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6章

氷結からよみがえるとき

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秦周一は雲南省の奥地、徳欽からバスに乗った。
さらに香格里拉シャングリラからは、昆明、香港へと飛行機を乗り継いだ。

三人は殺されたのだ。殺したのはアメリカだ。
こんな場合はCIAが実行部隊になるのだろう。
中国国内でCIAが思うように活動できるかどうかは分からなかったが、密かなスパイ網を張りめぐらせていれば可能である。

三人が抹殺された理由は、変異遺伝子へんいいでんしの秘密を探ろうとしたからである。
アメリカは、ユキの変異遺伝子を国家機密にしたのだ。
自分の命も危なかった。バスに乗っても飛行機に乗っても、だれかが自分を狙って、陰でうかがっているのではないかと落ち着かなかった。

しかし、なんとか無事、香港にたどり着いた。
もちろん、まだ安心できる訳ではない。
凍死した三人の一件で知り得た情報を、日本の警察に知らせるべきかどうかと迷う。
その場合、まず第一に、龍玉堂りゅぎょくどうに伝わる古文書こもんじょと麗江の雲南薬堂の楊正寧ようせいねいの古文書や、洞窟で出会ったユキについて説明しなければならない。

しかし、まともに受け取ってはくれないだろう。
だが、ユキの陰毛の鑑定があれば信じてもらえる。
秦は、香港とニューヨーク間の飛行機の乗り継ぎ時間を利用した。

『アメリカの検査会社の者が本人に会いたいと言っている』と湯川に告げられたあと、秦はビニールの小袋にユキの陰毛を入れ、手帳の裏表紙のポケットに挟んであった。
毛皮に付着していた陰毛はかなり特殊で、髄質ずいしつがとても豊かだったので楽々鑑定ができたというのだ。

ネットサービスコーナーで、アメリカの検査会社を調べた。
依頼人は偽名だ。メールアドレスも新しく作った。
ニューヨークにオフィスのある会社を見つけ、空港の国際郵便で陰毛を送った。
送付作をするときは、指紋を残さないように手袋をはめた。
検査費用はニューヨークに着いたとき、現地で現金を封筒に入れて送る。

今どきあるのかどうかは分からなかったが、検査結果をメールで確認するときは、ネットカフェを使う。
陰毛の検査結果は三日後に送られてくる。
現在、記憶力やボール投げのすごさ以外、変異を表すこれといった特徴はない。
多くの変異遺伝子が眠っているのだ。

空港内の店で新品の衣服を買って着替え、以前のトレッキング用の衣服や用品を分散し、あちこちの塵入れに捨てた。
ロビーに出てなにげなく目を走らせたが、ソフト帽のつばの下の景色のどこにもこっちを探るような怪しい人影は見当たらなかった。

一つだけ安心してよい徴候があった。
それは、DNAの持ち主のユキや関係者の自分がまだ特定されていないらしい、ということだった。
たぶん国立博物館の湯川博士のところで途切れているのだろう。
しかし、やがては湯川の秘書兼研究員の滝川加奈子から、自分の名前が浮かび上がる。

それよりも早く、ユキのDNAの秘密を解き明かさなければならない。
空港で英字新聞を買ってみたが、三人の凍死体の続報はどこにもない。
日本のテレビで見たきり、以降、どこのマスコミも取り上げていない。

秦は搭乗ゲートに向かった。
手に取った英字新聞をめくり、未練がましく二面、三面にすばやく目を通した。
すると三面の上段に『奇妙な古代人の住居跡を発見』と書かれたタイトルが目についた。
サブタイトルは『ネアンデルタール人はホモ・サピエンスと仲良く暮らしていた?!』だった。

場所はオーストリア。アルプス山脈のボテフ山のふもと
記事なかには、山の斜面と思われる十五センチ四方の住居群の見取り図が記載されていた。
その右端に、墓とおぼしき人骨の発掘ヶ所が二つ。
かなり大きな集落らしく、斜面に穿たれた洞窟の住居跡は、二十数ヵ所ほどもあった。
中央には、一族の中心人物のものとおぼしき大きな洞窟。

『住居の端にある墓穴の人骨の発掘調査では、がっちりしたネアンデルタール人の骨と、スマートなホモ・サピエンスの人骨が仲良く横たわっている。だがそこには、どちらともつかぬ混血と思われる骨もあった。ポルトガルで発見された混血の子供の化石の骨の例もあるように、これらから推測できるのは、両者が共同生活を営んでいたという新事実である』

『現代の解釈では、文化レベルの高いホモ・サピエンスが、ネアンデルタール人を駆逐くちくし、現代人に至ったとされている。しかし、この集落だけの特殊な例なのかもしれないが、ここでは先に定住していたネアンデルタール人が主となり、両者はかなり仲良く暮らしていた模様である。もし、憶測どおりであるとしたら、今までの概念を大きく変えなければならない』

『もう一つの発見は、この集落だけのものかも知れないが、狩をするための道具、すなわち武器として弓矢や槍はもちろん、彼らは石も投げていたらしいということである。その石は各家々の洞窟にあり、大中小の三種類が用意されていた。大きなものは手で握れるもの、|中《ちゅう)はてのひらにすっぽり入ってしまうもの、さらに小はピンポン玉ほどの大きさである。三種類の石の大きさは獲物によるものと推測できる』

え? と秦は息を呑み、もう一度記事を読みなおした。
投石用の石の写真の掲載はなく、ただの文章表現だった。
その目が次、に書かれた文章に吸い寄せられた。

『さらに、この集落のリーダーの住居とおぼしき大洞窟の奥の穴からは、青い石を丸く削り、金の鎖で繋ぎ止めた首飾りが発見された。首飾りは、後世で言うところの貴族なりの遺品とも憶測できるが、両者の共同生活という新事実に加え、その高度な加工技術などを考慮するとき、彼らの驚異的な文化レベルの見直しが迫られるであろう』
写真は白黒だった。ユキが持っていた首飾りにそっくりのような気がした。

そして記事の下の部分には、毛皮を着、獲物に向かって石を投げる男たちのイラストが描かれていた。
その背後では、子供や女たちが小動物に石を投げていた。
小さかったが、空中に飛ぶ石が丸くい点になっていた。
背後の風景は、雪を頂くアルプスのような山だ。

『なお、調査はEU学術調査団のメンバーにより、始まったばかりで、これらの記事の内容は推測の域をでないものである』
「ユキだ……」
秦は広げた新聞に、思わずつぶやいた。
しかし場所は、梅里雪山から遠く離れた東ヨーロッパのオーストリアである。

『確定的な今後の調査結果を待たねばならないが、大まかな年代測定では、おおよそ三万年前のものと推定できる』
「三万年だってか?」


ニューヨーク。マンハッタン、ミッドタウン・イースト。
シークレットサービスの二人が自室にいないユキを探し、AREホテルから表通りにでた。一人が55ストリートから5番街へ、もう一人がレキシントンアベニューに向かう。
ユキは街をぶらつきたいと言っていた、とダン・池田からの助言だ。

それにしても、妙なコソ泥がユキの部屋に忍びこんだものである。
警察に引き渡したが、ドアは開いていたと主張する。
またホテルのドアマンは、入れてもいいとユキが命じたと証言する。

その後、彼女が外出した形跡はないのだが、いつ外に出たのか。
そのとき一階下のダン・池田は外出中だったし、ホテル内に知り合いはいないはずである。考えられるたった一つの可能性は、ホテルのロビーで知り合った宿泊中の男のベッドの中、というプライベートな展開だ。

すべてではないが、なんでも自由になるAREホテルに滞在する金持ちの男たちの最大の楽しみは、いい女とのベッドインである。
上流階級で行われる私的なパーティーでは、酒とドラッグとセックスが常識という噂である。

二人とも、ベテランのシークレットサービスだ。
R階で起きた事件が気に食わない。
ダン・池田があらたな応援を四人ほど頼んでくれたが、観光客にとって、ニューヨークは見どころが満載だ。

昼下がりのミッドタウン・イーストに、かったるい日差しが降り注ぐ。
イースト・リバーからのかすかに湿った微風が、群がり建つ大小新旧のビルの谷間に流れる。
マンハッタンは、先住民族のインディアンから騙し取った島である。

イースト・リバーからの気流は、そんな歴史的事実などどこにもなかったかのように、穏やかにハドソンリバーからロングアイランドへ抜けていく。


イースト・リバーのリンカーントンネルを、一台の車が渡っていた。
ニューアーク国際空港から来たタクシーだ。
ニューアーク空港は、ケネディ空港よりもニューヨークに近い。
ニューヨークは、数えて五度目だった。
初めてきたのは妻の明日子とで、新婚旅行のつもりだった。

さあニューヨークだ、ヤンキースだ、ストライブのユニフォームを着たユキが見られるぞ、と胸がときめいていてもよかった。
だが、秦は英字新聞の遺跡発掘の記事と、挿入そうにゅうされたイラストをぼんやり頭に浮かべていた。
古代人の娘が飛ぶ鳥をめがけ、石を投げていたのだ。
三万年前のユキ──そんな幻想が頭から離れない。

『いったい、なにが起ころうとしているんだ……梅里雪山で凍死した三人は、なにかを見たのではないのか。それで殺されたのか』
梅里雪山で三人のキャンプ地に立ち、秦はあたりを見回した。
岩肌が広がり、正面には谷がえぐれ、風下にあたる山はなだらかな斜面だ。

『ありえない。どう見てもあそこには岩と空しかなかった。もっとも麓であれば、明永村以外の入り組んだ山裾には深く緑が茂り、小さな村々が点在している。しかし、人知れず存在している村とは言えない。雪豹という特種な動物などを飼育し、毛皮を着た生活をしていればすぐに評判になる』
そして、人気のないキャンプ地の残雪の岩場は、いかにも雪豹にぴったりの環境のような気がした。

タクシーはビル街をまっすぐに突き進む。
「ホテルにいく前に、ポストオフィスに連れていってください」
思いついて、タクシーの運転手に告げた。

秦は、香港の空港で買ったエアメールの封筒を手提げバックからだした。
封筒はハンカチに包まれている。
指紋を残さないように飛行機の中で宛先を書き、自分のアドレスに依頼者ナンバー、偽装の名前と住所を付け加えた。

封筒内には所定の金額が入っている。
もちろん現金を封筒に入れるのは違法だ。
だからエアメールの便箋びんせを使い、手紙のようにきちっとくるんだ。
指紋も体液も残さないようにペットボトルの水をハンカチに湿らせ、封筒の糊代のりしろを濡らした。

陰毛の鑑定結果は、事実をはっきり伝えてくれるだろう。
検査料を払えば、分析の結果は三日後にメールで届く。
いまは計測機器などが進歩し、鑑定はあっと言う間だ。

タクシーは一直線に進み、ウォール街に入った。
びっしりビルが並んでいる。
荘重な石造りのエンタシスな円柱を正面に並べたビル、
巨大なアメリカ国旗を壁面に掲げたビル。
総大理石で表を固めたビル。

そのビルの中には、世界から金を吸い上げるための最先端の超高速コンピュータ設備を整えたオフィスが、二四時間、不眠不休で稼働している。
需要と供給の経済学は遠い過去の概念だ。
金が金を産み、その金がまた金を産む。
そこはもう、人生を豊かに暮らそうと日々労働でがんばる人々の生活とは無縁の世界だ。

『おまえたち、そうやって世界中から金をかき集め、なにに使うんだよ』
そこには、そう叫びたくなるほどの狂気が蜷局とぐろを巻いている。
世界経済とやらに疎い秦にできる批評は、それくらいだった。
「ここにポストオフィスがあります」
タクシーが歩道側に寄り、軽くブレーキを踏んだ。


アッパー・イーストサイドの55ストリートのAREホテルは、質素に堂々と聳えていた。
ホテルの予約手続きは、香港からメールで済ませた。
ユキが部屋で待っているはずだ。

ソフト帽に薄手のコート、スーツ、ネクタイ姿は久しぶりだった。
いつしか、丸い背中がぴんと伸び、人が変わった気分の自分がおかしかった。
キイをもらうと、白人のルーム係が、ご案内します、と先に歩きだした。
荷物を積んだカートがボーイに押されてついてくる。

ルーム係りに先導されてエレベーターに乗ろうとしたとき、秦は二人のボーイにチップを渡した。
いの一番、ユキの部屋にいきたかった。
ホテルのスタッフは邪魔だった。
秦はメールで教わったとおり、Rのボタンを押した。

R階のエレベーター前は広いホールだった。
正面に部屋のドアが見える。
迷いようがなかった。R階には一室しかないのだ。
ドアホーンを押したが返事はない。
眠っているなと、秦は手帳の暗証番号を確かめ、四桁の番号を押した。

待っているとはっきりメールをもらった。
待っているうち、眠ってしまったのだろうか。
眠るときユキは子供のように両拳を握ってからだを丸め、夢をむさぼる。

蝶や島の夢を見たと訴えたが、その後、夢についてのメールはもらっていない。
カートを引き入れ、ドアを閉める。
六畳ほどの玄関を抜けると、広い居間だった。
ソファやチアセットが置かれている。
レースのカーテンの向こうはニューヨークの空だ。

「ユキ、ユキ……」
秦は、ソフト帽とコートを脱ぎながら呼んだ。
右奥にドアが一つ、左の壁の中央にはドアが二つ並んでいた。
帽子やコートをソファの上に置き、左の奥のドアを開けた。
寝室だった。ナイトテーブルに一組のソファ、その奥にセミダブルのベッドが二つ。

ベッドで眠っているものとばかり思っていた秦は、主の姿のないベッドに異様な空気を感じた。
寝室からでてロビーを横切り、反対側の部屋に入ってみた。
そこはトレーニングルームだった。
並んだトレーニングマシンが無機物の静けさで、ニューヨークヤンキースの女性投手を待っていた。

ふたたびロビーを横切り、寝室のとなりの部屋に入った。
デスクが据えられ、大小のパソコンやプリンター、大型テレビなどが置かれている。
さらに奥にもうひとつ、部屋があった。
そっとドアを開けてみると、そこも寝室だった。
やはりユキの姿は見当たらない。

奥の部屋をからでて、入り口の脇の廊下をのぞいてみた。
頭上のライトが光っている。
十メートルほどいった奥に、四角いテーブルが置かれている。
椅子が六つきちんと並んでいる。
キッチンだった。壁ぎわに調理台と流し。

ダンに連絡してみよう、と懐のケイタイに手をのばしたとき、背後のもうひとつのドアに気づいた。
ドアを引くと、ふわっと開いた。
窓のカーテンが左右に開けられ、ベージュの絨毯じゅうたんにニューヨークの午後の陽が照っていた。
十畳ほどのその部屋の中央に、背丈よりも高い大型冷蔵庫が一台、でんと置かれていた。


大型冷蔵庫の向こう側には、チェストとアクリルの洗濯乾燥機が隠れていた。
籐製のチェストの引き出しには、なにも入っていない。
洗濯機にも洗濯物はない。
置かれた大型冷蔵庫の扉を開けた。がらんとした空間に、真新しい合成樹脂のかすかな匂い。
冷蔵庫にもまだなにも入っていない。
しかし、じーんと低い音をたて、忠実に任務をこなしている。

秦は観音開かんのんびらきの上部のドアを閉め、冷気から逃れた。
そして、その下の段の取手に手をかけた。
冷凍庫とおぼしき四角い引き出しは、膝頭からへそまであった。
アメリカの大型冷蔵庫は、身長190センチほどの大男を標準にしているのか。

しかも片手で引いても手前にでてこない。
もう一方の手を添え、力をこめて引いてみる。
こくんと音をたて、大型のボックスが滑りでてきた。
中味の重さで、自動的に動きだしたという感じである。

ボックスは、半畳もあろうかと思われる大きさだ。
そこには、スペースにおさまった品物が、でこぼこになって白いしもをかぶっていた。
動物がまるごと一匹放り込まれているのか。
なんだろう、とぎょっと見守る。
その一匹は横向きに背を丸め、肘を腹につけ、握った拳を額に寄せている。
頭をすこしだけ横にひねり、上を見ている。

「これは?」
息を飲み、腰をかがめた。
まさかと、そっと手を伸ばした。
その物体の表面の白い霜をはらってみた。
でてきた衣類に見覚えがあった。
力を込め、霜をこそぎ落すと、ストライブの模様がでてきた。

ヤンキースのユニフォームだ。
からだを固くし、もう一度ボックスを見直した。
髪が半分肩にかかっていた。
「人間の女……」
震える手で、今度は、顔にかかった白い霜を擦り落とした。

ボックッスを覗き込んだまま、身動きができなくなった。
心臓の鼓動がはっきり聞こえた。
真四角のボックスの中で、黒髪を乱した女性がヤンキースのユニフォームを着、凍りついていたのだ。

もう一度、凍っている人間を見直した。
手をのばし、顔にかかった白い霜を払った。
秦はボックスの縁に手をかけたまま、膝をついた。
心臓が握り潰されるかのように、ぎゅっと痛くなった。

「ユキ……」
言葉を絞りだした。
やや上をむいた彼女の横顔が、秦の目の前にあった。
睫毛まつげが一本一本、白く凍っていた。
うっすらと開いた瞼の隙間から見える眼球も、白く凍っている。
その隙間から、目の底のかすかな青味がうかがえた。

なにかをつぶやこうと口を動かした。しかし、言葉がでない。
冷静になれと息を飲み、落ち着きを取り戻そうとした。
秦は、彼女の顔をおおっている白い霜を手の平でこそぐように、二度三度と撫でた。
からだはかちかちに凍りついていた。

深呼吸しながら、落ち着け、落ち着け、と言い聞かせる。
梅里雪山で凍死した三人の一件が思い浮かんだ。
高虹ガオホンの仲間がこのホテルにもいるのか。
だが、部屋はしんとしていて、開け放たれた冷蔵庫の冷却音が低く響いているだけだ。

ユキはうっすらと目を開け、笑みを浮かべているようにも見えた。
それが、釈迦しゃか涅槃像ねはんぞうのような恍惚こうこつの表情に思えた。
と同時に、ベッドの上で同じような顔をしていた四歳の雪子が重なった。
さらに『もし自分が氷に埋もれたら、氷が溶けたとき、迎えにきてください』と言っていた古文書の言葉が重なる。

分かっていた。それはあくまでも古文書の世界なのだ。
ある出来事が口伝くでんによって誇張され、何人もの語り部の口を経、文字として定着した神話に近い伝説なのである。
「いったい、どうなっているんだユキ……」
頭の中に、解けない糸の固まりが紐をこんがらかせ、ごろんと転がっていた。

秦は膝を突いて立ちあがった。
とにかく、なんとかしなければならなかった。
ホテルに知らせるか、警察か、ダン・池田か、日本大使館か。
いや、やはりホテルのフロントだ。あとはホテルがやってくれる。

秦は窓際の電話台のほうに歩みだした。辛い足どりだった。
「なにをどう説明したらいいんだろう」
二歩、三歩、と絨毯じゅうたんの上を歩む足に、なにかが絡みついた。
秦は足をとめた。肩をまわし、冷蔵庫を振り返った。

冷凍ボックスの中に、横顔を秦の方に向けたユキがいた。
カーテンの開いた窓ガラスを透け、黄色味をおびた午後の太陽が、四五度の角度で部屋に射していた。
今までビルの陰になっていたのか、一瞬の隙をつき、陽光が束になってユキの顔を浮かびあがらせていた。

もし、ユキが氷の洞窟からでてきた女だとしたら、そしてアメリカ人のジェフ・エリックがいっていたように、ユキのDNA遺伝子にその解答があるのだとしたら、冷凍庫のボックスに横たわっているユキは目を覚ましてこう言う。
『迎えにきてくれてありがとう』

冷凍生物は、この地球上にちゃんと生息している。
南極毒蜘蛛どくぐもはマイナス五十度の世界で十五年間も生き、アメリカアカガエルは冬になると全身をかちかちに氷らせて冬眠し、春になるとまた普通の蛙に戻る。
再生する冷凍生物は存在するのである。
人間をふくめた地球上の生物たちは、その役割が解明されていない大量のゲノムを保有しているのだ。

さらにユキは、通常とはちがう遺伝子を、B5の用紙で二十ページも持っているのだ。
そう考えながら焦点をユキに戻すと、太陽の光を浴びたユキの睫毛まつげの先が、きらっと輝いた。
睫毛の先に溜まった雫だった。霜が融けだしたのだ。
睫毛だけではなかった。頬骨の膨らんだヶ所が、うっすらと滑らかな皮膚の色に変わろうとしていた。

三分、四分、五分と棒立ちになり、秦は冷凍庫と対峙たいじした。
秦は、海を渡ってきた古代の御先祖の意志をしっかりと感じた。
遠く西から娘を追ってきた父親──そしてその末裔たちは、代々の祖先の言いつけを守り、娘が入った洞窟の氷の解けるのを待った。

だが、何代めかの祖先が、やむを得ない理由で当地を離れた。
その無念さをいつかだれかに晴らしてもらおうと古文書を携え、日本にやってきたのだ。
粉をまぶしたような真っ白な霜が、次第にユキのからだから失せ、ヤンキースのユニフォームの生地の糸目がはっきり見えてきた。
(6-1 了)

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