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後日談3 アンバー
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「アンバー」
棚の間を覗き込むと、向こうの窓からの光が、何かに当たってキラリと反射した。
私は目を瞬かせ、一瞬、その場でぴたりと尾を止めた。
石版に視線を落としていたアンバーが、気付いて顔を上げる。
「シアン。帰って来たのは知っていたが……お帰り」
落ち着いた声だった。
光を反射していたのは、彼が顔に掛けている眼鏡の金属部分だ。人魚にしてはとても珍しいことに、彼は眼鏡を掛けている。人間たちの世界に行って、片眼鏡やら鼻眼鏡やら、人間は色々な眼鏡を掛けているものだと学んだけれど、以前はとても不思議なものに見えて、アンバーが眼鏡を外して置いたり、丁寧に磨いているのを見るたびに、好奇心をそそられてじっと眺めていたものだった。
今なら、眼鏡について色々尋ねることも出来るかもしれない。でも、今はそれどころではなくて、
「アンバー、その髪……」
人魚は大抵髪を長く伸ばしているけれど、アンバーはそれを首の後ろでまとめて流していた。その大部分が、無い。銀というより灰色の、どこか無機的な印象を与える髪がざっくりと切られて、残された髪が顎の辺りで揺れている。
アンバーが私の眼を見た。全く動じない表情で言う。
「君の姉君がたと協力して、魔女への供物とした。人魚の魔力は髪に多く含まれるそうでね」
「貴方も?!」
驚いた。
アンバーとは顔見知りだけれど、私のために髪を切ってくれるほどの仲だとは思っていなかった。
アンバーは肩を竦め、
「大したことじゃない。あの船の上から再びこちらに帰ってくるのは、君の決断無しでは成し得なかったことだ。まずは無事の帰還、おめでとう。それで、早速、二、三聞きたいことがあるのだが」
「聞きたいこと?」
「本というものについてだ。人間たちは、どのように本を……」
そこから、矢継ぎ早に質問が飛んできた。
紙の作り方、インクについて、船の動力源、火薬というもの、国の歴史、王の役割から酒の製法についてまで、とにかく根掘り葉掘り聞かれた。答えられないことも多かったけれど、途中から「私が知っていることをとにかく何でも話す」という方式に切り替えてからは、話すことは幾らでもあった。
「面白い。懐中時計とはそのような役割を果たすものなのだな。長年の疑問が解けた」
頬杖をついて、たまに頷きながら、アンバーは真剣な顔で聞き入っていた。
話し始めてからというもの、一度も私から目を逸らさない。琥珀と言っても、様々な色があるけれど(夕焼けの色とか、煮詰めた糖蜜の色とか、浅い海の青とか)、彼の目は陽に透かした緑藻のような碧だった。
肌は白く、骨張って痩せた顔をしていて、私より十は年かさに見えるけれど、実際は五つぐらいしか離れていないはずだ。自由に図書館に出入りできるぐらいだから、それなりに身分の高い生まれだったはずなのだけれど、私は興味なかったので思い出せない。今は、その……改めて、彼に興味が湧いてきているところなのだけれど、今更聞けない。家名は何だったっけ? なんて。
(アンバーなんて、珍しくもない名前だし)
シアンだってそうだ。同年代に十人はいるんじゃないかと思うぐらい、ありふれた名前だったりする(そもそも人魚は、名前のバリエーションが少なすぎるのだ)。
そんなことを考えながら、アンバーがカリカリと棒芯で石版に文字を刻んでいくのを眺めていた。私が地上で経験したことが、こうして記録に残されて保管されるのだと思うと、
「……ねえ、アンバー。私は馬鹿なことをしてきたと思わない?」
「人間の王子に一目惚れ? ナイフ一本で力に勝る男と渡り合い、勝利し? 復讐と愛憎の冒険活劇?」
アンバーは文字を刻む手を止めて、にやりと笑い、
「いや、これで君が死んでいたら、後味が悪いだけの悲話だっただろうが。異国情緒も相まって、とても面白い。人魚の子供たちが集まって、毎日続きをせがむお伽噺になるだろう」
「そうなる?」
「なるだろう」
「私は……馬鹿な真似をしたとしか、今は思えなくて」
「……」
私が震え声で言うと、アンバーは一瞬考え込む表情になって、くるりと棒芯を回した。
「……ここにあるのは、全て愚行の記録だよ、シアン」
周囲を取り囲む石版の棚を指して言う。
「生きているものは皆、光るものには逆らえないように出来ている。皆、愚行をおかすように作られているんだ。それが歴史だ。そこから学ぶか、学ばないか、知恵として引き継がれるかはさておき」
どちらかというと硬質な声なのだけれど、無意識に含まれた優しさを感じた。
「死ななければいいんだ。死んでも貫きたい何かがあるのならそれでいい、という見方もあるかもしれないが……君が死んでいたら、誰も納得しなかっただろう。君の祖母上も、姉君たちも、悲しみのあまり死んでいたかもしれない。君は海の泡となって溶けて、海底には無数の墓標が並んだかもしれない。そんな結末は誰も望まない。愚かでも、間違っていたとしても、生き残った君の勝利だ。それは私たちの勝利でもあるんだよ」
「私たちの勝利?」
「君を、人魚として連れ戻せたのだから、私たちの勝利だ」
棚の間を覗き込むと、向こうの窓からの光が、何かに当たってキラリと反射した。
私は目を瞬かせ、一瞬、その場でぴたりと尾を止めた。
石版に視線を落としていたアンバーが、気付いて顔を上げる。
「シアン。帰って来たのは知っていたが……お帰り」
落ち着いた声だった。
光を反射していたのは、彼が顔に掛けている眼鏡の金属部分だ。人魚にしてはとても珍しいことに、彼は眼鏡を掛けている。人間たちの世界に行って、片眼鏡やら鼻眼鏡やら、人間は色々な眼鏡を掛けているものだと学んだけれど、以前はとても不思議なものに見えて、アンバーが眼鏡を外して置いたり、丁寧に磨いているのを見るたびに、好奇心をそそられてじっと眺めていたものだった。
今なら、眼鏡について色々尋ねることも出来るかもしれない。でも、今はそれどころではなくて、
「アンバー、その髪……」
人魚は大抵髪を長く伸ばしているけれど、アンバーはそれを首の後ろでまとめて流していた。その大部分が、無い。銀というより灰色の、どこか無機的な印象を与える髪がざっくりと切られて、残された髪が顎の辺りで揺れている。
アンバーが私の眼を見た。全く動じない表情で言う。
「君の姉君がたと協力して、魔女への供物とした。人魚の魔力は髪に多く含まれるそうでね」
「貴方も?!」
驚いた。
アンバーとは顔見知りだけれど、私のために髪を切ってくれるほどの仲だとは思っていなかった。
アンバーは肩を竦め、
「大したことじゃない。あの船の上から再びこちらに帰ってくるのは、君の決断無しでは成し得なかったことだ。まずは無事の帰還、おめでとう。それで、早速、二、三聞きたいことがあるのだが」
「聞きたいこと?」
「本というものについてだ。人間たちは、どのように本を……」
そこから、矢継ぎ早に質問が飛んできた。
紙の作り方、インクについて、船の動力源、火薬というもの、国の歴史、王の役割から酒の製法についてまで、とにかく根掘り葉掘り聞かれた。答えられないことも多かったけれど、途中から「私が知っていることをとにかく何でも話す」という方式に切り替えてからは、話すことは幾らでもあった。
「面白い。懐中時計とはそのような役割を果たすものなのだな。長年の疑問が解けた」
頬杖をついて、たまに頷きながら、アンバーは真剣な顔で聞き入っていた。
話し始めてからというもの、一度も私から目を逸らさない。琥珀と言っても、様々な色があるけれど(夕焼けの色とか、煮詰めた糖蜜の色とか、浅い海の青とか)、彼の目は陽に透かした緑藻のような碧だった。
肌は白く、骨張って痩せた顔をしていて、私より十は年かさに見えるけれど、実際は五つぐらいしか離れていないはずだ。自由に図書館に出入りできるぐらいだから、それなりに身分の高い生まれだったはずなのだけれど、私は興味なかったので思い出せない。今は、その……改めて、彼に興味が湧いてきているところなのだけれど、今更聞けない。家名は何だったっけ? なんて。
(アンバーなんて、珍しくもない名前だし)
シアンだってそうだ。同年代に十人はいるんじゃないかと思うぐらい、ありふれた名前だったりする(そもそも人魚は、名前のバリエーションが少なすぎるのだ)。
そんなことを考えながら、アンバーがカリカリと棒芯で石版に文字を刻んでいくのを眺めていた。私が地上で経験したことが、こうして記録に残されて保管されるのだと思うと、
「……ねえ、アンバー。私は馬鹿なことをしてきたと思わない?」
「人間の王子に一目惚れ? ナイフ一本で力に勝る男と渡り合い、勝利し? 復讐と愛憎の冒険活劇?」
アンバーは文字を刻む手を止めて、にやりと笑い、
「いや、これで君が死んでいたら、後味が悪いだけの悲話だっただろうが。異国情緒も相まって、とても面白い。人魚の子供たちが集まって、毎日続きをせがむお伽噺になるだろう」
「そうなる?」
「なるだろう」
「私は……馬鹿な真似をしたとしか、今は思えなくて」
「……」
私が震え声で言うと、アンバーは一瞬考え込む表情になって、くるりと棒芯を回した。
「……ここにあるのは、全て愚行の記録だよ、シアン」
周囲を取り囲む石版の棚を指して言う。
「生きているものは皆、光るものには逆らえないように出来ている。皆、愚行をおかすように作られているんだ。それが歴史だ。そこから学ぶか、学ばないか、知恵として引き継がれるかはさておき」
どちらかというと硬質な声なのだけれど、無意識に含まれた優しさを感じた。
「死ななければいいんだ。死んでも貫きたい何かがあるのならそれでいい、という見方もあるかもしれないが……君が死んでいたら、誰も納得しなかっただろう。君の祖母上も、姉君たちも、悲しみのあまり死んでいたかもしれない。君は海の泡となって溶けて、海底には無数の墓標が並んだかもしれない。そんな結末は誰も望まない。愚かでも、間違っていたとしても、生き残った君の勝利だ。それは私たちの勝利でもあるんだよ」
「私たちの勝利?」
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