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咆哮

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「お着替えが済みました」

 シュバルツヴァルド王太子ヴィンフリードの侍従が、ユーレクの控えている天幕へ報告に来た。
 シュバルツヴァルドに入国する前に遣いを送ったが、それとは入れ替わりに王太子妃から遣いが送られ、ヴィンフリードの着替えと王族のマントが届けられた。
 ヴィンフリードは湯浴みを済ませると、シュバルツヴァルド伝統の衣装に着替え、遣いが王太子妃から預かった、恐らく前王のものであろう剣を帯剣した。
 手負いの獣のような剥き出しにされた殺意や怒りを抱いていたヴィンフリードの気配が、途端に威圧的に、そして高潔なものに変わっていく。王族であるという矜持と誇りを取り戻し、己の背負うものを改めて抱え込んだようだった。

 ユーレクはその姿を近くで、そして離れた場所で見守った。
 同じく王家に身を置く者として、それは他人事とは思えなかった。

 ヴィンフリードが捕らえられてから起こったシュバルツヴァルドでの出来事は、ティエルネがここまでの道のりで説明していた。捕らえられていた間のことを知る由もないヴィンフリードは、だが何も感情を表に出すことなく、ただ静かにその話を聞いていた。
 前王とその后の死、そして殺された妹弟たち。フランチェスカの采配と、連合国による支援。同胞たちの死、惨たらしい扱い。ティエルネは全て、包み隠さず淡々と兄に報告した。

 *

 天幕を張った小高い丘の上からシュバルツヴァルドの街を見下ろす。真っ白な雪に覆われた街は日の光を跳ね返し、キラキラと美しく輝いていた。吐く息が白く、青い空に昇っていく。

「綺麗だね」

 街を見下ろすユーレクの横に立ち、エーリクははあっと息を吐きだした。

「辺境も今頃雪に閉ざされてるだろう」
「そうだね、バルテンシュタッドはもっと雪深いよ。気温もこっちの方が少し高いかな」
「そんなにか。俺はこんなに雪を見るのは初めてだ」

 ユーレクは視線を眼下に広がる街に戻し、じっと考え込む様に口を閉ざした。そんなユーレクの隣で、エーリクもただ黙って同じように街を見下ろす。

「……この国が正常に戻るまで、どのくらいかかると思う」

 質問のような独白。エーリクはその言葉に答えず黙ったまま続きを待つ。ユーレクは屈むと足元の雪を手に取った。ふわふわとした新雪はよく見るとキラキラと細かく光り、風が吹けばふわりと空に舞った。

「王太子が復権しこれから新たな王としてこの国を立て直すだろうが、国力はかなり落ちている。基盤となる男たちの多くが命を落とし、残された者たちは皆疲弊している。王太子の姿を見て未来に希望を持てるだろうが、それだけでは国は建て直せない」

 ユーレクは掌の雪をぎゅっと握りしめ雪を固めると、大きく振りかぶって雪玉を投げた。真っ白な雪が青い空を弧を描いて飛んでいく。

「自国の力だけでは立ち直るのにどれだけかかるか分からない。行き場を失った多くの国民のためにしなければならないことが、まだ山ほどある」

 弧を描いて飛んで行った雪玉の行方を見つめ、ユーレクは息を吐きだした。

「俺は、しばらくここに残る」

 まっすぐ前を見つめるユーレクを、エーリクはじっと見つめた。その強い眼差しから、決意はすでについているのだと窺えた。

「誰かを、残してきたんじゃないの?」

 エーリクの呟くような声に、ユーレクはふっと瞳を翳らせた。
 大切な大切な人を、待たせている。きっと今でも自分の帰りを待っているだろう。だが、彼の国で見て来た獣人たちの扱い、彼等の置かれている境遇を、ユーレクはどうしてもキャンと切り離すことが出来なかった。
 遠く離れた王都でさえ、隠れるように暮らしていたキャン。彼ら獣人をとり巻く境遇をどうしても今とは違うものにしたかった。
 キャンが安心して笑顔で暮らせるようにしてやりたい。そのために自分にできることは何か。

「……猫の名前」
「え?」
「名付けるって約束をしたんだ。戻ったら名前を付けてやらないと」
「それは早く戻らないとね」

 一度国へ戻りキャンに会おう。
 会って、もう一度その笑顔を見たい。そうしたら、きっとこの決意は固いものになるだろう。
 ユーレクはグッと唇を噛みしめ、ずっと胸の底にしまっている愛しい者に思いを馳せた。

「お二方、馬の準備が整いました」

 ロイドに声を掛けられた二人はもう一度眼下の街を見下ろし、行軍の先頭に用意された馬へと飛び乗った。

  *

 先に通達を受けていたシュバルツヴァルドの門兵たちは既に街への門を開門させ、多くのシュバルツヴァルド兵が押し寄せていた。小高い丘から雪煙を上げ向かってくるその高潔な気配に、兵たちは身体を震わせ涙を流し、だが誰一人声を上げることなくその場でじっと固まっていた。
 やがて見えてくる王家の紋章。王旗を翻し先頭の馬上にあるそれは、まさしく自分たちの希望。
 門の前で待機していた数基の騎馬の中から一騎が弾けるように飛び出しヴィンフリードたちの行軍へ駆けて行った。兵たちはそれを、その目に焼き付けるようにただ黙って見つめた。

 眼前の門から飛び出してきた一騎に数人が反応したが、ティエルネがさっと片手を挙げてその動きを制した。あっという間に目の前にやって来た馬は前脚を高く上げてヴィンフリードの前で制止する。

「……殿下、よくぞご無事で」

 唇を震わせ、騎乗のヨシュカがヴィンフリードの前で立ち塞がるようにやっと声を発した。ヴィンフリードは静かに馬の腹を蹴ると歩を進め、ヨシュカの横に馬を寄せた。

「ヨシュカ」

 その名を呟くように呼ぶと、ヨシュカの瞳から滂沱の涙が流れ落ちる。ヴィンフリードは何も言わず、身体を震わせ幼子のように泣く弟の身体を腕を広げて抱き寄せた。

「……兄上……っ!」

 ヨシュカは力強く兄の身体を抱き締め返し、すぐに身体を離すと涙に濡れる顔を乱暴に拭った。

「行きましょう。義姉上が待っています」

 そう言うと背後に控えていたティエルネにも近付き抱擁を交わして、ヨシュカは街へと一行を先導した。

 *

 王城へ続く道沿いには多くの人々が集まり、ヴィンフリードの姿を見て歓声を上げていた。遠くからでも感じる圧倒的な気配に、シュバルツヴァルドの人々は震え、歓喜し涙を流した。ヴィンフリードはそんな人々を一人ひとり確認するように馬上から視線を向け、ただ黙って王城へと向かう。
 ヴィンフリードはシュバルツヴァルドに到着してからずっと、ただ一人の気配に全神経を向けていた。そっとマントの下で己の懐にある宝を服の上から確かめるように手を当てる。王城の天端に感じていた気配が、城門を抜け橋の手前まで移動したのを感じる。目を凝らせば見える、その人の小さな影。
 食いしばっても口端から漏れそうな獣のような呻き声を押さえ、今にも駆けだしそうになるのを必死に堪えている。ヴィンフリードのそんな様子をヨシュカとティエルネは察知し、苦笑いを浮かべた。沿道の人々の声にかき消されているが、ヴィンフリードの興奮が伝わってくるのだ。それは近くにいたユーレクたちにも十分に伝わってくるものだった。

「シュバルツヴァルド人は我慢強いと聞いていたが、ここまでとは」

 ユーレクの呆れたような声にヨシュカが苦笑した。

「兄上が特別なだけです」
「ヨシュカ殿はここまで我慢できない?」
「番を前に己を制するなど、尋常な精神力ではないでしょうね」
「なるほどね」

 ユーレクは馬を進めヴィンフリードの近くに近寄った。

「ここまで来て我慢するものなどないでしょう、殿下。貴殿の熱量を見せつけるといい」

 そう言うと口端を上げたユーレクは、ヴィンフリードの馬の腰を強く叩いた。

 *

 キャンと共に城門をくぐり橋を渡り一行が到着するのを待っていると、目の前に一騎、近付いてくる影が見えた。

「何かあったのかしら」

 フランチェスカの不安げな声が聞こえる。
 だがキャンにはあれが誰なのかすぐに分かった。強い気配、圧倒的な強さ。けれどどこか懐かしさすら感じる。
 キャンはアミアにそっと目配せをして、一歩後ろに下がった。

 フランチェスカはそんな周囲の気配にも気が付かず、じっとその影を見つめる。どんどん近付いてくる黒い影がやがてその姿をはっきりと見せ、翻すマントがフランチェスカの目にもはっきりと届くころ。
 フランチェスカは、無意識に駆け出していた。

 足元の雪がもどかしい。獣人ではないこの身体がもどかしい。けれどフランチェスカは必死に足を前へ前へと動かした。

 早く、早く早く。
 あの人の元へ、あの人の元へ。

 眼前の黒い影は走る馬から飛び降りると、咆哮を上げるようにフランチェスカの名前を呼んだ。
 目の前が涙で歪み、はっきりと姿を捉えることが出来ない。その姿を見て無事を確認したいのに、涙がとめどなく流れ落ちる。

「ヴィンフリード!」

 助けを求めるように両手を広げその名を呼べば、身体が強く抱き締められ宙に浮かぶように抱き上げられた。
 懐かしいぬくもり、息遣い、力強さ。

「フランチェスカ……!」

 愛して止まないその人の声が自分の名を呼ぶ。強く強くしがみ付き、肩に顔を埋め声を上げて泣きたいのを必死に堪えた。
 そんなフランチェスカの首に顔を埋めていたヴィンフリードは、愛しい女の香りを深く吸い込み首筋に唇を這わせ頬を濡らす涙を唇で掬った。身体を震わせながら顔を上げたフランチェスカの、美しい瞳を至近距離で覗き込む。
 会いたかった。忘れたことなどなかった。愛しい者が無事でさえいてくれれば、己のことなどどうでもよかった。
 噛みつくように力強く、だが優しく食む様に、ヴィンフリードはフランチェスカの唇に口付けを落とした。

 王城の周囲に集まっていた人々から、一際大きな歓声が沸き上がった。

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