其の匂い、芳しく【完結】

ミドリ

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10 火の用心の山

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 翌朝、支度を終えた寅之助が迎えに来ると、寅之助の運転する軽トラで火の見櫓のある山頂へと向かった。

 それは道と呼んでもいいのかと思うくらいに荒れた道だったが、寅之助は臆することなく落ち葉だらけの細い山道を登って行く。その悪路に身体をガクガク言わせながら広い平坦な空間に辿り着くと、寅之助がフラフラする私に手を差し伸べてくれた。

「この先、道が悪いので」
「は、はい」

 今日の寅之助は、眼鏡は掛けているが、前髪は上げている。外で寅之助の目が隠れていないのを見るのは、これが初めてだった。

 二人で他愛もない話をしながら、山道をゆっくりと散策する様に登って行く。寅之助と繋ぐ手は時折汗で滑ったが、滑る度に寅之助がぎゅっと握り返してくれた。その所為で、もうすぐ三十路の私の心臓は、十代の初恋の頃の様に早鐘を打ち続けていた。

 三十分ほど歩いただろうか。もうすぐですよと寅之助に励まされながら進むと、目の前には背の高い赤のペンキがあちこち剥げかかっている鉄塔があった。その上部には、大きなメガホンの様なスピーカーが括り付けられている。

「景色、綺麗ですよ。足許に気を付けて」
「はい」

 誰もろくに整備などしていないのだろうと思われる落ち葉だらけの地面を掻き分ける様にして鉄塔の横まで進むと、山の木々の葉の隙間から、こじんまりとしたあの町が一望出来た。あそこは商店街、あそこは町役場、と二人で繋いでいない方の手で指差しながら、その景色を楽しむ。小さな町は山に囲まれ、雪が積もったら真っ白に埋もれてしまうのではないかと少しだけ不安になった。

 壮大な景色に呑まれかかっていた私の手を寅之助がきゅっと握り締め、現実に引き戻される。

「咲さん。お昼、蕎麦なんてどうです?」
「はい、是非」

 お互いに微笑み合うと、私達はのんびりと車を置いた場所まで戻ることにした。

「ああ、靴が汚れちゃいましたね」

 スニーカーの半分が泥だらけになっている。これで蕎麦屋に行くのは拙いだろうという話になり、一旦家へと戻ることにした。

「じゃあ、着替えたらすぐにお迎えに上がりますので」
「はい、ありがとうございます」

 軽トラを降りて隣の自宅へ向かおうとすると、ツン、と不快な臭いが鼻に付く。運転席側から降りた寅之助もこの臭いに気付いたのか、不審げに顔を歪めた。急ぎ私の前まで回って来ると、私を背に庇う様にして立ち、辺りを警戒する仕草をする。その広い背中を見ただけで、寅之助の神経が張り詰めているのが分かった。

「……手を」
「は、はい」

 こんなにものどかで平和な田舎町なのに、何故こんなにも緊張しなければならないのか。それが自分がもたらしたものであることが、罪悪感を湧き起こらせた。

 寅之助に手を引かれながら、自宅の玄関へと進む。臭いは、明らかに私の家の方から漂っていた。辺りを見回すが、怪しい人影はない様だ。家の敷地に入り、玄関の方を見てみると。

「――ひっ」
「これは……!」

 玄関の軒下のコンクリート部分に、何本もの煙草の吸い殻が落ちていた。数えると、五本ある。少なくとも五本吸う間、誰かが家の前にいたということだ。

「……僕が片付けますから、咲さんは一旦中へ」
「は、はい……」

 どうして、何で今更。混乱で叫びたくなる気持ちを必死で抑え、家の鍵を開けて中に飛び込んだ。

 鼻に残る、不快で特徴的な臭いの煙草。あれの銘柄は、ガラムだ。

 ガラムは、春樹が好んで吸っていた煙草だった。

「おえ……っ」

 吐き気を催すその香りと状況に、私は急ぎトイレへと駆け込んで行った。
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