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15.日没前

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 正直に言ってしまえば。

 私たちの間に微妙な空気が流れていたのは確かだけれど、お兄様が私の寝室を訪れなくなった理由は他にも色々あって。

 あれから、お兄様はいきなり忙しくなった。当然、私はあまり構ってもらえずにいる。それはもう、ハンカチを噛んで寂しがるべきところなのだけれど、

(色々あって良かった……)

 私はちょっとだけほっとしていた。

 何事にも猶予というものは大切だ。
 特に、思い出すと羞恥やら何やら感情でいっぱいになって、布団の上でごろんごろんしたくなってしまう状態の今の私にとっては。

 とは言え、

「人間界からの侵攻?」

(なんて不穏な展開……それにシリアス……)

 私が人間界を出た頃は、特別に切迫した状況というわけでは無かった。魔族の勢力は伸長していたけれど、対抗して大々的に兵を集めるでもなく、人間界はそこそこの安定、そこそこの不穏、というある意味普通の日常を謳歌していた。魔道士たちものんびりと好き勝手ばかりしていて、私が魔界に行くと告げても、誰からも引き止められなかったぐらいだ。それが、なぜ。

「うーん、たまに攻めてくることはあっても、最近はずっと小競り合いみたいなものだったんですけどね」

 クンケル君のほのぼのとした犬顔に、困ったような表情が浮かんでいる。

「今回は一桁多い人数でやって来てるみたいです。何でも、勇者を返せって言ってるとか」
「勇者!」

 私にとっては恐怖の対象だった勇者。……そういえば、とっくに過去の人になっていた。ぶっちゃけ気持ち良く存在を忘れていた。

 そのまま忘れていられれば良かったのに。

地下牢ダンジョンに繋がれてるんだったっけ?」
「そうみたいですけど。魔王様も、言われるまで存在を忘れてたみたいですね。面倒だからすぐに人間の元へ返そうってことになったんですけど、勇者自身が帰りたくないって言ってるとか」
「えっ」

 何そのフラグ。恐ろしすぎない?

 恐怖の再燃に慄く私に向かって、クンケル君はこてっと首を傾げ、

「まあ、そっちはどうでもいいんですけど。魔界の中で暴れてる連中がいて、そっちと同時に相手をしなくちゃいけないみたいで、魔王様は結構お忙しそうです」
「そうなんだ……」

 しばらくお兄様には会えないかもしれない。

 私はしゅんとしてしまったらしい。さっきまでお兄様と顔を合わせなくて済んで良かったと思っていたのに、実際に会えないとなると凹む。情緒不安定かな?

 クンケル君が私の手の甲をぽんぽんと叩いた。

「お散歩でも行ってきたらどうですか。今なら、魔王様も大分力を取り戻されたみたいですし、城の周りを歩き回るぐらいは大丈夫だと思いますよ。気晴らしも大事です!」

 ふにゃっと笑いかけてくる。澄んだ黒い眼差し。ふわふわの癒し。ああ、クンケル君好き。

「そうだね、ちょっと歩いてこようかな」
「護衛を連れてって下さいね」

 護衛。

 そう、少し前から、私には護衛が付けられていたのだった。それも二人……というか、二体。







「バ、バニーズ、こんにちは。いや、今だとこんばんは、かな……」

 私のぎこちない挨拶に対して、護衛たちは微動だにせず直立することで応えた(注:応えてない)。

 縮尺を間違ったかのように細長い、背の高い姿だ。少し緑がかった薄い体色。尖った逆三角形の小さな顔。細く絞られた腰。とても長くて直線的な手足。何より、頭頂部からピンと伸びた二本の耳。

 胸らしき盛り上がりはあるので女性だと思うんだけど、顔の上半分は黒い布のようなもので覆われていて造作は分からない。印象としては……やたら長い兎耳の生えたカマキリ。

「……」
「……」
「……」

 魔王城の裏手、暗く影が傾いた庭園の中で、痩せた亡霊のように浮かび上がる二体。それと対面で向かい合う私。

(この二人、喋らないのかな……?)

 言葉を発するのを見たことがない。

 最初の出会いからして、ある意味とても印象的だった。部屋から出ようとして扉を開けたら、暗がりに微動だにしない痩せた彫像みたいなのが立っていたのだ。怖い。生き物とも思えなくて、ぞっと怖気立おぞけだった。ピクリともしないくせに、私が余計な動きをしたら、ぜんまい仕掛けの人形のように襲い掛かってきそうな雰囲気がある。

 今のところ、それ以上の恐怖体験はない。いつでも、音も立てずに背後についてきているけれど、きっと守ってくれているんだと思う。クンケル君に聞いてみたら、「ああ……あれは強いですから」と言葉を濁されたけど、たぶん。

「……」

 とにかく、そのまま散歩を続行することにした。

(やっぱり、空気が濃い……)

 ふう、と濃厚な魔素と瘴気を吸い込んだ。

 庭園とは言っても、生えているのは有毒植物ばかり、ブクブクとどす黒い泡を吹く毒の沼地まで広がっている。魔王を倒しに来た勇者のパーティが引っかかって、地味にHPを削られそうな場所だ。

 振り向いて仰ぎ見ると、魔王城の威容が、暗く陰った空の中に聳え立って見えた。ずんぐりした戦艦が巨体を横たえているかのような無骨さだ。もっと暗くなると、一斉に燭灯が点されて、シャンデリアのように照り輝くのだけれど。

(人間界からの侵攻か……)

 今の私は、人間界に対するホームシックさえ感じていない。命の温かみなど感じない魔境だけれど、今は城に灯る光に幾許かの懐かしさと、温かみさえ感じ始めているぐらいで。

(どうなるか分からないけど。私はやっぱり、お兄様の側に立って戦いたい……)

 そう思った瞬間。しゅっと風を切って、何かが飛び過ぎた。

「?!」

 咄嗟に身を捩って躱す。そうしなかったら、今頃私の頬には一直線の傷痕が走っていただろう。

「……バニーズ?!」

 命令ではなく、疑問形だった。私が何か言うより早く、バニーズは走り始めていたので。

 走るというより、跳躍だ。飛び跳ね、細く長い腕の先端をしならせ、鎌のように尖らせて、現れた魔物に向かって飛び掛かっていく。

「シャー!」「シャ、シャー!」

 摩擦音? どこか機械じみた威嚇の声を立てながら、二体のバニーズは息の合った攻撃を繰り出していた。沼から這い出したようなどろりとした魔物が、飛沫を撒き散らしながら次々に倒れる。

(沢山いる)

 私は目を凝らした。

 魔物に囲まれている。視界は暗く、人間である私にとっては圧倒的に不利だ。守護魔法を展開しながら見回したけれど、蠢いている魔物たちはただ一塊の連なりにしか見えなかった。生臭い血の香りが風に乗って届いて、剥き出しの悪意がちりちりと私の皮膚の表面を粟立たせる。

 今、人間界の侵攻に備えて、全土から無数の魔物が集められてきているらしい。その中には無軌道で制御できず、人間がいるとなれば襲い掛かってくるものもいる……ということ?

(お兄様を呼ぶべき?)

 私は躊躇った。

 バニーズは強い。たっぷり水を得た魚みたいだ。流石にお兄様が私に付けてくれた護衛なだけあって、寄り集まる魔物たちをザクザクと切り裂いている。迷いのない、戦闘のために創り出された機械のような動きで。

(でも、お兄様を呼んだ方が絶対に早く終わる。だけど……)

 今、忙しくしているお兄様に負担を掛けていいの?

 見栄と言えば見栄だ。お兄様に悪く思われたくはない。でも、その躊躇いの隙を突いて、何か鋭利なものが空気を引き裂いて飛来した。私はハッと顔を歪めたけれど、動かなかった。なぜなら、私の眼前でカキン! と綺麗な音を立てて弾かれたから。

「あ……」

 代わりに宙を振り仰いで、口を半分開けて見つめた。

 辺りの夜気を濃厚に塗り替えていく強烈な魔力。

 闘いのために研ぎ澄まされた、そのために生まれたかのような存在。

 お兄様はやはり、戦場が似合う。すでに異形化し、闇が凝ったかのように鎧われた姿で舞い降りてきたお兄様は、滑らかに無機質な腕を伸ばし、私の周りに守護の結界を展開した。

「お兄様!」

 眩く暖かい光が足元から伸びて、私の身を包んだ。次の瞬間、パシャッ! と水を跳ね散らすように大気が引き裂かれて、魔物たちが弾け飛ぶ。

「愚かな。触れてはならぬ境界を越える、自己の本能でさえ役に立たぬ雑魚ならば死に絶えろ」

 低く掠れた声が告げる。

(わわ)

 お兄様に手間を掛けさせていること、守られていること、魔物たちに殺意を向けられたこと、他にも色々と考えるべきことはあったはずなのに。

 私は開いた口を閉ざすことも無く、お兄様の大きな影のような背中をひたすらに見つめた。

 私は本当に俗物で、オタクだ。結局、こんな時の私はただ一つ、たった一つの衝動的な想いしか考えられなくて──

(お兄様、魔王らしすぎてかっこ良すぎ……!)
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