扉の先のブックカフェ

ミドリ

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12 ドライブインシアターへ出発

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 よく冷えたベルガモットが香るおしぼりで瞼を押さえていると、ようやく慟哭の波が収まっていった。

「す、すみません……っ」

 私のこれを見慣れているマスターは呆れ顔に笑みを浮かべていただけだけど、初めて見る大川さんは見るからに驚いていた。

 ディーン・クーンツの『ウォッチャーズ』に出てくる主人公や引っ込み思案の女性、そして二人をくっつけようとする賢くも愛らしい犬のアインシュタインも皆みんな愛おしくて、私の涙腺は途中から崩壊しっ放しだったのだ。

 凄い話だった。感動し過ぎて、『ピート』にいることすら忘れた。

 大川さんは上巻の途中に栞を挟むと、下巻と一緒に本棚に戻す。大川さんが下巻をどういう表情で読むのか、是非隣で見ていたいと思うのは意地悪だろうか。

「どうしてもいい作品を読むとこうなっちゃって」

 必死で言い訳をすると、大川さんが目元を綻ばせる。

「本を読んでる時、いつも色んな表情をしてるよね」

 普通に見られていたらしい。おしぼりから顔を離すと、本棚から戻ってきた大川さんが肩肘をついて、穏やかな表情で私を見つめていた。

 いつもよりも距離が近いので、視線をどこに向けたらいいのか暫し迷子になる。

 結局、大川さんの口元を見ることで何とか平常心を保った。

「月島さんらしいよ」
「……それって単純ってこと?」
「ははっ」

 ぷくく、と楽しそうに笑った後、大川さんは立ち上がると私に手を差し出す。

「素直で可愛いなって思うよ。僕は捻くれてるから、素直に羨ましい」

 可愛いと言われて一瞬心臓が飛び跳ねたけど、よく考えたら子供っぽいと言われているのと同じだと悟り、少し口を尖らせながら大川さんの手に手を乗せた。

「大川さんは落ち着いているから、私の方が羨ましい」

 すると、これには可笑しそうに口元を緩ませる。

「落ち着いてる、ねえ。よく言われるけど、顔や態度に出ないだけで、内心は結構焦ったりしてるんだけどね」

 今日月島さんを誘うのだって、緊張したんだよ。そう小声で言われ、何でも思っていることがすぐに顔に出てしまう私は、口を真一文字に結んで目を伏せる。

 大川さんは、口調は柔らかいのに言うことがストレートだ。それは別に私に対してだけではなく、マスターに対しても好意を包み隠さずに語るから、元々の性格なんだろう。だけど私は、いちいちそれにドキッとさせられてしまうから参ってしまう。

「だから、一緒だよ。――さ、帰ろうか」
「あ! もうこんな時間! 急がないと!」
「だね。このままだと、月島さんちに泊めてもらわないといけなくなっちゃうし」

 大川さんがあははと戯けた表情をして言った途端、マスターが「ゴホン」とわざとらしい咳をした。大川さんは可笑しそうにくすくす笑う。

「月島さんの保護者の目が光ってる」

 そう言って、私の手を掴んだまま引っ張った。いきなり手を繋がれ、思わず「え? え?」と焦ると、大川さんは「この時間帯は酔っ払いが多いから」とさらりと答えた。

「じゃあマスター、おやすみなさい」
「マスター、遅くまでお邪魔しました!」

 マスターが、カウンターから出てきて扉を開けてくれる。

「ああ。運転には気を付けろよ」

 すれ違いざま、マスターが少しだけ不安そうな声色で大川さんに言った。

 私の背中を押したのはいいけど、私が車に乗ることを避けているのを知っているマスターには、どうしても少し不安が残るんだろう。

「大事な月島さんを乗せるんですから、勿論です。超安全運転でいきますから」

 マスターの好意を無下にする訳にはいかない。私も笑顔になると、空いている方の手を上げて安心させるように伝えた。

「マスター、ありがとう!」
「……ああ」

 大川さんは少し不思議そうな顔になっている。何がありがとうなのか、分からないんだろう。でも、尋ねられても返答に困ってしまうので、私はそのままマスターに笑いかけた。

「お土産話、楽しみにしてて下さい!」

 私がそう言うと、今度は本当の笑顔になったマスターが、手を振る。

「さ、急ごうか」
「あ、はい!」
「また敬語」
「あ、しまった」

 じんわりと湿っぽい夜の空気の中、私の手を覆う大川さんの手のひらが、やけに暖かく感じられた。



 大川さんは何とか終電に間に合い、日付を超えた頃に無事に家に着いたと連絡があった。それを確認すると、軽くシャワーを浴び、さっさと寝る支度をする。

 明日は、どこか途中でお昼を食べようという話になり、少し早めの十一時に家の前に車で迎えに来てくれることになった。

 レンタカー屋の前で待ち合わせでいいと言ったけど、「少しは格好つけさせて」と照れた様に笑って言われたら、もうそれ以上何も言えなかった。思っていた以上に、大川さんのあの表情には殺傷力がある。

 目を閉じると、瞼の裏に映るのはゴールデンレトリバーのアインシュタインが楽しそうに走る姿。そのアインシュタインの飼い主は何故か大川さんになっていて、はしゃぐ二人を微笑ましそうに眺めているのは、私だった。



 大川さんは、時間よりも少し早く到着した。もっと大きな車がよかったけど、前日だったから選べなくて。そう言って乗ってきたのは、白い日産のマーチだった。颯爽としている大川さんと比べると随分と可愛らしい車だから、思わず笑みが溢れる。

「支度、急かしちゃってたらごめんね」
「いや、全然! 楽しみで、待ち侘びてたし」
「はは、じゃあよかった」

 大川さんが恭しく助手席のドアを開けると、執事の人みたいな仕草で私を中に促した。

「今日は月島さんへのお礼の日だから、遠慮なく寛いでね」
「お礼だなんて、そんな大層なことしてないのに」
「そう思ってるのは月島さんだけだから」

 運転席に座り、シートベルトをきっちりと締める大川さん。これまではスーツ姿しか見たことがなかった大川さんの私服姿は、新鮮だった。

 白いVネックのTシャツに、少し細身のチノパン。柔らかさそうな素材の七分袖の黒いジャケットを軽く羽織り、白いスニーカーを履いている。いつもは整髪剤を付けて後ろと横に流している少し明るい色の髪の毛は、今日はちょっと無造作にくしゅくしゅにされていた。いつもは大人っぽい大川さんが年相応に見えて、何だかこそばゆい。

 私はというと、迷いに迷って、緩めのふんわりとした紺色のワンピースを選んだ。ふくらはぎ丈にはしたけど、それでも背が高くない私にはちょっと長い。なので、持っている中で一番ヒールの高いサンダルを履いてきた。

「スカート、珍しいね」
「そ、そうなんですよー!」

 あはは、と頭を掻きながらわざとらしく笑うと、大川さんが「敬語になってる」とくすりと笑う。

「似合ってる」
「あは……は、あり、ありがとう……」

 顔からも身体からもカアアッと熱を発し、思わず手で顔を仰いだ。

「暑い?」
「あ、少しだけ」
「じゃあエアコン強めるから、寒かったら言って」

 大川さんはそう言ってエアコンを調整すると、涼しい風が私の顔に吹きかかる。

 車を発進させると、大川さんはこれから向かう場所の説明を始めた。高速で一時間ほど行った所にある湖の近くのイベントスペースで行なわれるそうで、屋台やキッチンカーなどもあるらしい。

 すぐ近くの商業施設のトイレも借りられるし、仮設トイレもあるそうだ。

「で、これは言ってなかったんだけど」
「え? 何?」

 大川さんが、悪戯をした子供の様な楽しそうな表情で私を横目で見る。

「昔懐かしホラー特集なんだって」
「ホ、ホラー?」
「うん。この前、月島さんがスティーブン・キングの『シャイニング』をお勧めしてくれたでしょ? だから同僚からホラー映画だって言われた途端、もうこれは月島さんを誘うしかないと思って。ホラー、苦手?」

 正直言って苦手だ。本ならインターバルを挟んで読めるけど、映画は逃げられないから。

 だけど、最後に観たのは遥か昔の話だ。私はもう大人になっているし、きっと大丈夫な筈。

 ということで、力一杯頷いた。

「だ、大丈夫でしょう!」

 私がそう言った瞬間。

 車内に、実に楽しそうな大川さんの笑い声が溢れたのだった。
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