んどけ。真っ青じゃねえか」
「そんなに汗かいて、無理をするなよ」

 なにを言ったら良いか分からず、寝台に潜り込んだまま黙って頷いた。だけど神経が尖り、とても眠ることなどできない。ジリジリしながら夜を待った。
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