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3 アリスタとティナ
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王城の庭園が見える露台に設置された食卓を挟み向かい合わせに座ると、サワワワーッと爽やかな風が吹いた。それが俺の金髪を肩から後ろへとサラサラ流したが、爽やかなのは風ばかり。
その爽やかさにも負けずこの場に鎮座している重苦しい空気は、執務で疲れ切っている俺の脳を更に疲れさせていた。
イリスに変わって欲しいと訴えたが、他の人は騙し通せても父王と婚約者殿は騙し通せませんよ、とイリスは笑いつつ俺の依頼をあっさりと断りやがった。これじゃどっちが主人か分かったもんじゃない。
というか、主人の命令を断るなよ。
そう抗議したところ、怒った顔も素敵です、あ、私にご奉仕させていただけるなら考えさせていただきますよと頬を赤らめて欲情した表情で言われれば、それ以上何が言えよう。
主人に交換条件を出す影武者。やっぱりあいつはおかしい。その条件の内容も。
ということで、今日も実に冷たい表情に化粧を塗りたくったティナ・シュタインベルガー嬢を前に、さて何をどう切り出せばいいものやらと考えあぐねていた。
イリスが来ないなら来ないで、折角だから可能性を聞いてみようかと思ったのだ。だが、何と言えばいいのかが分からない。
「あー……ティナ?」
「何でございましょう、アリスタ様」
淑女の嗜みなのか何か知らないが、扇子で口元を隠している上に声が小さいので非常に聞き取りにくい。思わず前屈みになると、ティナは無表情のまま後ろに少し仰け反った。――そこまで嫌がらなくてもいいじゃないか。
ええい、どうせ俺は嫌われている。これを言ってティナに軽蔑されようが、もう知ったことか。
開き直った俺は、前屈みになって近付き、ティナの目を真っ直ぐに見た。怪訝そうなティナの顔。
それはそうだろう。初めの頃こそティナと仲良くしてみようと色々とやってみたが、一向に視線が合わない。ああこれは拒否されているのだな、そう悟るのにそう時間はかからなかった。
それからは、向けても視線の合わない目を探すのも悲しくて、俺はティナの顔を真っ直ぐに見ることをやめていたのだ。
でも、こんな大事なことだけは、ちゃんと目を見て話したい。人と話をする時は目をみて話しなさいと、師匠も言っていたから。
「婚約破棄をしたいと言ったら、受け入れていただけますか」
「……はい?」
心底冷めきった冷たい声色だった。俺は内心心臓が凍りつく様な思いを覚えていたが、ここで引いては男が廃る。
俺がここから誰にも言わず去る時が来た時に、ティナが捨てられたと恥ずかしい思いをしなくてもいい様に、事前に身辺整理をしようと思ったのだ。
王家と血縁関係になるのは公爵家としては大事なことだろうが、俺がこのまま何も対処せずにいなくなった場合、ティナは捨てられた女となり嫁の貰い手もなくなる可能性がある。
それはさすがに可哀想だし公爵家にも失礼だな、そう思っての質問だった。
「他にどなたか好条件のお方でも現れましたか」
冷たい、冷たい言い方だった。まるで自分は物なのだと言っている様なその口調に、俺は思わずむっとして反論する。
「違う。そうじゃない。ただ――」
「ただ?」
どうしよう、言ったらティナは喋ってしまうだろうか。
本当は、ティナのことは嫌いじゃない。今はタチアナという惚れた女が出来たが、それまではティナを愛そうと努力したし、綺麗だなあと可愛いなあと自分の婚約者がちょっと自慢だった。
だけど、ティナは俺のことはそう思ってないから。
もうやめた。諦めた。期待するのはやめた。そしてどうか忘れてほしい。責務から逃げようとしている男のことなど。
「――跡を継ぐのはやめようと思っています」
「――は?」
ティナの扇子が、ぽたりと床に落ちた。出てきたのは、滅多に見ることのないティナの華奢な首。
ティナはいつも、首を隠す様な仕様のドレスを着ている。下品に胸を出してなくて好感が持てたが、気になって尋ねてみたことがある。そうしたら、答えはこうだった。「お見苦しい物がございますので」。
ティナが扇子を拾おうとして屈む。服の隙間から見えた首には、赤い痣の様なものがあった。
「私は、ここを出ていこうと思っています。誰にも言わずに」
「え……そんな馬鹿な」
そんなもの、気にしなくても十分素敵なのに。だから白粉を塗りたくって、見えない様に必死で隠していたのか。そう思ったら、急に悲しくなった。
俺にだって、二の腕の内側に酷い傷跡がある。子供の頃、俺の命を狙う刺客に襲われた時のものだ。あの出来事以降、俺の横にはイリスが控える様になった。
「馬鹿、ですよね」
俺の微笑みをどう受け取ったのか、ティナは起き上がると慌てた様に目を左右に揺らす。こんな表情もするのか。新鮮だった。だが、もういい。
「あ……いえ、アリスタ様、大変失礼致しました」
「いや、私の方こそ申し訳ないです。ただ、逃げる様な形になってしまうと思いますので、その前に婚約解消をして貴女に被害が及ばない様にしたいと思いまして」
俺がそう言うと、ティナがまた目を大きく開く。その表情は、大きく口を開けて笑うタチアナとあまりにもよく似ていて、俺とイリスが似ている様に、この世にはティナと似ている人間もいるんだなあと感慨深く思った。
「……残念ですが、私の方からは何もお答え出来ません。個人の話ではございませんので」
「個人の話ではない、ですか……」
やはりティナにとって俺との結婚は、ただ家と家との繋がりに過ぎないのか。それに対しティナがどう思うのか、最後にティナの本心を聞いてみたかったけど。
ティナはきっと、答えを持たないだろう。
「それでは、公爵家を通して打診してみたいと思います」
「……はい」
俺がにっこりと笑ってそう告げると、ティナはまた目を伏せてしまい、それ以上俺の目を見ることはなかった。
――打診などしている暇はない。決行は次の機会に、すぐだ。
イリスの目から逃れたその瞬間、俺は消える。覚悟が出来た瞬間だった。
その爽やかさにも負けずこの場に鎮座している重苦しい空気は、執務で疲れ切っている俺の脳を更に疲れさせていた。
イリスに変わって欲しいと訴えたが、他の人は騙し通せても父王と婚約者殿は騙し通せませんよ、とイリスは笑いつつ俺の依頼をあっさりと断りやがった。これじゃどっちが主人か分かったもんじゃない。
というか、主人の命令を断るなよ。
そう抗議したところ、怒った顔も素敵です、あ、私にご奉仕させていただけるなら考えさせていただきますよと頬を赤らめて欲情した表情で言われれば、それ以上何が言えよう。
主人に交換条件を出す影武者。やっぱりあいつはおかしい。その条件の内容も。
ということで、今日も実に冷たい表情に化粧を塗りたくったティナ・シュタインベルガー嬢を前に、さて何をどう切り出せばいいものやらと考えあぐねていた。
イリスが来ないなら来ないで、折角だから可能性を聞いてみようかと思ったのだ。だが、何と言えばいいのかが分からない。
「あー……ティナ?」
「何でございましょう、アリスタ様」
淑女の嗜みなのか何か知らないが、扇子で口元を隠している上に声が小さいので非常に聞き取りにくい。思わず前屈みになると、ティナは無表情のまま後ろに少し仰け反った。――そこまで嫌がらなくてもいいじゃないか。
ええい、どうせ俺は嫌われている。これを言ってティナに軽蔑されようが、もう知ったことか。
開き直った俺は、前屈みになって近付き、ティナの目を真っ直ぐに見た。怪訝そうなティナの顔。
それはそうだろう。初めの頃こそティナと仲良くしてみようと色々とやってみたが、一向に視線が合わない。ああこれは拒否されているのだな、そう悟るのにそう時間はかからなかった。
それからは、向けても視線の合わない目を探すのも悲しくて、俺はティナの顔を真っ直ぐに見ることをやめていたのだ。
でも、こんな大事なことだけは、ちゃんと目を見て話したい。人と話をする時は目をみて話しなさいと、師匠も言っていたから。
「婚約破棄をしたいと言ったら、受け入れていただけますか」
「……はい?」
心底冷めきった冷たい声色だった。俺は内心心臓が凍りつく様な思いを覚えていたが、ここで引いては男が廃る。
俺がここから誰にも言わず去る時が来た時に、ティナが捨てられたと恥ずかしい思いをしなくてもいい様に、事前に身辺整理をしようと思ったのだ。
王家と血縁関係になるのは公爵家としては大事なことだろうが、俺がこのまま何も対処せずにいなくなった場合、ティナは捨てられた女となり嫁の貰い手もなくなる可能性がある。
それはさすがに可哀想だし公爵家にも失礼だな、そう思っての質問だった。
「他にどなたか好条件のお方でも現れましたか」
冷たい、冷たい言い方だった。まるで自分は物なのだと言っている様なその口調に、俺は思わずむっとして反論する。
「違う。そうじゃない。ただ――」
「ただ?」
どうしよう、言ったらティナは喋ってしまうだろうか。
本当は、ティナのことは嫌いじゃない。今はタチアナという惚れた女が出来たが、それまではティナを愛そうと努力したし、綺麗だなあと可愛いなあと自分の婚約者がちょっと自慢だった。
だけど、ティナは俺のことはそう思ってないから。
もうやめた。諦めた。期待するのはやめた。そしてどうか忘れてほしい。責務から逃げようとしている男のことなど。
「――跡を継ぐのはやめようと思っています」
「――は?」
ティナの扇子が、ぽたりと床に落ちた。出てきたのは、滅多に見ることのないティナの華奢な首。
ティナはいつも、首を隠す様な仕様のドレスを着ている。下品に胸を出してなくて好感が持てたが、気になって尋ねてみたことがある。そうしたら、答えはこうだった。「お見苦しい物がございますので」。
ティナが扇子を拾おうとして屈む。服の隙間から見えた首には、赤い痣の様なものがあった。
「私は、ここを出ていこうと思っています。誰にも言わずに」
「え……そんな馬鹿な」
そんなもの、気にしなくても十分素敵なのに。だから白粉を塗りたくって、見えない様に必死で隠していたのか。そう思ったら、急に悲しくなった。
俺にだって、二の腕の内側に酷い傷跡がある。子供の頃、俺の命を狙う刺客に襲われた時のものだ。あの出来事以降、俺の横にはイリスが控える様になった。
「馬鹿、ですよね」
俺の微笑みをどう受け取ったのか、ティナは起き上がると慌てた様に目を左右に揺らす。こんな表情もするのか。新鮮だった。だが、もういい。
「あ……いえ、アリスタ様、大変失礼致しました」
「いや、私の方こそ申し訳ないです。ただ、逃げる様な形になってしまうと思いますので、その前に婚約解消をして貴女に被害が及ばない様にしたいと思いまして」
俺がそう言うと、ティナがまた目を大きく開く。その表情は、大きく口を開けて笑うタチアナとあまりにもよく似ていて、俺とイリスが似ている様に、この世にはティナと似ている人間もいるんだなあと感慨深く思った。
「……残念ですが、私の方からは何もお答え出来ません。個人の話ではございませんので」
「個人の話ではない、ですか……」
やはりティナにとって俺との結婚は、ただ家と家との繋がりに過ぎないのか。それに対しティナがどう思うのか、最後にティナの本心を聞いてみたかったけど。
ティナはきっと、答えを持たないだろう。
「それでは、公爵家を通して打診してみたいと思います」
「……はい」
俺がにっこりと笑ってそう告げると、ティナはまた目を伏せてしまい、それ以上俺の目を見ることはなかった。
――打診などしている暇はない。決行は次の機会に、すぐだ。
イリスの目から逃れたその瞬間、俺は消える。覚悟が出来た瞬間だった。
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