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聖地にて

16.貴方は私の理想の当て馬じゃない

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 聖山なのに魔獣。

 その時点でおかしいと思ったのだが、聖なる場所は今ではこんな瓦礫の山だ。護りの結界があるとしても、もはやまともに機能していないのだろう。

(狼だ)

 王子に言われたとおり小屋に閉じこもって、息を殺しながら、私は壁の木材の隙間から外を覗いていた。

 暗がりの中、王子は焚き火の傍らに佇んでいる。
 それを囲むように、方々で遠吠えの声が響いた。

 一匹、二匹。五匹を越えたところで、動体視力が追いつかなくなったので数えるのをやめた。十匹ほどいるだろうか。犬とは比べ物にならないぐらい大きな獣で、あからさまな殺意を醸し出している。
 先頭にいる狼が、見たところ群れの統率者のようだ。夜目にもふんわりと輝いて見える銀の毛皮が神々しい。

(かっこいい)

 そんな場合ではないのだけれど、思わず思ってしまった。

(狼はかっこいいから仕方がないよね)

 そう、実のところ、私はあまり緊張していない。
 王子が抜剣していないからだ。油断のない目付きで周囲を見渡しているけれど、彼の背中はすっと伸びたまま、恐れや切迫感というものを感じていないのが分かる。ただ静かに立って待ち受けている。

 ふと、彼が外套の裾を巻き上げて腕に巻き付けた。と、それが合図になったかのように、悪夢のような大きな影が飛んだ。左右にいた黒毛の狼が大きく跳躍したのだ。

 返す動きは素早かった。片方の狼の腹に蹴りを叩き付けて吹き飛ばし、もう一方の狼の口に「ガッ」と布で強化した腕を噛ませる。そのままぐぐっと押し込まれ、後ろ足で直立させられて、狼が驚愕に目を開いたように見えた。

 「キャン」と鳴き声が聞こえ、鼻を打たれた狼が地に転がる。そこからは、舞踏のようだった。飛び出す玩具で遊んでいるようでもある。ぐるぐると円を描いて回り、叩き、吹き飛ばし、蹴りを入れる。一度だけ、鞘に収めたままの剣で叩いて飛ばすのが見えたが、最後まで剣は抜かなかった。

「キュウ……」

 狼たちが耳を垂らし、王子から距離を取る。

 リーダーの銀毛狼は、その場から動いていなかった。しばらく王子と視線を合わせていたが、「この場は益なし」と判断したようだ。私の想像だけれど。

 悠然と尾を振ると、くるりと向きを変えて歩み去っていった。配下の狼たちが、慌てたように後を追う。駆け去って、すぐに森の暗闇に溶けて見えなくなる。

「……魔獣化しているとはいえ、狼は神の大事な眷属だからな。なるべく傷付けたくなかった」

 狼たちの後ろ姿を見送っていたレインフォール王子が、低い声を洩らした。

 私は傍らに歩み寄って、彼を見上げた。思わず感嘆の息が出てしまう。

「……凄かったです。あれだけの数を、一人で相手できるなんて。さすがですね」
「子供の頃から訓練を受けているからな。とはいえ、褒めてくれるなら嬉しい。ありがとう」

 王子が私をかえりみて、柔らかく微笑んだ。顔の輪郭が月の光に浮かび上がっている。

 素直な人だ。だけどこれは、私に対してだけ見せる表情なんだろうな、と思った。思ったのだが──

「……王子? その腕、大丈夫ですか?」

 外套を巻き付けた腕は、今はだらりと下げられている。狼の鋭利な牙で切り裂かれた布と糸がほつれて、あちこちからはみ出ていた。

「中身は無事だ。軍用外套は消耗品だからな、俺はしょっちゅう破ってしまって怒られるんだが」
「いや、そうじゃなくて……すごくベタベタしてませんか?」

 狼の唾液だ。何度も口の中に突っ込んでいたせいだろう。粘ついたものが今にも滴り落ちそうだ。

「……」

 王子が黙って外套を脱ぐ。そのまま地面に投げ捨てようとして、それも躊躇われたのか、迷った挙句に指でつまんで持った。

 可哀想すぎる。気の毒だ。

 なのに、私は笑ってしまった。

「……リリス」

 レインフォール王子が眉を顰めて私を見る。だが、どことなく毒気を抜かれたようで、やがて彼も笑い出した。

 思うさま笑ってから、私は目尻の涙を拭い、それからぽつりと訊ねた。

「王子」
「ん?」
「もし、アナリアさんが隣国の王子と浮気しなかったら。……彼女と結婚していたんですか」

 我ながら、唐突な問い掛けだった。

 でも、多分ずっと、心のどこかに突き刺さっていたのだ。それが今、表に出てしまったのだと思う。
 王子は私がアナリア嬢の代替品ではないと言うけれど、それだけでは納得し切れないものを感じていた。彼がアナリア嬢に向ける態度と、私に向ける態度は全く違う。それは分かっていても、本当に、私だけだと言えるのか?

(……)

 心臓が跳ねる。いざ口にしてみたら、吃驚するぐらい胸が痛んだのだ。

(何でこんなに痛いの)

 王子の青い目が私に向けられた。考え深げだ。思考の糸を手繰るように、ゆっくりと正直に答えてくれた。

「そうだな。君と出会わなかったらしていたと思う」
「……」
「そして狙い通り、最高に不幸になっていただろうな。あの頃の俺は、とにかく不幸になりたかったから」
「不幸になりたい、って……」

 以前もそんなことを言っていた気がする。

「黒歴史以外の何物でもなくて、恥ずかしいんだが……幸せになりたい理由が思い付かなかった。自分に価値があるとは思えなかった。そういう時期というのがあるだろう? もっと早く、君が現れていてくれていたら良かったんだ」
「は? 私、ですか?」

 話の鉾先を向けられて、私は眉を顰めた。
 王子はしばらく黙って私の顔を見ていたが、やがて穏やかに話し始めた。明らかに、説得するとき用の声音だ。懐柔とも言う。

「君といると、とにかく落ち着く。気負っていたものが一気に剥がれ落ちるんだ。君だって、俺といるときは安心した顔になるだろう?」
「それは、まあ、兵士に囲まれて追い立てられなければ、王子といるのは割と落ち着きますね」

 そう、根本的なところで私は、王子を理解できるのは私だけ! と思っている節がある。それは認めよう。

 あれだけ追い掛けられたのに、いざ言葉を交わせば普通に喋ってしまう。彼と廃墟に二人きりでいるのは落ち着かないが、同時にこの上なくくつろいでしまうときだってある。そのことだって認めよう。

「うまが合う、というか。何か通じ合うものがあるんだろう。それに加えて俺は、君がいると、心が浮き立つんだ。こうして傍にいてくれるだけで、視野が開けたような気分になる。高揚する」

 ごく優しげで、……だが、何かを逸脱してしまっているような気がする声だった。

「逆に、君がいなくなると辛い。いつでも見えるところに置いておきたい。いなくなると何もかもが暗く、閉ざされるような気がする」

 それから「すまない」と続けて謝ったのは、僅かに残った理性が言わせたようだ。
 しかし、実際にはほとんど悪いとも思っていないのだろう。私の察するところでは。

「私は君に狂っているんだ。君が逃げれば地の果てまで追い掛ける」
「……」
「どんな代償を支払っても、惜しいとは思えない。だから、リリス、できればだが……穏当に俺を受け入れてくれ」
「……」

(……これは)

 まずい。

 とてもまずい。

 私は頬を両手で覆った。そのまま地面に屈み込みたくなる衝動を堪える。

(だって、「地の果てまで追う」だよ?!)

 言われて喜んでいい言葉じゃない。むしろドン引きして、今すぐ警察に駆け込むべき案件だ。なのに私は喜んでいる。足元がふわふわするぐらい嬉しい。

(……完全に手遅れだったわ、私)

 濃厚すぎる感情は嫌いじゃない。むしろ好き。私が好きなのは一途な当て馬であって、ヤンデレじゃなかったはずなのだが。一途なら何でもいいのか。何でも良くないけど、この王子の重さは萌える。

 そう、今にして思えば、私は「王子×アナリア嬢」には全く萌えていなかった。なんだか病んでそうな重たい「王子×私」の組み合わせの方がずっと萌える。そんなことを考えている自分がやばすぎて、完全に危険領域だ。

 いや、この人を理想の当て馬だと思ったことが、そもそもの間違いだったのでは? だって、いろんな話を総合すると、結局、アナリア嬢と王子は純愛でも何でも無かったという……二人の間には好意すら無かった模様。だとしたら、私がここまで足掻いてきたことって何……まさか完全な徒労……いや、まさかそんな。

 乾いた笑いが洩れた。追及はよくない。堂々とうやむやにしよう。うん、それがいい。いい加減に流しておく、それが時には大人の知恵というやつだ。

「……ええとですね」

 とりあえず、一番大事なことは何だったか。そう、それは……

「私は一途な人が好きなので。王子が本当にずっと私だけ、と言ってくれるなら、有りです」

 そう、とても「有り」だ。

「君だけだ。それ以外にない」

 王子が短く答える。

 重さが短さによって際立つ。脊髄反射的に、イイ! と私の中の何かが肯定する。止められない。
 深く考えるのはやめたのである。だから、私はもはや進んでこの流れに乗ることにした。
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