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水底
しおりを挟む水底から浮上するような感覚。
ゆっくりと目を開くと薄暗い部屋の見慣れた天井。窓に目を向けるとカーテンの向こうはまだ日が昇り切らず、空が白んでいる。
キャンはあたりを見回そうとして、身体が鉛のように重たいことに気が付いた。疲労だろうか。気怠く寝返りを打つのも辛い。
再び目を瞑り、眠る前の記憶を手繰り寄せる。
脳裏に蘇る甘い香り、男たちの怒声。
暴力、恐怖、絶望…
でも、大きな花火が上がり、助けが来ると信じた。
そして、そして現れたのは……
「キャン」
優しくキャンの名を呼ぶ、その声。
目を開くと、目の前には黄金色が揺蕩う瑠璃色の瞳があった。
ユーレクはベッド脇の椅子に腰掛けそっと濡れた布巾で額の汗をぬぐう。ひんやりと冷たいそれは外の井戸で汲んだ水だろう。
「大丈夫か。まだ身体が怠いだろ」
ユーレクは優しい手つきでキャンの額や頬、首筋に布巾を当てていく。ぼんやりとユーレクにされるがままに身を委ねていると、突然ユーレクの柔らかな唇の感触が蘇った。
(!)
昨日の男たちに無理やり飲まされた薬。そのせいで身体がおかしくなりどうしたらいいのか分からず、ユーレクに助けを求めた。
――俺を信じて
ユーレクはそう言って、キャンにキスをしたのだ。
キャンは昨晩の自分の痴態を思い出し、顔から火を噴くほど恥ずかしくなった。心臓が痛い程鳴っている。
「キャン? どうした、どこか痛むのか?」
ユーレクが身を乗り出しキャンの顔を覗き込む。その顔は優しく、普段見るユーレクよりなんだか甘い雰囲気を纏っている。
キャンは益々恥ずかしくなり、布団を引っ張り上げ顔を隠した。だが、頭の上にある耳は隠れていない。
ミルクティ色の耳は羞恥のせいか、ペッタリと伏せている。
「だ、だい、大丈夫、ですっ、ななな、なんでもないです……っ」
「本当に? 無理してないか?」
そう聞くユーレクの声が何となく笑っている気がして、キャンは恥ずかしくて顔を出せなかった。
(キ、キスなんて……っ、初めてだったのにっ)
初めてのキスどころかそれ以上の事もあったのだが、キャンは朧げにしか覚えていない。
ただ、何度もユーレクとキスをして優しく撫でられ、恐怖と熱で震える身体を鎮めてくれた。何度も優しく名前を呼ばれながら。
「キャン」
ユーレクがふんわりと優しく名前を呼ぶと、ミルクティ色の耳がピクピクと震えた。ユーレクはくつくつと喉の奥で笑うとその耳を撫でる。
「意識されてるなら良かった」
ユーレクはベッドの端に腰掛け直すと、キャンの耳にそっと唇を寄せ、優しく囁いた。
「ほら、ミントの葉っぱを入れた水を用意した。飲むか?」
「……え?」
恐る恐る顔を出すと、思っていたよりずっと近くにユーレクの顔があり、また顔が熱くなった。
「なんだよ、起き上がれないのか? 手伝ってやるよ」
そう言ってユーレクが手を伸ばしキャンを抱き起こす。自然とユーレクの腕の中に抱き込まれるような姿勢になり、キャンはパニックになった。ジタバタするキャンを抱き締め、ユーレクは笑いながら宥めるように背中を撫でた。
そしてキャンの髪に、耳に顔を埋める。
「……一人で大変だったな」
その、ユーレクがポツリと呟いた言葉。
それが昨日のことを指しているのでは無いのだとキャンにも分かった。
ユーレクは腕の中で身体を固くしたキャンを優しく包み込み、キャンの髪と耳を一緒に優しく撫でる。何度も何度も。その手つきの優しさと温かさにじわりと涙が浮かび、慌てて身体を離そうとするが、ユーレクがそれを許さない。
微動だにしないユーレクの胸をトントンと叩く。
「ユ、ユーレクさん、あの……っ」
何故こんなことになっているのかキャンには分からない。だが、このままでは甘えてしまいそうで怖かった。
「うん」
キャンの髪に顔を埋めたままのユーレクに益々強く抱き締められる。身体が隙間なくピッタリとくっ付いて、不思議なことにキャンの気持ちは落ち着いて来た。抱き締められ感じるユーレクの体温、ほのかに香る匂い。おずおずとユーレクの背中に手を回し、そっと抱き付いた。
落ち着く匂い。昔からこの匂いに包まれていたような。キャンは目を瞑り無意識にすり、とユーレクの胸に額を擦り付けた。
ユーレクがピクリと身体を揺らしキャンの髪から顔を上げた。ふわふわの髪を優しく撫でて、そのまま後頭部に手を差し込む。
キャンがユーレクを見上げると、ユーレクの瑠璃色の瞳にまたゆらゆらと黄金が走っている。
「……キャン」
名前を呼ぶその声は、甘く切ない。
背中に回していた手が無意識にキュッとユーレクのシャツを握った。
キャンはぼんやりと瑠璃色の瞳の黄金を追う。美しい黄金色。初めて見た時からゆらゆらと揺らめき、キャンを捉えて離さない。
鼻先が触れ、互いの息がフワリと唇にかかる……
すると、みゃあ、と仔猫が入り口から鳴き声を上げた。
キャンがパッと入り口の仔猫を見る。
ユーレクはガックリと項垂れキャンの肩に額を乗せると、大きくため息を吐いた。
ユーレクが子猫を抱き上げ、ぶつぶつ文句を言いながらキャンの膝に乗せた。
キャンは子猫を優しく抱き締め顔を寄せる。
「痛いところはない? 大丈夫?」
「木の枝に寝かせたのキャンだろ? グッタリしてたから心配したが、大丈夫みたいだな」
ユーレクはピッチャーの水をグラスに注ぎキャンに手渡す。それを受け取り一口飲むと、身体が水分を求めていたのだろう、ごくごくと飲み干した。冷たい水が身体に染み渡る。
「名前、付けないのか?」
「え?」
「こいつの名前」
つん、とベッドの上でゴロゴロしている仔猫の腹を突つく。
キャンは答えに迷った。
この仔猫は迷い込んだだけだ。いつか親猫が迎えに来るかもしれないし、このまま成長して、やがていなくなるかもしれない。そんな子に名前をつけてもいいのだろうかとキャンは迷っていた。
「名前、付けてやれよ」
まるでキャンが何に迷っているか分かっているかのように、ユーレクは優しくキャンの髪を撫でた。髪を撫でそのまま頬を優しく撫でる。まるで愛おしむような手とユーレクの視線にキャンは心臓が忙しなく動いて身体がムズムズと落ち着かない気持ちになった。
「……じ、じゃあ、ユーレクさんが付けてください」
「俺?」
「そう……何かいい名前ありますか?」
赤くなった顔を隠すようにキャンは視線を子猫に向ける。
突然名付けを頼まれたユーレクは首を傾げて考え込んだ。
動物に名前をつけるなど、子供の頃飼っていた亀に付けたくらいだ。ユーレクはピッチャーを持ったまま暫く考え込み固まった。
その様子を見てキャンはぷっ、と吹き出した。
「なんだよ」
「だって、……っふふっ、真剣なんだもん」
「当たり前だろ、名前は大事だぞ」
「そう、そうなんですけど」
身体を震わせ笑うキャンを見て、ユーレクはホッと息を吐いた。こうして笑えるのならまだ良かったと、殴られて赤黒くなった目許を見つめその背中を優しく撫でた。
「分かった、俺が責任持って名前をつける。めちゃくちゃいい名前付けてやるからな」
ユーレクはそう言うと、仔猫の頭をグリグリと撫でた。
仔猫はみゃあ、とまた一声鳴いてユーレクの手に戯れる。ユーレクは仔猫に好きに戯れさせながら、キャンの瞳を覗き込んだ。
「……キャン、身体はまだ少し辛いと思うが移動しよう」
「移動?」
「まだ熱もあるし、……薬の影響も心配だ。一人でいるのは良くない」
「……く、すり」
キャンは昨晩の事を思い出そうと思考を巡らせるが所々靄がかかり思い出せない。ただ、思い出そうとすると胃のあたりが熱くなり説明の出来ない不安感が襲ってくる。
ユーレクは顔色を悪くしたキャンの頬にそっと掌を寄せた。
「記憶を混乱させる効果のあるものだ。……悪かった、思い出さなくていい」
部屋に朝日が差し込んで来た。
気が付けば空は青く朝日が差し込み、暗かった森は明るく、木々の間を抜けた風が優しくカーテンを揺らす。
ユーレクは立ち上がりマントをキャンの肩にかけた。
「ロイドの屋敷に行こう」
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