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Ep2.故郷のすきみはかたくてほぐせず
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***
実家に戻り、玄関扉を開けて気づく。
「……やっぱり」
鍵は開いていたものの、靴はない。外を確認すると父の車は残っていた。そうなると、行き先に思い当たるところがある。咲空が向かいの家を見ると、窓には明かりが灯っていた。
(また向かいの家で飲んでるのかな。昔と変わらない、いつも父さんは傍にいない)
この諦念は慣れている。父がいるのだろう向かいの家に背を向け、家に入る。
電気はついているものの、ストーブの火は落ち、居間には誰もいない。室内が冷え切っていないことから、父が出て行ったのは少し前のようだ。
「サクラちゃんのお父さん、どこ行っちゃったんでしょう」
「……別に、いいです」
そう言って、咲空はソファに座る。父が好んで座る場所だ。テレビを見るにはこの場所が最もよく、サイドテーブルには灰皿や車の鍵といった父が愛用する小物が置いてある。
普段からここに座っていたのだろう。咲空が家を出て行った後も、広い家で一人、ここからテレビを見ていたのかもしれない。想像すると切なさがこみあげて胸が苦しい、けれど室内の寂しさがセンチメンタルな気分を嗤っていた。
「向かいに住む方々と親しいので、そっちにお邪魔して飲んでいることが多いんです。だから今日も、そっちにいるのかもしれません」
「じゃあ迎えに行きますか?」
咲空は首を横に振った。家出した娘を追いかけることさえしない父を、どうして迎えにいくものか。
ソファを撫でる。父がよく使っているからか、咲空の知らないほつれがあり、穴が空いていた。母が生きていた頃は補修しただろうそれも、今はそのまま放置されている。母が亡くなった時からこの居間は冷えてしまった。
「中学三年生の時、母が倒れました。私たちに心配をかけまいと体調不良を隠し続け、肺炎になっていたんです。母が入院しても、容体が急変しても、亡くなっても――父は来てくれなかった」
母が倒れたと知っても漁に出る。母の病室で父の姿を見たことなんて一度もなかった。その時のことを思いだしながら、ソファの穴に指を刺す。布が裂けて小さな穴が広がっていっても、誰も叱る人はいないのだ。直す人なんて、とっくにいない。
「昔ながらの人って感じで、口数が少ないんです。だからどうして来てくれなかったのかも、何を考えているのかもわからない。今日だって、そうだった」
久しぶりに会っても、父が語るものは少なく、何を考えているのかさえわからない。困った時はいつも家から逃げてしまう。
「サクラちゃんが札幌に来た理由は、お父さんなんだ」
「調理師になりたくて、札幌の専門学校に通いたかったんです。でも父が『紋別にいろ』と反対して、それが家出の原因ですね」
「なるほど。難しいですね、人間は」
そう言って、アオイが立ち上がる。咲空の父がいないのをいいことに、好き勝手に家を見て回っているようだ。この遠慮のなさはさすがと言ったところか。
(どうして札幌に進学しちゃだめなのか、その理由も教えてくれなかった)
アオイが台所に入っていくのを横目に、咲空はため息をつく。頭の中は父のことでいっぱいだった。
(何を考えてるのかわからない。紋別なんて来なきゃよかった)
すると、台所に入ったはずのアオイが早々に戻ってきた。「サクラちゃん、来て」と言って手招きしている。
「これ、お父さんが用意してくれたのでは?」
咲空が台所にはいると、そこには二つのお椀があった。中には冷ご飯が入っていて、その上にほぐした魚の身と刻み海苔。小さな薄茶色い粒がほんの少し乗っている。それぞれのお椀には乾燥しないようにラップがかけられていた。お椀の隣には、電気ポットと急須。そして、チラシの裏紙を小さく切った、そっけないメモがあった。
「『腹が減ったら食え』……だそうで」
間違いなく父の字だった。こういうところでチラシの裏紙を使うのも、父らしいと強張っていた咲空の口元も緩んでしまう。
「せっかくですし食べてみませんか?」
俯き気味の咲空を覗きこむアオイは、穏やかに微笑んでいた。泣きじゃくる子供を諭すように、普段よりも十倍濃縮した優しさが詰まっている。
「そうですね、頂きましょうか」
実家に戻り、玄関扉を開けて気づく。
「……やっぱり」
鍵は開いていたものの、靴はない。外を確認すると父の車は残っていた。そうなると、行き先に思い当たるところがある。咲空が向かいの家を見ると、窓には明かりが灯っていた。
(また向かいの家で飲んでるのかな。昔と変わらない、いつも父さんは傍にいない)
この諦念は慣れている。父がいるのだろう向かいの家に背を向け、家に入る。
電気はついているものの、ストーブの火は落ち、居間には誰もいない。室内が冷え切っていないことから、父が出て行ったのは少し前のようだ。
「サクラちゃんのお父さん、どこ行っちゃったんでしょう」
「……別に、いいです」
そう言って、咲空はソファに座る。父が好んで座る場所だ。テレビを見るにはこの場所が最もよく、サイドテーブルには灰皿や車の鍵といった父が愛用する小物が置いてある。
普段からここに座っていたのだろう。咲空が家を出て行った後も、広い家で一人、ここからテレビを見ていたのかもしれない。想像すると切なさがこみあげて胸が苦しい、けれど室内の寂しさがセンチメンタルな気分を嗤っていた。
「向かいに住む方々と親しいので、そっちにお邪魔して飲んでいることが多いんです。だから今日も、そっちにいるのかもしれません」
「じゃあ迎えに行きますか?」
咲空は首を横に振った。家出した娘を追いかけることさえしない父を、どうして迎えにいくものか。
ソファを撫でる。父がよく使っているからか、咲空の知らないほつれがあり、穴が空いていた。母が生きていた頃は補修しただろうそれも、今はそのまま放置されている。母が亡くなった時からこの居間は冷えてしまった。
「中学三年生の時、母が倒れました。私たちに心配をかけまいと体調不良を隠し続け、肺炎になっていたんです。母が入院しても、容体が急変しても、亡くなっても――父は来てくれなかった」
母が倒れたと知っても漁に出る。母の病室で父の姿を見たことなんて一度もなかった。その時のことを思いだしながら、ソファの穴に指を刺す。布が裂けて小さな穴が広がっていっても、誰も叱る人はいないのだ。直す人なんて、とっくにいない。
「昔ながらの人って感じで、口数が少ないんです。だからどうして来てくれなかったのかも、何を考えているのかもわからない。今日だって、そうだった」
久しぶりに会っても、父が語るものは少なく、何を考えているのかさえわからない。困った時はいつも家から逃げてしまう。
「サクラちゃんが札幌に来た理由は、お父さんなんだ」
「調理師になりたくて、札幌の専門学校に通いたかったんです。でも父が『紋別にいろ』と反対して、それが家出の原因ですね」
「なるほど。難しいですね、人間は」
そう言って、アオイが立ち上がる。咲空の父がいないのをいいことに、好き勝手に家を見て回っているようだ。この遠慮のなさはさすがと言ったところか。
(どうして札幌に進学しちゃだめなのか、その理由も教えてくれなかった)
アオイが台所に入っていくのを横目に、咲空はため息をつく。頭の中は父のことでいっぱいだった。
(何を考えてるのかわからない。紋別なんて来なきゃよかった)
すると、台所に入ったはずのアオイが早々に戻ってきた。「サクラちゃん、来て」と言って手招きしている。
「これ、お父さんが用意してくれたのでは?」
咲空が台所にはいると、そこには二つのお椀があった。中には冷ご飯が入っていて、その上にほぐした魚の身と刻み海苔。小さな薄茶色い粒がほんの少し乗っている。それぞれのお椀には乾燥しないようにラップがかけられていた。お椀の隣には、電気ポットと急須。そして、チラシの裏紙を小さく切った、そっけないメモがあった。
「『腹が減ったら食え』……だそうで」
間違いなく父の字だった。こういうところでチラシの裏紙を使うのも、父らしいと強張っていた咲空の口元も緩んでしまう。
「せっかくですし食べてみませんか?」
俯き気味の咲空を覗きこむアオイは、穏やかに微笑んでいた。泣きじゃくる子供を諭すように、普段よりも十倍濃縮した優しさが詰まっている。
「そうですね、頂きましょうか」
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