其の匂い、芳しく【完結】

ミドリ

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16 寅之助の気持ち

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 咲が町役場の建物内に入ってから、十分が経過した。入り口には注意していたが、咲以外に出たり入ったりした人物はおらず、中はほぼ無人だと思われる。

「あの、咲さんが遅いのでちょっと見てきます」

 寅之助が立ち上がろうとすると、浴衣の袖を秦野がグイッと引っ張った。

「女の子ってのは支度がかかるものなんだよ! 待っててあげなよ! さあもう一杯!」

 そうと言われてしまえば、着慣れない浴衣であるしその可能性は高い。渋々座ると、秦野が酒臭い息を吐きながら寅之助の肩に腕を乗せた。

「それにしてもさあ、咲ちゃんて思い切ったところがあるよなあ」
「……そうですか?」

 話が咲のことになり、俄然興味が湧く。

「さっきさあ、例の従兄弟だって嘘ついた人が咲ちゃんを訪ねて来てね、聞けば実は元彼だって言うじゃない!」
「え……?」

 自分の耳を疑った。この場に来たのか。いつだ。スン、と匂いを嗅ぐが、あの臭い煙草の香りはしない。

「いやあ、何でも咲ちゃんを怒らせて出て行かれちゃって、反省したから連れ戻しに来たって! 社長さんらしいのに、それを袖に振るなんて咲ちゃんも大胆だよねえ。しかもこんなど田舎に来る? 普通さあ」
「秦野さん! そいつに何て言ったんです!」

 物凄い剣幕で虎之助が詰め寄ると、秦野がタジタジになって肩に乗せた腕をどける。

「や、その、虎之助くんとそういう関係だって知らなかったから、さっき山口さんが咲ちゃんもその内顔を出すって言ってたし、ここら辺にいれば会えるんじゃないって……」
「それ、いつの話です!」
「さ、三十分前、くらいです……」

 虎之助は勢いよく立ち上がると、裾が乱れるのも気にせず全速力で建物内に飛び込んで行った。

「咲さん!」

 スン、と再び嗅ぐ。咲の特徴的な甘い香りが、トイレがある方からした。それと同時に、消臭剤で誤魔化そうとし、誤魔化し切れていないガラムの臭いも。

 女子トイレの前に行くと、ドアは開けっ放しになっていた。電気は点けっ放しだが誰もいない。節約家の咲は、皆にも使ってない時は電気を小まめに消す様に言っていたのに。

「咲さん!」

 焦燥感に襲われながら、再び鼻に神経を集中する。すると、非常口に繋がっている方向から、咲と煙草の残り香がした。

「――!」

 非常口の鍵は開いていた。誰かが開けて出て行ったのだ。急ぎ敷地の裏に駆け出ると、全神経を集中する。感じ取れる咲の恐怖の匂い、煙草の臭いにガソリンの臭い。

 足を二人が向かった方向へと向けると、ドアの前に下駄を揃えて脱ぐ。

 咲は、初めはかなり警戒していた。誰にも心を許すまいと心に決めている様なその姿がまるで一匹狼の様で、ひと目で虜になった。

 作った様な笑いしか見せてもらえず寂しく思ったが、毎日一緒に過ごしている内に、少しずつ警戒を解いてくれる様になった。恐らくは、自分から強烈に発せられている咲を前にすると出てしまう匂いも一役買ってくれていたに違いない。

 現に、虎之助の家にいる時に、咲ははっきりといい匂いだと口にしている。

 いい匂いだと思ってくれている、そのことが、虎之助に勇気を与えてくれた。女性の額にキスをするなど、これまでの自分からしたらあり得なさ過ぎる行動だったが、咲ならきっと大丈夫、そう思えたのだ。

 浴衣の帯を解き、浴衣を脱いで下駄の上に畳む。ボクサーブリーフ一枚の姿になると、ふうー、と長い息を吐いた。随分と久しぶりだが、出来る。きっと大丈夫だ。

 やっと、ようやく咲の心からの笑顔が見られたばかりだったというのに、急がねば咲の笑顔が奪われてしまう。
 自分の役目は、咲の笑顔を守り続けることだ。

 虎之助は、熱が残るアスファルトに一歩足を踏み出し、咲を思う。

「咲さん――!」

 足から黒々とした毛が浮き上がってきた。虎之助は、無我夢中で走り出す。

 やっと見つけた、ただ一人守りたい相手の元へと。
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