上 下
231 / 315

第231話 この瞬間を大事に

しおりを挟む
「……殿下」
「ん?」

 耳元近くに届く殿下の吐息に、低い声にまだ慣れない。
 背中に回される殿下の強い腕にたじろいでしまう。
 首筋に伝う殿下の指に痺れが走る。呼吸が乱れる。
 殿下の厚い胸板に高鳴る鼓動が収まらない。
 自分を包み込む殿下の熱と香りに思考がとろけそうになる。

 ただ今、わたくし、ロザンヌ・ダングルベールは執務室のソファーで影祓いの最中にて――殿下にしがみつかれている。もとい、抱きしめられている。

 想いを伝え合ったあの日以降、殿下との距離が縮まった。……いや、いきなり縮まりすぎたと言っておきたい。人前での距離間は相変わらずだけれど、人気のない影祓いの時は手を握っていた状態から、抱きしめられる状況に変わっている。

 私は殿下への気持ちを真正面から認め、そして殿下のお気持ちを受け取ったばかりなので、この急激な変化には戸惑うばかりだ。
 不純異性交遊は禁止ですと言ったからか、口づけこそはしないけれど、影祓いにかこつけて必要以上の接触をしてくる。しかし、それに抵抗できない自分がいるのも確かだ。

「あ、あの……そろそろ。倒れる前に」

 私が!
 私が倒れる前に!
 殿下の熱が伝わって、体中、煮え上がりそうです。――いえ。頭はぼんやりしているから、もう既に手遅れで煮え切っているかもしれない。

「分かった」

 丁度、影祓いの瞬間でもあったようで、殿下は渋々といった態度で私から離れた。

 解放してほしいと言ったのは私なのに、あっという間に消え去る熱に名残惜しさと寂しさを感じるのは不思議だ。殿下の残り香だけがそこに留まって、余計に切なさを感じさせられる。
 手を伸ばせばまだすぐ側にあるのに、私にはそれができないから……。

「ロザンヌ嬢、大丈夫か? 顔が赤いぞ」

 私は余韻に浸っているのに、一人冷静に戻られた気がして、くすりと笑う余裕の殿下が憎らしい。生来の負けん気の強さを発揮し、冷静になって殿下をたしなめようと思う。
 ごほんと咳払いして、臨戦態勢を整えた。

「あ、あのですね。執務室で不用意に接近されることはよろしくないと申し上げたはずです」

 いつ誰がやって来るか分からないのに。殿下はきっと簡単に心を切り替えることができるのでしょう。けれど私は入室前にお伺いがあったとしても、そんなにすぐ対処できません。

「何を言っているんだ? ここだから、抱きつくことで我慢してやっているというのに」

 殿下は不満そうに眉をひそめた。
 ここではなかったら、どういう行動を取ると言うのだ。けれど尋ねてしまったらさらに私では手に負えない答えが返ってくると予想されるので、ぐっと我慢する。
 私は上げられたベールを落として表情を隠すとさらに仕事モードになり、強気な態度を取り戻す。

「とにかくですね。執務室ではわたくしに軽はずみに抱きつきませんように!」
「……二人の時は顔を隠さないでくれと言ったはずだが」

 私の言葉には返事しないで、殿下はそっと手を伸ばすと下げたばかりのベールに触れようとする。
 私の影ネロは殿下に取り憑かないので、私に触れない限りは殿下に影響を及ぼすことはないにしても行動が軽率すぎる。それにベールで気持ちの切り替えをしようとしているのに。

「殿――」
「ロザンヌ」
「っ」

 咎めようとした私に殿下が低い声で名を呼ぶ。
 ずるい。その呼び方はずるい……。

 動揺して言葉を詰まらせた私に殿下は少し笑うと、そのままベールを手に取って持ち上げた。
 再び露わになった私の視界の先には、胸を締め付けるような熱っぽい殿下の瞳。
 せっかく収まりかけた動悸がまた激しく暴れ出す。

 仕事に打ち込んでいる時の真剣な眼差しとは全く違う。胸をざわめかせるような殿下の瞳の奥には今、一体何が宿っているのだろう。

「影が憑いているその瞬間しか君に触れられないんだ。私はこの時間を大事にしたい」

 たとえ想い合っていたとしても、互いに触れられる時間が限られている歪な私たちの関係。だからこそ触れ合える一瞬一瞬を大事にしなくてはいけない。大事にしたい。
 手を離した瞬間、殿下はこのフォンテーヌ王国の第一王位後継者に、私はしがない一介の侍女に戻るのだから。

「はい。……殿下」

 頷いて見上げる私に、殿下はさらに熱がこもった瞳で見つめ返してくれる。

「ロザンヌ」

 掠れた低い声で名を呼ばれ、殿下の顔が近づく。

「……っ。殿下」
「あ、えーっと。――だから。今は触れるのを止めて……くれる、だろうか」
「ん? あ……」

 気付けば感情の赴くまま殿下の手に自分の手を重ねていた私は、殿下を深く深くソファーに沈めた。
しおりを挟む
感想 262

あなたにおすすめの小説

旦那様は大変忙しいお方なのです

あねもね
恋愛
レオナルド・サルヴェール侯爵と政略結婚することになった私、リゼット・クレージュ。 しかし、その当人が結婚式に現れません。 侍従長が言うことには「旦那様は大変忙しいお方なのです」 呆気にとられたものの、こらえつつ、いざ侯爵家で生活することになっても、お目にかかれない。 相変わらず侍従長のお言葉は「旦那様は大変忙しいお方なのです」のみ。 我慢の限界が――来ました。 そちらがその気ならこちらにも考えがあります。 さあ。腕が鳴りますよ! ※視点がころころ変わります。 ※※2021年10月1日、HOTランキング1位となりました。お読みいただいている皆様方、誠にありがとうございます。

《完結》《異世界アイオグリーンライト・ストーリー》でブスですって!女の子は変われますか?変われました!!

皇子(みこ)
恋愛
辺境の地でのんびり?過ごして居たのに、王都の舞踏会に参加なんて!あんな奴等のいる所なんて、ぜーたいに行きません!でブスなんて言われた幼少時の記憶は忘れないー!

暗闇に輝く星は自分で幸せをつかむ

Rj
恋愛
許婚のせいで見知らぬ女の子からいきなり頬をたたかれたステラ・デュボワは、誰にでもやさしい許婚と高等学校卒業後にこのまま結婚してよいのかと考えはじめる。特待生として通うスペンサー学園で最終学年となり最後の学園生活を送る中、許婚との関係がこじれたり、思わぬ申し出をうけたりとこれまで考えていた将来とはまったく違う方向へとすすんでいく。幸せは自分でつかみます! ステラの恋と成長の物語です。 *女性蔑視の台詞や場面があります。

[完結]いらない子と思われていた令嬢は・・・・・・

青空一夏
恋愛
私は両親の目には映らない。それは妹が生まれてから、ずっとだ。弟が生まれてからは、もう私は存在しない。 婚約者は妹を選び、両親は当然のようにそれを喜ぶ。 「取られる方が悪いんじゃないの? 魅力がないほうが負け」 妹の言葉を肯定する家族達。 そうですか・・・・・・私は邪魔者ですよね、だから私はいなくなります。 ※以前投稿していたものを引き下げ、大幅に改稿したものになります。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

突然決められた婚約者は人気者だそうです。押し付けられたに違いないので断ってもらおうと思います。

橘ハルシ
恋愛
 ごくごく普通の伯爵令嬢リーディアに、突然、降って湧いた婚約話。相手は、騎士団長の叔父の部下。侍女に聞くと、どうやら社交界で超人気の男性らしい。こんな釣り合わない相手、絶対に叔父が権力を使って、無理強いしたに違いない!  リーディアは相手に遠慮なく断ってくれるよう頼みに騎士団へ乗り込むが、両親も叔父も相手のことを教えてくれなかったため、全く知らない相手を一人で探す羽目になる。  怪しい変装をして、騎士団内をうろついていたリーディアは一人の青年と出会い、そのまま一緒に婚約者候補を探すことに。  しかしその青年といるうちに、リーディアは彼に好意を抱いてしまう。 全21話(本編20話+番外編1話)です。

【完結】婚約者は偽者でした!傷物令嬢は自分で商売始めます

やまぐちこはる
恋愛
※タイトルの漢字の誤りに気づき、訂正しています。偽物→偽者 ■□■ シーズン公爵家のカーラは王家の血を引く美しい令嬢だ。金の髪と明るい海のような青い瞳。 いわくつきの婚約者ノーラン・ローリスとは、四年もの間一度も会ったことがなかったが、不信に思った国王に城で面会させられる。 そのノーランには大きな秘密があった。 設定緩め・・、長めのお話です。

【完結】転生地味悪役令嬢は婚約者と男好きヒロイン諸共無視しまくる。

なーさ
恋愛
アイドルオタクの地味女子 水上羽月はある日推しが轢かれそうになるのを助けて死んでしまう。そのことを不憫に思った女神が「あなた、可哀想だから転生!」「え?」なんの因果か異世界に転生してしまう!転生したのは地味な公爵令嬢レフカ・エミリーだった。目が覚めると私の周りを大人が囲っていた。婚約者の第一王子も男好きヒロインも無視します!今世はうーん小説にでも生きようかな〜と思ったらあれ?あの人は前世の推しでは!?地味令嬢のエミリーが知らず知らずのうちに戦ったり溺愛されたりするお話。 本当に駄文です。そんなものでも読んでお気に入り登録していただけたら嬉しいです!

処理中です...