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episode.8 変化①

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「よう、色男。昨夜は楽しかったか?」

 朝の日課のひとつのである洗車中に現れたのは、冷やかす笑みを浮かべたベルナルドだった。
 昨日の溢れ出す狂気は潜め、普段通りの気が抜けた立ち姿である。どこか憑き物すら落ちて見える彼は、二つ持った湯気立つマグカップのうち片方を差し出してきた。
 ロレンツォは泡まみれのスポンジを置くと、近くの水道で簡単に手を洗う。お礼とともにマグカップを受けれ取れば、「素直だな」とまた笑われた。

「マフィアなんかが用意したもんは信用出来ないんじゃなかったのか?」
「お気に入りのペットを毒殺しようもんなら、女王様が怒り狂うだろうぜ」
「お前もよく分かってきたじゃねえか。ここじゃあカリーナのご機嫌を損ねた奴から死んでいくんだ。その点ロレンツォはよくやってるよ」

 どうにも話が見えないと思いながら、渡されたコーヒーを一口飲む。
 ベルナルドにコーヒーの差し入れなどもらったことも、洗車中に話しかけられたことも初めてだ。わざわざロレンツォを探してきたのだろうに、壁に寄りかかったまま雑談を続けられる。

「昨日はあのカリーナからのご指名だっただろう? カルロの奴、万が一カリーナに手を出してたら殺すって呪詛のように繰り返してたぜ」
「女王様相手に粗相なんかできるわけないだろう。つか両手縛られてたし、まともに眠れもしなかったからな」
「は? なんだそれ、変なプレイでもしてたのか?」
「まあ、そういう反応になるよな」

 苦笑すれば、それで話が終わってしまう。無言でコーヒーを啜るベルナルドに、本当になんなんだと思った。

「ありがとな、この前は」

 ボソリと呟かれ、首を捻る。多分これが本題だ。だが一向に会話の意図が読めない。
 礼を言われる覚えはないと素直に言えば、呆れた目で見つめ返された。

「そう言うと思ったよ。アルベルトも同じ反応してたからな」
「なんで兄貴の話がでるんだよ」
「前に少しだけ話したろ。アルベルトがカポ・レジームに喧嘩売ったって。あれ、俺を助けようとしたんだ。商品上がりで、構成員になったばっかの俺をな。船の上でパネッタ蹴ったときのロレンツォ見て、そのときのことをまた思い出した」

 歯切れ悪く言われ、全てを理解する。
 途端に返事に窮した。こんな状況、誰だって同じ反応をするはずだ。
 慰めればいいのか、同情すればいいのかわからない。そうして言葉に困っていれば、からかい混じりに笑われる。

「ま、普段のお前は全然アルベルトと似てねえけどな。アルベルトの方が良い男だったぜ」
「当たり前だろう。俺の兄貴は世界で一番優しくてカッコイイヒーローだったんだ。兄貴がどれだけ良い男だったかの話をしてやろうか?」
「興味はあるが長くなりそうだから遠慮しとくわ」

 呆れるベルナルドに構わずアルベルトの話を続ける。三十分経ったところで、「それってまだ続くのか?」と嫌そうに言われた。

「ブラコンに付き合ってたらいくら時間があっても足りねえっての。お前だってまだ仕事があるんだろ?」

 確かに早く洗車を終わらせなければ、カルロにどんな嫌味を言われるかわかったものではない。
 アルベルトのことを思い出して弾んでいた気持ちが一気に沈む。そんなロレンツォの変化が面白いとばかりに笑われた。

「そういや聞いたか? カリーナがいない間に、スタンフォードがまたやらかしたらしいぜ」

 空になった二つのマグカップを握り、思い出したように言われる。離れる間際になって、とびきり重要な話を、天気でも語る軽さで教えられた。

「行方意不明事件の責任取って、レグッツォーニは降格処分、ついでに別のとこ飛ばされるんだってよ。代わりにスタンフォードの忠犬がラクリマの署長になるらしいぜ」
「は? どういうことだよ、それ」
「カリーナが戻ってきて一件落着じゃねえってことだよ。ロレンツォもまだここにいるつもりなら気をつけろよ。うちにはお前みたいな下っ端を守る力、ほとんど残ってねえんだからさ」

 ステラルクスで強い権威を持っているはずのベルナルドは、そんなことを言いながら去っていく。



 ベルナルドの言っていた通り、しばらくもしないうちにレグッツォーニは解任され、代わりにバルトロ・サッキーニという男がやってきた。
 レグッツォーニは自信なさげな丸まった背中が印象的であったが、サッキーニはこれとは正反対の男であった。
 軍人のように引き締まった体躯をしており、威圧的な四角い風貌はピクリとも笑わない。彼が就任してすぐカリーナ自ら挨拶に行ったが、顔を合わせることも許されず追い払われたらしい。

「どいつもこいつも汚物以下のクズどもだな」

 常は数人の構成員で賑わっている遊戯室には、カリーナとカルロ、ベルナルド、ロレンツォといったいつもの面々しかいなかった。
 遊戯室にはビリヤード台がひとつと奥にバーカウンター、壁際に革張りのソファーがあるだけだ。元は白かっただろう壁紙は煙草の煙で黄ばんでおり、そこに数本のキューが飾るように置かれている。
 カリーナに呼び出された彼らは、鬱憤をはらすための相手をさせられていた。しかもカリーナは負けず嫌いのくせに驚くほどビリヤードが下手くそで、負けるたびに癇癪かんしゃくを起こす。それなのに手を抜くとそれはそれで怒るから、さしものカルロすら手を焼いていた。
 カリーナは自分の番が回ってくるまで、ウィスキーを片手にソファへふんぞり返っていた。
 両足を開き、前かがみになっている姿勢は人を食い殺したあとの獣を彷彿とさせる。なんなら酒のせいで首まで真っ赤になり、目は完全に座っていた。
 二杯目ですでにこのありさまだったから、酒に強くはないのだろう。しかもこの日の彼女は絡み酒だったからよけいタチが悪い。

「おい、ロレンツォ。お前もこっちに来て飲め」
「すみません、カポ。俺はあまり酒が好きじゃないんです。酒の匂いがする部屋にいるのも苦手で、そろそろ退室しようかと思ってたくらいですから」
「嘘だぜ、カリーナ。こいつ、この前は死ぬほど酒飲んでたからな」
「俺の部屋のワイン全部飲み干す勢いだったもんねえ」

 仲間だと思っていた奴らに背後から刺された。しかもなにが全部飲み干す勢いだ。それはベルナルドだったじゃないかと言ってやりたくなる。
 ギロリと睨むが、さらりと流された。ワイワイと二人だけでビリヤードを楽しんでいる姿に、本気で殺意がわく。面倒くさいカリーナの相手を押しつける気満々だ。

「クソつまらん。ビリヤードなんてもうやめだ。他になにか面白いことはないのか」
「って言っても、カリーナはトランプゲームも下手くそだしね」
「あア? 誰が下手くそだと? おい、ロレンツォ! 今すぐトランプ持ってこい! ポーカーでお前らのあり金全部むしり取ってやる!」
「なんでよけいなこと言うんだよ、カルロ……」

 頭を抱えられ、ようやく自身の失言に気づいたらしい。カルロは慌てて口をおさえるが、カリーナを挑発した事実は変わらなかった。
 方々から非難に満ちた目を向けられたカルロは、可哀想な生贄となることになった。キューを置き、ウィスキーのボトルを持ってカリーナの隣に座る。どうやらさっさと潰してしまおうという、雑な作戦らしい。
 半分にまで減っていたグラスへなみなみに注ぎ、「まあ、とりあえず飲みなよ」と促す。
 ロレンツォとベルナルドは何がとりあえずなんだと思ったが、酔っぱらいは特に気にしていない。むしろカルロが相手してくれたのが嬉しいのか、言われるがまま一気に仰る。その飲みっぷりを褒め称えられるものだから、機嫌はどんどんとよくなっていくばかりだった。

「はは、カルロはやっぱり優しいな。大好きだぞ、カルロ」

 とカリーナ。酒のせいで目じりが柔らかく下がり、ふやけきった柔らかな笑顔である。
 この満面の笑みに、カルロの頬が引きつった。彼の耳がほんの少し赤くなっていることにロレンツォだけが気づく。

「うちのカポとアンダーボスは相変わらずお熱いことだな。俺達は出て行った方がいいのか?」
「ロレンツォもカリーナと同衾どうきんしたばっかだって対抗してこいよ」
「酔っぱらい相手に変なからかいしてくるんじゃないよ! カリーナにも失礼だろう!」

 そう怒られるが、満更でもない様子に見えた。カリーナもニコニコとご機嫌でカルロにしだれよっているのだから、これはなんとも面白くない。
 大人しくカリーナの酒に付き合っていれば、今頃あの場所には自分がおさまっていたのだろうか。いや、カルロと同じ扱いを受けるなど無理な願望だ。だってカルロは、カリーナの特別なのだから。
 ロレンツォ相手ならば、「いい子だなと」頭を撫でられて終わりだろう。ペットの扱いなんてそんなものだ。

「カリーナがこんなに酔っ払うなんて珍しいね。なにかあったの?」

 浮かれきったカルロが、また無遠慮に尋ねる。この言葉で、ようやく機嫌よくなっていたカリーナの表情が一瞬でかたくなった。なにを思い出したのか、怒りで眉をつりあげ、奥歯をギリギリと噛みしめる。

「なにもクソもあるか。サッキーニとかいうゴミクズクソカス野郎の相手だけでもイラついてるのに、例の二流マフィアが女達の送還を渋ってやがる……!」
「ああ、そういえば半分は帰ってきたけど、残りの子達はまだどこにいるかわからないとかって話だっけ」
「普段ナポリでデカい顔してる癖にそんなわけがあるか。そのせいで明後日からナポリに行かないといけないんだぞ」

 つまりはステラルクス島を離れることが嫌でぐずっているということか。
 予想にしていなかった理由に拍子抜けする。だが子供っぽい癇癪かんしゃくは、カリーナらしいと言えばそんな気もした。

「嫌だカルロ、島の外なんか行きたくない」
「代われるなら代わってあげたいけど、カリーナが行かないと向こうを刺激しかねないし。それに俺も、パネッタの後始末とかで忙しいからさ」

 カルロの腰にしがみつくカリーナの頭を優しげな手が撫でる。微笑ましくも見える絵面だが、ロレンツォにとっては甚だ不愉快だ。
 ただ一人どうでもよさげなベルナルドは、煙草に火をつけるとバーカウンターに向かう。三人分のグラスにウイスキーを注ぎながら、「そういや」と首をひねった。

「護衛には誰連れてくんだ。俺もナポリに行く暇はないぜ」
「今回はサルトーリ達を連れて行く。お前らには及ばないが、あいつなら大丈夫だろう」
「え? 俺は連れて行ってくれないんですか?」

 反射的に尋ねれば、方々から間抜けな顔を向けられた。カルロなどは厚かましいといった嫌悪まで滲んでいる。やっぱりこいつとは一生仲良くなれないし、なりたいとも思わないなと改めて思う。

「ふふ、可愛いことだな、ロレンツォ。そんなに私と離れることが寂しいか」

 どことなく嬉しそうなカリーナは、いつもの口癖を言いながら体を起こす。
 両手を広げる仕草は、飼い犬へ飛び込んでこいと示すようだ。だがロレンツォはペットでこそあるが、犬ではないのでその意図に気付かぬふりをする。そうしてバーカウンターに近づき、ベルナルドが用意してくれたグラスを受け取った。

「ロレンツォがどれだけ駄々こねようと、さすがにうちの縄張り以外にカリーナと出かけるなんて許さないよ。君は一応カリーナを殺そうとしてるんだしね」
「そういうことだ。信用されているな、ロレンツォ」
「これは信用されてるなんて言わないでしょ……」
「信用だろうが。お前は絶対に私を殺す、というな」

 それはどうしてか、牽制のように聞こえた。間違えても仇に恋心を抱くなんて、イカれたことをするなという。
 きっとアルベルトへの後ろめたさが思わせる思い込みなのだろうが、一度気になってしまえば、簡単に払拭することなどできなかった。
 またキャッキャッといちゃつき始めた二人を──これはロレンツォの主観である──、苦い思いで見つめる。ベルナルドは相変わらずの無関心さで「俺も仕事なんかより旅行に行きてえなあ」とボヤいていた。
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