奥州二代目彦六一家

七味春五郎

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お目通り

その一

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お目通り
「やい、起きろ彦六!」
 安らかな眠りの中、頭までひっかぶっていた蒲団をはぎとられ、念入りに氷までいれた水をぶっかけられて、黒田彦六は跳ね起きた。
「なにをしやがる、くそばばあ!」
 櫂桶をもって突っ立ているくそばばあに喚きながら、彦六は犬のように体を震わせた。
「よくもまあ、いつまでもぐうたら寝れるもんだよ。一家の主人がそれでいいと思っているのか」
「その手に持っている桶はなんだ」と、彦六は殺気すらきらめかせたことだった。
 桶を持ったきねは、「ああ、忙しい」白々しくおてんと様にしゃべりかけながら、ととっと縁を逃げていった。
「ちくしょお、くそばばめ。ふんどしまでぐしょぐしょだぁ」
 彦六は着物の裾をしぼりながら、悪態をついて、一つくしゃみをした。

 彦六は念入りに体を拭くと、麻の着流しにきがえ、「彦六」と縫い打ちされた紺のはんてんを羽織った。
 びしょぬれのふとんの始末は子分にまかせ、飯を喰らいにひやりとする部屋を出ていった。
 ここからが大変だった。
 先に座布団についていたきねが、じっくりと茶わんにご飯をよそっている。さきほどがさきほどだけに、なんとも不気味だった。
「ほれ」と、彦六に茶わんを手渡しながら、自分も箸を取って、飯を喰う。
 じろりと彦六を見上げ、さっさと食えというように顎をしゃくって見せた。
 彦六はしょうしょう調子を外しながら、漆塗りの箸をとって、飯を口に運んだ。
 次の瞬間にはウッと呻いて、いま入れたばかりの飯を吐いた。
「な、なんだこりゃあ」
「塩入りだよ」
 きねは平然といってのけたものだ。
 彦六は臓腑までちぢみ上がるようなしょっぱさに堪えながら、「飯に塩を交ぜるとはどういう料簡だ」とわめいた。
 彦六一家の朝は、この二人の舌戦からはじまる。メシを食う時も、朝起きて顔をあわす時も、かならずと云っていいほど喧嘩をする。
 この日も、朝からいつも通りの切り口上を聞きながら、彦六一家の面々は、やれやれと息をついていた。

 まだ舌の根に居残る塩辛さに、辟易している彦六に、若衆頭の文悟が近寄ってきた。
「二代目、ちょいとお話が」
 と、いつもの気軽さで声をかけた。
 彦六には元は半兵太という名前があったが、今は父親の名をついで彦六と呼ばれている。文悟たちの呼び様も、いつのまにか若から二代目に変わっていた。
 だからといって、別に他のなにが変わるわけでもなし、彦六の生活は以前となんら変わりがない。
 ところが、今日に限ってなにか変った事があったものかと、文悟の微妙な語調の変化から、彦六はすばやくその事を感じとっていた。
 そろって庭先へ出て、石灯篭などをながめながら互いに切り出す機会を待っていた。
 いつもならなんでも気さくに語る文悟が、今日に限って言葉を選んでいるようだったから、これはよほどのことだと彦六は思った。
 文悟は花をつけない桜を愛でながら、とうとつに口を切った。
「これから四日後に、長老衆にお目通りをいたしやす」
 文悟のは明日の天気でも占うような気やすさだったが、彦六はさすがにドキリとした。
 いよいよか、とも思う。彦六は正式に一家の暖簾を受け取ったのだから、長老衆に会わないわけにはいかないのである。会って報告を行なわなければ、町の者は誰も彦六を二代目と認めないだろう。
 文悟たちは、ここ数日その会合をもつために走り回っていた。その甲斐あってか、今日になって長老衆から連絡が入った。
 二代目に会うということは、長老方が、彦六を半ばまで認めているということである。
「そうか……」
 彦六は呟いた。珍しく、わずかに緊張した面持ちであった。
「粗相のねぇようにおねげぇしやす」
 文悟がひょいと頭を下げた。
 長老方に何がしの力があるというわけではなかったが、それでも厳然と威信だけは保っている。権力とも、見えない力とも云える。
 とにかく文悟はこのお目通りだけは無事にすませたかった。一家の者も、それは重々願っているはずである。
「こっからが、正念場……だな」
 独り言のように呟いて、彦六はちらりと文悟を見た。文悟はなにも云わずに黙ってこちらを見返している。さすがに、彦六は事態を正確に飲み込んでいた。
 文悟は満足そうに微笑んで、秋晴れの空を見上げた。

 街道を外れた林を進むと、いろは滝がある。
 支流らしきものが一本走っていて、そのまわりを三本の細い筋が、糸を引くように落ちている。
 この水がいい。ひどく澄んでいる。万病も、いろはの水を含めば治ると云われた。
 彦六は仁助を連れていろは滝に来ていた。寒いだけあって見物人もさほどなく、掛茶屋にも人気がなかった。
 彦六と仁助は、途中偶然会った修馬と、掛茶屋で饅頭をよばれていた。
 修馬は今は親父の後を継いで、岡っ引になっている。彦六との付き合いは相変わらずで、十手稼業も順調のようであった。
「よかったなぁ、半ちゃん」
 饅頭を片手に修馬が白い歯をのぞかせている。よかったとは、お目通りのことである。
「今は彦六ですよ」仁助が念を押すと、
「ああ、そうだったな」と、笑った。「おれは十手で、おめぇはのれんか。お互い妙なもん背負っちまったなぁ」
 愉快そうに茶を干した。
 彦六は物も云わずに口をもごもごさせていたが、
「長老方ってのは何人ぐれぇだ」
「俺が知るわけないだろう。お前のほうが詳しくなくちゃいけねぇよ」
 彦六は、もっともだとうなずいた。
「兄貴、そろそろ戻りやしょう」
 手にした饅頭を素早く食った仁助が、ひょいと床几を立ち上がった。
「俺はもう少しいるよ」
 修馬がいろは滝を見ながらのんびり云ったので、彦六は余分の金を払って饅頭を追加してやった。
 小女が来て、修馬の湯呑みに茶を注いだ。
 熱い茶を音を立てて飲みながら、修馬は梢の合間に覗く碧空に、幸せそうな目を向けた。
 太陽は中天にさしかかったが、相変わらず冷気は晴れない。地面がわずかに湿っていた。
「まだまだ冬だな」

 旅篭で、路を行く彦六を、引き戸から見下ろす男がいる。
「あれが彦六一家の二代目でさぁ」
 と、かたわらに声をかけた。彼の他に、九人の男たちが、集って下を眺めおろしている。
「まだガキだな」
「十九でさ」
 さきほどの男が即座に答える。
 訊いたのは、頬に傷のある三十年配の男だった。口に長楊子をくわえて、ぼりぼりと懐をかいた。麻の着流しがよく似合っている。男たちの頭のようだった。
「彦六一家も終りだな」
 頭風の男はなんの感慨もこめずに云った。
 見下ろす目が、異様に冷たく、ゾクリとするものがある。
「いかがいたしやす?」
 別の男が、頭の顔を覗くようにして訊いた。
「彦六一家に、本当の憂き目を教えてやりな」
 そう答える間中、頭の表情は変わらなかった。

 街道から脇道に入って、林に囲われた漢永寺に出た。
 人影がなく、森閑としている。木漏れ日が日溜まりをつくっていた。本町にぬけるには、ここを通った方が近い。
 本堂の中ほどにさしかかった頃、木影から四人の男が走り出てきた。
「なんだ、おめぇらは」
 彦六と仁助はぎょっとなった。男たちは全員刃物を抜いている。
 旅篭で彦六を見下ろしていた、あの男たちである。
 ほお傷の男は交ざっていないが、彦六の窮地には変わりがなかった。
「あ、兄貴」仁助はすっかりうろえて、彦六の着物の裾をつかんだ。
 彦六一家は城下でも一、二を争う勢力を持っている。先代が死んだ今、これを蹴落とそうとする者がでるのは当然だった。
 男たちは無言である。
 彦六は草鞋を脱いで身構えた。
「やるぜ、仁助」
 一声かけると、仁助もさすが一家の若いもんである。これも腹を据えて草鞋をのたくそと脱ぎにかかった。
「おめぇさんがた本当におやりなさるか?」
 彦六は器用に片目をつぶって、低く宣告した。…………一同は何も云わない。答えの代わりに匕首と刀を光らせた。彦六はちっと舌打ちをもらした。
 隣で草鞋を脱ぎ終えた仁助が、ごくりと喉を鳴らしている。
 彦六は、匕首を使わせれば右に出るものがないぐらい腕が立ったが、このことは文悟ぐらいしか知らない。ただの喧嘩には絶対につかわないからだ。
 匕首を教えてくれた伴兵衛じいもそのことを厳命していたし、彦六にもそんなつもりはさらさらなかった。喧嘩に刃物を持ちこんじゃあ、咲きかけた花もしぼんでしまう。
 彦六は、武士の喧嘩は一番割りに合わなくて、花もないと思っていた。意地かなんだか知らないが、喧嘩には喧嘩の法度がある。それを守ってやるから、喧嘩はたのしいのだ。侍のは、意地の張り合いが即座に命のとりあいにかわる。彦六が世間のいうやくざ者でも、喧嘩で死ぬような馬鹿はしなかった。
 だが、今回はただの喧嘩ではすみそうになかった。これは真の殺し合いだった。男たちの腹部を圧迫するような殺気がそれを告げている。しかも、彦六の懐に、匕首はなかった。
 男達はぞろりぞろりと間を縮めてくる。刀を持ったのは一人。残りの三人は匕首である。
 使うのはあの男だな、と彦六は見ていた。まず動きがちがう。後の三人は、自分と同業のようだった。
 八双に構えをとる浪人風の男を見て、彦六はふいに休臥斎のことを思い出した。
 浪人が、一歩男たちより前に出た。刀を上段に、すうと吸い上げた時には、さすがにどきりとした。
「きえぇぇ!」
 男が烈帛の気合を放った。彦六はとっさに仁助を突き転ばした。
(かわせるか)
 胸にふと疑念が生じた。男は上段に刀をかまえ、斬り掛かってくる。
 二尺五寸の大刀が、眼上にそびえたったように見えた。
「兄貴」
 転がったままの仁助が、泣きそうな声で叫でいる。
 男がずんと彦六に迫り、殺気をこめた眼光が脳髄を射抜くようであった。
(斬られるっ)
 彦六は半ば観念しかかった。
 その時、横合から一人の侍が走り出てきた。二人の間合に割り込んで、今や斬り殺さんとした浪人の殺人刀を、手にした刀ではっしと受けた。
 彦六は凝然となった。篠山休臥斎である。
「素手で刃物につっかかるとは、無茶をしなさる」
 休臥斎がくだけて笑った。そのまま男の刀を押し戻した。
 彦六の全身からすうっと力が抜けていった。
 先代が生きていた頃、貫蔵一家とあわや決戦という時に雇い入れた浪人なのだが、先代の人柄と彦六一家の家風が気に入り、そのまま居着いてしまった。
 彦六一家に流れつく以前、なにをしていたかはたれも知らない。だが、腕は立つ。
 浪人が後方に跳びすさった。やくざ者が狼狽えている間に、脇の下草ががさりとなった。
「そろそろあらわれると思っていたよ」
 と出てきたのは、若衆頭の文悟である。後に続いて灸蔵たちまで小走りに走ってきた。どうやら掛茶屋から、ずっと彦六の後をつけていたようである。
「お前さん方、どちらだね」
 文悟が余裕のある態度で凄味を聞かせながらそう問いかけた。手癖の悪い雷蔵が、彦六を狙われて早くもふーふー云っている。
 休臥斎が、一同を守るようにしながら下がってきた。白刃は水平にかざしたまま、一分の隙もなかった。
 休臥斎は、男たち、特に浪人ていの男を見据えている。手強いと云えばあの男ぐらいのものだ。
 残りは休臥斎から見ればズブの素人だった。刃物を持ち、数で勝ればなにほどのものでもなかった。
「今日のところはお互い引かないかね? そっちの助っ人さんは一人きり。後はこちらと同じ無頼の徒だろう。勝敗は見えていると思うがね」
 文悟の言葉に、男たちは、明らかに心を動かされているようだった。互いの顔を見合った後、うめき声を残して逃れ去った。
 休臥斎が、ぱちりと刀を鞘におさめる。
「文悟の兄貴」
 仁助が咎めるようにわめいた。何もせずに黙って帰したのだから当然である。捕えて、誰に頼まれたか泥をはかせればよかったのだ。
 もとより、文悟にただで帰す気はなかった。
 若い衆に目を走らせ、二人を追っ手にやった。こうしておけば、いずれあの男たちは雇い主の元へ帰っていくはずである。
 仁助はほっと胸を撫で下ろし、あらためて文悟の慧眼に感服した。
 文悟は彦六の前に立ち、「すいやせん、若」と膝に手をつき腰を折った。
 彦六は苦みばしった顔で、「だしにつかいやがったな」と、云った。
 仁助はようやく思い至り、あっとわめいた。道理で朝からみなの様子がおかしいと思った。文悟たちは、彦六が襲われることを見抜いていたのだ。
 かといって、屋敷を出ないわけにはいかない。彦六もそうとわかって退くたまではなかった。そこで文悟は一計を案じ、敵をいぶりだすことにした……。
「そのようで」
 顔を上げた文悟がにたりと笑った。
 彦六が、「まあいいさ」と苦笑する。
「相手はどこの一家のもんでしょうね」
「古いとこじゃ、二ノ宮一家か。貫蔵一家じゃあるまいし」
 と灸蔵が首をかしげた。
 彦六は一同の言葉を聞きながら、男たちの立ち去った方に目を走らせた。
「浪人か……?」休臥斎に云う。
「そのようですね。大した腕じゃありません」
 こともなげに答える休臥斎。この男の腕は世人の知るところだ。
「それより、困ったことになりました」
 文悟が、下から見上げた目を底光りさせた。

 話を訊いたきねは、わずかながら顔色を変えた。正座した足をモゾモゾさせている。かなり気になっているようだった。
「それで奴はなんと云っている」
 探るように訊いた。
「さて、二人ほど後を追わせていやすがね。二代目のほうはなんとも……」
 文悟はおかしそうに首筋をぴしゃりとやった。
「白昼堂々頭を襲われるとは、彦六一家もなめられたもんだね」きねは変に感心したように独白した。「こうなるとはわかっていたがねぇ……」
「何も云わなくても、二代目は腹を据えているようです」
 文悟の方は満足気だ。
「そうでなくちゃいけないよ。ここで一つびっとしなきゃ」
「今後もなめられる、というわけですね」
 文悟が急に真顔になった。
 隣に座っている大男の雷造が、「売られたケンカは買いやしょう」と、身を乗り出した。
 一家一のケンカっぱやさと、背中に彫った八幡大菩薩がご自慢で、酒とけんかが何より大事。そのくせ図体に似ずうぶで、女の前だとろくにしゃべれないときている。
 六尺を越す大身で、目方も悠に百貫はある。いわゆる大兵肥満である。
 気性はさっぱりしているが、短気と早とちりだけは困ったものだった。
「おめぇの意見を聞いてたら、まとまるもんもまとまらねぇよ」と、文悟が鼻を鳴らした。
「だがなぁ、文悟……」
 雷造はそこまで云って、後の言葉は溜息にかえた。
 若衆頭の文悟は、今年で二十五になる。若い者にも頼られている、兄貴肌の人間である。
 彦六はそれまでは文さんとか呼んでいたが、「二代目、二代目らしくして下せぇ。文悟でよござんす」
 文悟は生真面目だ。伴兵衛じいの、「呼び名なんてどうでもいいことだよ」
 の一言で、彦六はそのように呼ぶことになった。
 伴兵衛じいは、ときおりドキリとするような目で、真理をつくようなことを云う。

 彦六は自室で匕首の目釘をあらためていた。
 伴兵衛じいが戸をすいっと開けた。彦六は気づいたが、見向きもしない。無言で刃を木鞘にしまった。その音と戸の閉まる音が同時だった。
 伴兵衛が、彦六の背後にふわりと座った。
「してやられそうになったそうだね、ボン」
 伴兵衛だけはいつまでたってもボンだった。彦六もそれがありがたい。
「耳がさといなぁ、じいちゃんは」
 振り向いたときは、もう笑顔になっていた。匕首を懐にいれ、帯の辺りに差し込んだ。
 それを見て、
「無茶はしない方がいいな」
 伴兵衛はつい本音が出てしまった。しくじったと舌を打ったがもう遅かった。
 照れたように顔をしかめると、手を伸ばして障子を開けた。外は明るくもなく暗くもなかった。彦六は困ったように眉を曲げた。
「いやだな、そういうわけにもいかないのを知ってるくせに」
 伴兵衛は苦笑した。二代目になっても、この男はあいかわらずのようだった。
「まぁ、一応云ってみたのさ」伴兵衛は座布団の上に座り直した。「わしはな、先代に世話になった。黒田彦六に与えられたもんは数え上げたらきりがないんだ。寝床と居場所、仕事に仲間。息子代わりの彦六と、孫の代わりのお前だよ」
 そう云ってにこりとする伴兵衛が、彦六はたまらなく好きだった。
 伴兵衛はすべてを彦六に与えられたように云うが、そんなことはない。流れ者だった彦六と共に、伴兵衛は一家の暖簾を築き上げてきたのだ。だが、きっかけを与えたのも、独り身の虚しさから救ったのも、今は亡き彦六親分だった。
 その彦六がこの世からいなくなり、二度と会えなくなったことを、もっとも悲しんだのが、この伴兵衛じいだった。
「だからおい、心配ぐらいはさせてくれよ。お前になにかあったら、あの世で親分に会わせる顔がねぇ」
「親父ならなんとも思いやしないよ。俺がへまをやったら、あの世でドジめと悪態をつくぐらいのものさ」
「そうかもなぁ……」
 ひとしきり笑って、二人は庭先の松に目をやった。ちらちらと、雪でも舞いそうな午後だった。
「彦六一家の暖簾やニワバを守るのは大事なことかもしれねぇ。でもな、俺はそんなにたいそうなもんではないと思ってるよ。つぶれればそれで仕方のないことさ。元々事のはじめには、そいつぁ小さな一家だったんだ」ここで伴兵衛は言葉を切り、手をごしごしとやった。「大事なのは、ここにいる一家の衆とお前なんだよ。それを忘れないでくれ」
 彦六はうつむいて唇をかんだ。胸がつまってなにも云えなかった。
「お」と、伴兵衛が声を上げた。本当に雪が降りはじめた。
「俺が来た時も冬だったな」
 愉快そうに云って、障子をしめた。身に辛い風が吹き込んできたためだった。

 屋敷の土間に、一家の若いもんが顔をそろえている。彦六が襲われたと訊いて集まった者たちだった。文悟は板間に立って、上から子分どもをながめつらし、浪人とやくざ者を追った二人の帰りを待っていた。
 子分たちには、「人に云うな、それが一家の者でもだ。あまり事を大きくするな」と厳命してある。
 彼の後ろでは、篠山休臥斎が、大刀を抱え座り込んでいた。この男は大抵意見をはさまない。物も言わずに行動するのが常だった。
 集まった男たちの中でも、一際いらだっているのは雷造である。この男は、文悟を手伝って下の者をいさめたりしない。いつだって、自分が真っ先にことを起こすのだ。
 この日も、目付け二人の帰りを、待ちわびはがゆがり、苛立っていた。
 その隣で石屋の灸蔵が黙念としているのが対照的だった。
「文悟っ、あいつら、ひょっとして返り討ちにあったんじゃないのか」雷造がわめいた。
「まだ早い。少し待て」こちらは落ち着いたものである。
 雷造は、「うぬ」とうなって、また開け切った戸口をにらみはじめた。
 それから数刻の後に、二人は帰った。玄関で雷造が物凄い形相で立っているので、思わず腰を抜かしそうになった。
 文悟が、「どうだった?」と聞かなければ、本当に背骨を外していただろう。
「奴ら、坂本一家の屋敷に戻りやした」と、一人がようやく云った。
 文悟はうめいた。「そうか、相手は坂本か」
 彦六の生前は、散々もめた一家である。血の気の多いことでも有名な一家だった。つい最近も、ニワバのことでケンカを売られたばかりである。
「その意趣ばらしにしては、いきすぎでやすねぇ」
 灸蔵がやけにのんびりした声で云った。
「長老方とのお目通りのことをかぎつけたようだな」
 文悟がなんの感慨もこめずに云う。
「奴ら、やっぱりやくざ者か……」
 雷造があごに手を添え、またうなった。体に似て、頭の方はあまりうまくない。
「もう一人は、この町の者じゃありませんね」
 仁助がそう云って土間を見渡す。
「私と同じ、流れの浪人でしょう」
 壁にもたれかけたまま、休臥斎が答えた。すると、後をつけた男が口を開き、
「それと、旅篭で落ち合った男がいたんですがね、そいつがこう頬傷のある」
 と、頬を指で切ってみせた。
「頬傷の次助かっ?」
 文悟がはっとした声を上げた。頬傷の次助と云えば、その筋では知られた男である。
 坂本一家の幹部で、彦六一家ともあさからぬ因縁があった。なによりその陰険な性格が忌み嫌われている。
「これで下手人の目当てはついたな」
 古株の忠次郎が文悟を見やった。その目が見開かれたのを見とって、文悟はひょいと後ろを向いた。
 休臥斎が見上げると、彦六と伴兵衛じいが立っている。
「二代目」「二代目」
 子分たちが口々に云うのを聞きながら、彦六はじっく
り土間を眺めわたした。
「話は訊いたよ。坂本一家か」
「正確には次助の奴ですぜ」と、雷造が勢い込んだ。
「厄介なのに、目をつけられましたな」
 文悟がからかうように苦笑した。
 彦六が口を開いた。
「四日のうち……だな」
 これは目通りを意識してもれた言葉だった。一座の者は残らずうなずくしかなかった。
「相手がわかっただけでも、よしとしましょうや」
 忠次郎はにこりともしないが、確かに、わからないよりはよかった。
「どう思う?」
 彦六は文悟を見やった。
「どうもなにも、坂本の親分の指図かどうかは如何と
も」
 文悟はそう云って目をつぶった。
「次助の奴は気違いですぜ。早めに処断した方がいい」
「浪人を雇ったからには、奴ら本気だなぁ」
 子分たちのがなり声を聞きながら、彦六は顔をしかめていた。
「さて、どうしたものか……次助と奴ら、どうした?」
「それが、また旅篭に戻りやしたんで」
「どこのだ?」
「いくみ屋」
 短く答えた。
「乗り込もうぜ、二代目!」
 短気の雷造がかっと頭に血を上らせる。
「ばかっ、大事にできないといったろう」
「しかしよぉ……」
 文悟がたしなめるが、雷造はまだ諦めない。
「奴らの狙いはこの俺だ。お目通りまで一歩も外に出なけりゃすむことだ」
 彦六が険しい表情で答えた。
 文悟はふと胸騒ぎを覚えた。彦六の口調はどこか妙だった。いや、言葉のすべてが喉元にひっかかる。この男が、果たして狙われているとわかった四日間を、大人しく引込んでいるだろうか。いや、けしてそうはなるまい。
 文悟は甘く見ていた。危険をおかして次助たちを引きずりだしたはよかった。だが、あの男は彦六の命を狙っている。
 文悟はせいぜいやっても痛め付けるか、ニワバのいやがらせ程度がいいところだろうと思っていた。自身の読みの甘さに腹が立った。
(狂人め……)
 苦々しく思う。次助は彦六を殺すことで引き起こす事態を少しもわかっていない。
 当主を失った彦六一家は、坂本一家に復讐するに決まっている。それをわかっているのか、坂本の親分はこの事を知っているのか。
(いや……)
 文悟は知ってはいないと思った。坂本の親分は悪党だが、頭のきれる男だ。お目通りを控えた二代目を、殺したりはすまい。おどせ、ぐらいは云ったかもしれないが、だとしても次助のはやりすぎである。
「二代目……」
 灸蔵が呟くように云った。彦六にも聞えた。
「四日、四日がまんしろ」
 険しい表情のまま、彦六が答えた。
 彦六の落ち着きぶりが、文悟は気にかかる。
 二代目にこうまで云われては、集まった衆も、もはやどうにも出来なくなった。
 お目通りまでの四日間、彦六一家は当主の彦六を、誰に知られることもなく守り通さねばならなくなったのである。

 その夜
 彦六は自室の居間を出た。
 雪はすでにやんでいる。三日月が々と照っていた。
 寒さばかりが身を切るようだが、彦六は気にならない。片腕を懐に入れ、廊下を渡った。
 その後ろで、仁助が襖の隙間から顔を出した。彦六は気づかない。仁助にも気づかせる気は毛頭なかった。
 彦六は次助とのいざこざに、決着をつけるつもりだった。
 文悟の心配は当っていた。やはり大人しくしているつもりなどなかったのだ。彦六の思考を正確に読んでいたのが、この仁助だった。
(弱いくせに、無茶をするんだもんな)
 仁助はどこまでも彦六についていくつもりだった。相手は殺しが職のような奴らだが、かまわない。仁助にとっては、彦六がいなくなったこの世の方が、よほど辛いのである。
 かすかに雪の積もった路上をわらじを湿らせながら、いろは屋を目指す彦六と、後をつける仁助。
 それをよしずの陰から見つめる目があった。
 二人の姿が遠ざかり、休臥斎は物陰から路上に出た。
 彦六の殺気に感づき、よしずの陰で番をしていたのだが、
(どうにもならんか……)と思った。止めて止められる彦六ではない。
 休臥斎は正直いらだったが、この無鉄砲な行動こそ、彦六が一家の男たちをひきつける由縁ではないか。休臥斎も、そこが気に入っているだけに弱かった。
 無意識に、手が束を撫でていた。二尺三寸五分の刀がチィンと鳴った。
 休臥斎はふいにおかしくなってきた。予想どおり一人で次助のところへ出向いた彦六が、じつは愉快でしょうがなかった。笑いをおさめるのに苦労した。
 そのまま、休臥斎は物も云わずに二人の足跡を追った。彦六をねらった浪人と、決着をつける腹積りだった。

 いくみ屋で、彦六は下男をつかまえ、次助たちを呼びにやった。
 下男にはなんのことだかわからない。事を正確に次助たちに伝えた。
 話を聞いた次助は、にわかには信用できなかった。当然であろう。自分の命をねらう相手の袂に、飛び込むバカがどこにいようか。
 次助は、意想外の出来事に対処したときが一番怖い。どう出ていいかわからなかった。
 それに、今度の一件、次助は弥太郎にも黙ってやっている。彦六を殺し、ニワバを奪いとる。弥太郎には死んでもらう。その後釜に、自分が座るつもりだった。
 子分の一人が引き戸を開けた。下に彦六が立っていた。
 それを眺めおろしながら、知らず次助はうめいていた。
「罠……でしょうか?」
 次助もそうは思う。しかし、弥太郎から訊いた西田屋との一件を思い出した。
(あいつならやる……)
 呻きだしたい気分だった。同じだ。死んだはずの黒田彦六が、目の前に立っているようだった。
 次助はさすがに、先代とも面識がある。自分を三下のように扱った彦六が憎かった。彦六自身も自分を嫌っていたろう。
 彦六が死んだとき、次助は狂気した。あの厄介な男がいなくなったのだ。
 二代目となった彦六が、路上からこちらを見上げている。先代の面影をどこか残している風があった。
 次助はその目が気に入らなかった。厄介者がまた増えたと思った。彦六が戻って、自分を叱り付けているようで、うそ寒かった。
「矢坂を呼べ」
 そう、云った。次助が雇った浪人である。生憎とここにはいなかった。別のところに潜んでいる。
 男が出ていき、階下に足音が消えていく。闇と静寂が沈澱した。
 次助はゆっくりと引き戸を閉めた。

 次助が子分を連れて、旅篭を出てきた。確かに頬傷がある。へどの出そうな悪人づらだ。
 彦六は袂に手を入れたまま、黙っている。双方、無言である。
 次助がアゴをしゃくった。すると、子分たちが、彦六をかこんで歩きだした。
 彦六はちらりとも逆らわずについていく。
 その様子を、仁助は物陰からじっと覗いていた。
 これでは飛び出すわけにもいかなくなった。いまさら人を呼びに戻るわけにもいかない。結局、後を付けていくしか法がなかった。
 手下が一人、裏口から出ていった。休臥斎はその後を追った。
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臨時廻り同心風見壮真は実家の離れで訳あって居候中。 本日も頭の上がらない、母屋の主、筆頭与力である父親から呼び出された。 実は腕も立ち有能な同心である壮真は、通常の臨時とは違い、重要な案件を上からの密命で動く任務に就いている。 この日もまた、父親からもたらされた案件に、情報屋兼相棒の翔一郎と解決に乗り出した。 ※完結しました。

余り侍~喧嘩仲裁稼業~

たい陸
歴史・時代
伊予国の山間にある小津藩は、六万国と小国であった。そこに一人の若い侍が長屋暮らしをしていた。彼の名は伊賀崎余一郎光泰。誰も知らないが、世が世なら、一国一城の主となっていた男だった。酒好き、女好きで働く事は大嫌い。三度の飯より、喧嘩が好きで、好きが高じて、喧嘩仲裁稼業なる片手業で、辛うじて生きている。そんな彼を世の人は、その名前に引っかけて、こう呼んだ。余侍(よざむらい)様と。 第七回歴史・時代小説大賞奨励賞作品

下級武士の名の残し方 ~江戸時代の自分史 大友興廃記物語~

黒井丸
歴史・時代
~本作は『大友興廃記』という実在の軍記をもとに、書かれた内容をパズルのように史実に組みこんで作者の一生を創作した時代小説です~  武士の親族として伊勢 津藩に仕える杉谷宗重は武士の至上目的である『家名を残す』ために悩んでいた。  大名と違い、身分の不安定な下級武士ではいつ家が消えてもおかしくない。  そのため『平家物語』などの軍記を書く事で家の由緒を残そうとするがうまくいかない。  方と呼ばれる王道を書けば民衆は喜ぶが、虚飾で得た名声は却って名を汚す事になるだろう。  しかし、正しい事を書いても見向きもされない。  そこで、彼の旧主で豊後佐伯の領主だった佐伯權之助は一計を思いつく。

幕末博徒伝

雨川 海(旧 つくね)
歴史・時代
江戸時代、五街道の内の一つ、甲州街道が整備され、宿場町として賑わった勝沼は、天領、つまり、徳川幕府の直轄地として代官所が置かれていた。この頃、江戸幕府の財政は厳しく、役人の数も少なかったので、年貢の徴収だけで手がいっぱいになり、治安までは手が回らなかった。その為、近隣在所から無宿人、博徒、浪人などが流れ込み、無政府状態になっていた。これは、無頼の徒が活躍する任侠物語。

黄昏の芙蓉

翔子
歴史・時代
本作のあらすじ: 平安の昔、六条町にある呉服問屋の女主として切り盛りしていた・有子は、四人の子供と共に、何不自由なく暮らしていた。 ある日、織物の生地を御所へ献上した折に、時の帝・冷徳天皇に誘拐されてしまい、愛しい子供たちと離れ離れになってしまった。幾度となく抗議をするも聞き届けられず、朝廷側から、店と子供たちを御所が保護する事を条件に出され、有子は泣く泣く後宮に入り帝の妻・更衣となる事を決意した。 御所では、信頼出来る御付きの女官・勾当内侍、帝の中宮・藤壺の宮と出会い、次第に、女性だらけの後宮生活に慣れて行った。ところがそのうち、中宮付きの乳母・藤小路から様々な嫌がらせを受けるなど、徐々に波乱な後宮生活を迎える事になって行く。 ※ずいぶん前に書いた小説です。稚拙な文章で申し訳ございませんが、初心の頃を忘れないために修正を加えるつもりも無いことをご了承ください。

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