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3.満月宮にて(原因)
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話は数ヶ月前に遡る。
竜帝の座す宮殿は、「玉月宮」と呼ばれており、「新月の庭」「半月の庭」「下弦の庭」「上弦の庭」という四つの庭園にそれぞれ離宮を配し、中央にある満月宮と回廊で結ばれている。唯一の王子であるハリエルが住まいとするのは、「新月の庭」とその離宮だ。
現竜帝シグヴァルは、宮殿を飾り立てることに興味を持つような性質ではない。もっとも、竜らしく財宝を溜め込むのは大好きで、彼が座す満月宮の地下には膨大な金銀財宝を擁する地下宮が存在するのだが。手に入れた宝を見せびらかすのは、シグヴァルの好みに反するところらしい。
現在、竜帝には妃がない。王子であるハリエルはその人目を惹く美貌にも関わらず、引っ込み思案と病弱で知られている。つまり、絢爛豪華な宮廷生活に興味を示す者は、どこにもいない。その結果として、玉月宮は悪く言えば巨大な役所、良く言えば質実剛健な古建築と化していた。
配されている女官も少なく、文官たちがそれぞれの仕事場に引き篭もってしまうと、人影もごくまばらになる。
だからその日も、ハリエルはこっそりと一人稽古をするため、愛用の剣を片手に居室から出たのだが。
(おや、珍しい)
明るい光の降り注ぐ中庭の片隅で、若い女官たちが数人、集まってきゃあきゃあと話に興じているようだ。
(邪魔をしないようにしよう)
迂回路を取ろうと、頭を巡らせかけた瞬間、甲高い声が耳に届いた。
「全く、あの人は……よねえ」
「そうね!」
「本当に……」
聞き覚えのある声だ。そして、格別、覚えておきたい声ではなかった。
二ヶ月前、彼女の寝所に忍んできて、「お情けを」とか何とか、長々と言い募り、なかなか帰ってくれなかった女官の声だ。表沙汰にするのは可哀想だと、ハリエルは不問のままに流したのだが、かといって、それで相手が感謝してくれたとは思っていない。
間違いなく、逆恨みされているだろう。
「本当にあの竜帝陛下の子なのかしら。竜に変化したこともないんでしょう?」
「知らないの? 亡くなったお妃様は、そりゃあもう……アレな人だったって噂よ」
「アレって何よ?」
「それ、私も聞いたわ。とっかえひっかえ、卑しい身分の男を引き入れていたんだって。だからあんな、弱々しい息子が生まれるのよ。竜帝陛下の血が混ざっていたら、あんな無様な王子サマなんて生まれてないでしょう」
「お情けで生かされてるんだって、うちの親も言ってたわ」
(うわあ……)
ハリエルは一瞬、動揺して動きを止めてしまった。
動揺したのは、その話が限りなく真実に近かったからだ。含まれている嘲りの棘は胸に突き刺さったが、それよりも、
(皆、知っているのか)
それを思うと、全身の血が引く思いがした。
ハリエルを産んだ女性は、かなり離れた国の王女だ。二十年前、政略の駒として竜帝に嫁がされた。王女も不本意だったが、竜帝も不本意だったらしい。豪奢な結婚式こそ挙げられたものの、竜帝は一度も妃を抱かなかった。そんな赤裸々なことを、なぜハリエルが知っているかというと、母に付いて他国からやってきた侍女が、微に入り細を穿ち、とにかく事細かな記録を残していったからだ。
母も手記を遺していた。一回目を通しただけで、人目に付くことを恐れて燃やしてしまったが、まだ十代の少年のような夫に嫁がされたこと、その容貌に似合わぬ傲慢不遜な態度がとにかく気に入らなかったらしく、ひたすらに罵詈雑言が書き連ねられていた。思い出すたび、ハリエルは眉間に深い皺を寄せてしまう。
そして、ハリエルが生まれた。母が囲っていた愛人のうち、どの男がハリエルの父だったのか、ハリエルには分からない。母も侍女も分かっていなかったらしいのだから、どうしようもない。
(……父上は、実の子ではないと知っておられたはずだが)
父は何も言わない。ハリエルに対する僅かな不信すら、抱いていないように見える。
もっとも、妃が死ぬまで、ハリエルについて周囲に一言も洩らさなかったのは、無関心ゆえだろう。彼は、母の住む離宮に足を運ぶことさえなかったのだから。だが、ハリエルが三つの時に母は亡くなり、偽物の父と子は顔を合わせた。それ以来、竜帝は全面的にハリエルを保護下に置いている。偽物にはあり得ないほどの情愛を注ぎ、せっせと甘やかす。そして、周囲にもそれを知らしめている。
だから、ハリエルは安心して、父上に寄り掛かっていいはずなのだ。
打ち明けるべきだ。自分が決して竜にはなれないこと。母が、自分の保身のために、王子を産んだと嘘をついたこと。自分が偽物の王子で、ここにいる資格などないのだと。
(……嫌だ)
父は怒らないかもしれない。だが、彼女をここに留めておく理由もまた、ないのだ。
竜帝の座す宮殿は、「玉月宮」と呼ばれており、「新月の庭」「半月の庭」「下弦の庭」「上弦の庭」という四つの庭園にそれぞれ離宮を配し、中央にある満月宮と回廊で結ばれている。唯一の王子であるハリエルが住まいとするのは、「新月の庭」とその離宮だ。
現竜帝シグヴァルは、宮殿を飾り立てることに興味を持つような性質ではない。もっとも、竜らしく財宝を溜め込むのは大好きで、彼が座す満月宮の地下には膨大な金銀財宝を擁する地下宮が存在するのだが。手に入れた宝を見せびらかすのは、シグヴァルの好みに反するところらしい。
現在、竜帝には妃がない。王子であるハリエルはその人目を惹く美貌にも関わらず、引っ込み思案と病弱で知られている。つまり、絢爛豪華な宮廷生活に興味を示す者は、どこにもいない。その結果として、玉月宮は悪く言えば巨大な役所、良く言えば質実剛健な古建築と化していた。
配されている女官も少なく、文官たちがそれぞれの仕事場に引き篭もってしまうと、人影もごくまばらになる。
だからその日も、ハリエルはこっそりと一人稽古をするため、愛用の剣を片手に居室から出たのだが。
(おや、珍しい)
明るい光の降り注ぐ中庭の片隅で、若い女官たちが数人、集まってきゃあきゃあと話に興じているようだ。
(邪魔をしないようにしよう)
迂回路を取ろうと、頭を巡らせかけた瞬間、甲高い声が耳に届いた。
「全く、あの人は……よねえ」
「そうね!」
「本当に……」
聞き覚えのある声だ。そして、格別、覚えておきたい声ではなかった。
二ヶ月前、彼女の寝所に忍んできて、「お情けを」とか何とか、長々と言い募り、なかなか帰ってくれなかった女官の声だ。表沙汰にするのは可哀想だと、ハリエルは不問のままに流したのだが、かといって、それで相手が感謝してくれたとは思っていない。
間違いなく、逆恨みされているだろう。
「本当にあの竜帝陛下の子なのかしら。竜に変化したこともないんでしょう?」
「知らないの? 亡くなったお妃様は、そりゃあもう……アレな人だったって噂よ」
「アレって何よ?」
「それ、私も聞いたわ。とっかえひっかえ、卑しい身分の男を引き入れていたんだって。だからあんな、弱々しい息子が生まれるのよ。竜帝陛下の血が混ざっていたら、あんな無様な王子サマなんて生まれてないでしょう」
「お情けで生かされてるんだって、うちの親も言ってたわ」
(うわあ……)
ハリエルは一瞬、動揺して動きを止めてしまった。
動揺したのは、その話が限りなく真実に近かったからだ。含まれている嘲りの棘は胸に突き刺さったが、それよりも、
(皆、知っているのか)
それを思うと、全身の血が引く思いがした。
ハリエルを産んだ女性は、かなり離れた国の王女だ。二十年前、政略の駒として竜帝に嫁がされた。王女も不本意だったが、竜帝も不本意だったらしい。豪奢な結婚式こそ挙げられたものの、竜帝は一度も妃を抱かなかった。そんな赤裸々なことを、なぜハリエルが知っているかというと、母に付いて他国からやってきた侍女が、微に入り細を穿ち、とにかく事細かな記録を残していったからだ。
母も手記を遺していた。一回目を通しただけで、人目に付くことを恐れて燃やしてしまったが、まだ十代の少年のような夫に嫁がされたこと、その容貌に似合わぬ傲慢不遜な態度がとにかく気に入らなかったらしく、ひたすらに罵詈雑言が書き連ねられていた。思い出すたび、ハリエルは眉間に深い皺を寄せてしまう。
そして、ハリエルが生まれた。母が囲っていた愛人のうち、どの男がハリエルの父だったのか、ハリエルには分からない。母も侍女も分かっていなかったらしいのだから、どうしようもない。
(……父上は、実の子ではないと知っておられたはずだが)
父は何も言わない。ハリエルに対する僅かな不信すら、抱いていないように見える。
もっとも、妃が死ぬまで、ハリエルについて周囲に一言も洩らさなかったのは、無関心ゆえだろう。彼は、母の住む離宮に足を運ぶことさえなかったのだから。だが、ハリエルが三つの時に母は亡くなり、偽物の父と子は顔を合わせた。それ以来、竜帝は全面的にハリエルを保護下に置いている。偽物にはあり得ないほどの情愛を注ぎ、せっせと甘やかす。そして、周囲にもそれを知らしめている。
だから、ハリエルは安心して、父上に寄り掛かっていいはずなのだ。
打ち明けるべきだ。自分が決して竜にはなれないこと。母が、自分の保身のために、王子を産んだと嘘をついたこと。自分が偽物の王子で、ここにいる資格などないのだと。
(……嫌だ)
父は怒らないかもしれない。だが、彼女をここに留めておく理由もまた、ないのだ。
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