マンドラゴラの王様

ミドリ

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第三章 根子神様

26 山崎さんに心から感謝する

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 顔を上げ、観察日記を丁寧に閉じて私に返すと、山崎さんは少し照れくさそうに笑いながら尋ねる。

「色々と大変だったんだねえ。ゴラくんは男の子だもんね、美空ちゃんでは教えるのが大変なこともあったでしょう」

 その言葉に、私は深く大きく頷いた。本当に大変だった。観察日記の中にも記載はあるけど、それ以上にここに来た初日のレクチャーは非常に精神を削られたし、目下最も難関と思われる案件も抱えている。

 これは渡りに船だ。私はずい、と前のめりになると、山崎さんに懇願した。

「山崎さん! 交尾について、ゴラくんにレクチャーをしてもらえませんでしょうか!」

 頭を勢いよく下げると、ゴン! とこたつ板に額をぶつける。だけど、まだ返事を聞けていない。私はそのままこたつ板に額をくっつけ続けた。お願いだから、うんと言って欲しい。私には無理だから。
 すると、思わぬところから助け舟が出される。

「山崎さん、私も聞きたい!」

 パッと顔を上げると、母の目が輝いていた。意外なところに援軍を発見し、俄然私の期待値は高まる。

「え……っ由紀ちゃん何言ってんの?」

 どちらかと言うと山崎さんの方に同意見だったけど、ここで彼の肩を持ってもいいことはない。

「山崎さん! 母もこう言ってることですし、是非! お願いします! ほら、ゴラくんも!」

 訳の分からぬまま私に促され、ゴラくんも「お願いします」と頭を下げた。こうなっては、もう逃げられまい。案の定、山崎さんは観念した様に溜息を吐くと、こくんと頷いた。



 山崎さんは、ゴラくんにきっちりと教えた。途中、自慰の話に差し掛かるとさすがに気不味そうにされ、私は夜ご飯の仕込みをする為に台所へと逃げる。ちなみに母は嬉々として残り、山崎さんが顔を真っ赤にしながらも仕方ないなあという優しい微笑みを浮かべていたので、母は山崎さんに愛されてるなあと嬉しく思った。

 私にもいつか、そんな笑みを私に傾けてくれる相手は出来るのだろうか。これまでは、そんな期待を抱いてはいけないとすら感じていた私に生じた、僅かながらの心境の変化。相手に嫌な顔をされるくらいなら一人がいいという凝った心を溶かしてくれたのは、無垢な心を持つゴラくんと過ごす楽しい毎日だった。

 やっぱり、一人は寂しい。その気持ちが、ゴラくんと過ごす内に段々と湧いてきたのだ。

「ずっと一緒に過ごせる人か……」

 一瞬ゴラくんの顔が脳裏に浮かんだけど、彼はまだ世間を知らない。私一人が外を知る状態で、いつまでもここに留め置いていい訳はない。後に外の世界を知ってから、ここでの生活がかなり閉塞的であると感じる可能性は十分にあった。ゴラくんはまだ孵ったばかりの雛で、私は巣立ちのその日まで面倒を見る親代わりだ。そこを履き違えてはいけない。

 たとえゴラくんが、今は私の隣でいつまでも待ちながらにこにことしてくれていようとも。

 初雪はどんどん降り積り、今や外は一面の銀世界だ。これは運転をさせては危ないな、と泊まっていくことを提案しようと思いつく。

 理由は単純だ。ゴラくんにキスをされたことで、今夜もいつもの様に二人で布団を並べて寝たら、大人の常識がまだ十分に分かっていないゴラくんがどういう行動に出るか分かったものではないからだ。
 そろそろ親離れの時期に来ているのかもしれない――。

 ゴラくんが根から解放されてひと月もの間、ゴラくんにあれこれと教えてきた。だけどそろそろ、総仕上げの段階に進むべきだろうか。幸い、今日は明るい笑顔で恐らくは人よりも多くのものを呑み込んで生きてきた母がいる。

 母に、尋ねたかった。親離れはいつからしたらいいのかと。私の選択は正しいのかと。

 トン、トン、と味噌汁用の大根を刻んでいると、居間の方からドッという賑やかな笑い声が聞こえてきた。何だか楽しそうだ。ゴラくんが面白い質問でもしたのかもしれない。そう考えて口の端を上げたけど、すぐに下がった。

 何を話してるの、楽しそうだね。そう笑顔で居間に行けば、仲間に入れることは分かる。だけど、私にはそれが出来ないのだ。出来たら、こんなに人間関係に苦労していない。親類以外では、ゴラくんにしか自然体で話すことが出来ていない自覚はあった。

 今回は、自然体で話せる相手しかいない。それでも、私がいない場に入るのには抵抗がある。

 はあ、と小さな溜息を一つ吐く。覇気がある明るい女性だったら、どんなにかよかっただろう。人生の謳歌とは程遠い、隠居の様な生活。本の中に広がる世界で一緒に旅をしている気分になっても、所詮私は背後から覗き見している立場に過ぎない。

 私に合う相手を求めるばかりでは駄目だと、人は繰り返し言った。そんなこと、私にだって分かっている。歩み寄れ、譲歩しろ、妥協して。

 ――結局、私には無理なのだ。勝手に感じる疎外感は、自分の気の持ちようなのも分かっている。だけど、出来ないのだ。何故心がこんなにも拘るのか、誰か知っていたらむしろ教えて欲しい。私は外の世界が羨ましい、だけどここから出ては駄目だ駄目だと心が叫ぶから。

 守れ、気を許すな、待ち続けろと。

 はあ、ともう何度目かも忘れた溜息が出ると、頭をぶるぶると振って気を取り直し、仕込みを続けることにした。

「――美空」
「はっ」

 作業に没頭していた私に声を掛けたのは、ゴラくんだった。ほっと安心したけど、ゴラくんは案外人の心の動きに敏感だ。弱音を吐いては駄目だ、察してしまう。根拠のないこの不安な気持ちの所為で、ゴラくんを心配させてはならない。

「美空?」

 私が大した反応を返さなかったからだろう、ゴラくんが不安そうな声色で問う。ああ、違う。そういうつもりじゃない。そうは思っても、やはり私の口は言葉を紡いではくれなかった。

「美空、何か怒ってる?」

 ゴラくんが、背後から肩越しに顔を覗かせる。

「お……怒ってないよ! 怒る訳がないでしょ?」
「疲れちゃった?」
「うん……そうかもね」

 色んなことがあった一日だったから、疲れてないと言えば嘘になる。何とか笑みを浮かべると、ゴラくんがこれまでとは違って柔らかく背後から包んできた。

 ――だけど、これは駄目だ。可愛くて愛おしくてこれまではつい流されてしまったけど、山崎さんから説明を聞いたのなら、もう言い聞かせれば分かるだろう。

 そっと、ゴラくんの手を外す。

「ゴラくん。こういうのは、好きな人にやるものなんだよ」
「美空?」
「そろそろ、町にも行ってみようか。町にも世界にもね、女の子はいっぱいいるんだよ」

 美空? そう問う呟きが耳の傍でするけど、私はどうしたら理解してくれるのかと必死で考えていた。

 私はここにいる。ずっとこの先もここにいる。だから私など見限って、自由に羽ばたいてほしいかった。

「美空、僕は美空がいい」

 いつものゴラくんの言葉は、事情を知らない女性が聞いたら本気にしてしまう様なものばかりだ。だから、勘違いしてはいけない。

「あ、お酒飲みますかって聞いてきてもらえる?」

 にこ、と笑いかけると、ゴラくんは一瞬寂しそうな表情を浮かべる。肩を落としてすごすごと反対を向くと、言われた通りに聞きに戻った。
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