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23.妻は妻だが悪役でもある

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「我が妻よ!」

 どすどすと重たい靴音を立てながら、両腕を広げてこちらに走ってくる肉だるまを見たとき、シェランはすっと膝を落として相手の懐に入ったタイミングで鳩尾に肘打ちを一撃、そのまま膝を伸ばして顎に肘を当てに行き、仰け反って浮いた足を払って地面に転倒させた。

 ドスン! と音を立てて大の字に伸びた男の顔に、尖ったヒールをグリグリと押し付けてから、

「……ん? 何だこの男は」

 シェランは怪訝な目で、しげしげと相手を見下ろした。

 過剰防衛と言うなかれ。シェランはその美貌ゆえに変態に狙われる確率も高く、自然と場数を踏む羽目になっているのである。世に変態が多すぎるのがいけない。真っ向から目潰しを食らわせなかっただけ、感謝して欲しいものだ。

「ボス?」
「ボス? どうしたんですの」

 玄関先で大きな物音が生じたせいか、聞きつけてやってきた部下たちがひょっこりと顔を出す。

「ん。俺にも分からん」

 気絶している男の顔に、見覚えがあるかというと、あるのだが……

(嘘だろ。こんな筋肉だるまじゃなかったぞ)

 シェランは基本的に、一度見た人間の顔は忘れない。生き残るためにインプットした処世術だ。まばらに髭が生えてはいるが、かつては貴族らしく丸みを帯びていたであろう顎、「我が妻」という台詞、この騒動で取り落とされて地面でくしゃっとなっている薔薇の花束、そうした情報を照らし合わせると──シェランにとっては都合の悪すぎる結論が出てしまう。

「……まさか、トレンマーダ男爵?」

 蟹漁船で一体何が起きたというのか。







「あの日、たった一度だけ会った我が妻のことを、私は一時も忘れたことが無かった。妻への愛を胸に生き抜き、荒波と戦い、殺人ガニと渡り合い、気が付けばこのようなムッキムキの体躯となっていたのだ」
「へえ……」

 そいつはすげえな。

 男爵家の食卓にどっかりと座り込んで、暑苦しく喋りまくる男を引いた目で眺めながら、シェランは少しだけ感心していた。

 この国の蟹漁船は本当に恐ろしいところなのだ。その非人道的な労働環境が「あゝ蟹漁船」という書名の本となってよく売れているだけではなく、それ以上に恐ろしいのは常に襲い来る殺人ガニとの戦いだ。その凶悪さとハサミの鋭さは、殺人ガニと四十年戦い抜いたとある男の手記「老人と蟹」によって広く世に知られており……というのはさて置くとしても、ともかく、一介の(?)男爵如きが生き残れる場所ではないのである。

「ああ、こうして再び貴女と巡り会えた……貴女は変わらず美しい。夢にまで見た美貌、それ以上に素晴らしく甘い匂い……ハァッ、ハァッ」
「……」

 男爵にしてみれば、純愛の果てに後妻の元へ帰ってきた、涙を誘う素晴らしい物語、というところだろう。だが。

 シェランは全身の毛が逆立った。鳥肌がぷつぷつと立つ。

 粘っこい目でシェランを見てハアハアしているのが気持ち悪いだけではなく、

(……なんだこの男。実の娘が酷い目に合ってるのを知ってたくせに、その為に帰って来ようとは微塵も思わなかったのか。帰ってきて娘に声を掛けるでもなく完全無視で、美女に鼻息荒く迫るとか)

 シェランははっきりと、憎悪の目で男を見た。

 だが離婚しよう、とはならないのである。この男を蟹漁船に突っ込んだことで、エラは救われたし、シェランも男爵家を牛耳ることができた。要は適材適所だ。もう一回、今度は確実に戻って来られない場所に押し込んでおくべきだろう。蟹漁船より酷い所となると、少しばかり知恵を絞らねばならないが。

(「極海」で氷河石を掘り出す鉱山とかどうだ。行きはともかく、帰路は三十年に一度しか開かれないらしいからな)

 シェランは詐欺師なので、自分と家族のために男爵が酷い目にあっても痛む良心は無い。その家族の中に、今は守らねばならない娘もいる。躊躇う理由は皆無だ。


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