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【スイの魔法 3 七人の魔女】 別章 『スイの姉』
もう一人の『魔女』
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2014/09/10 改稿
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アーシャとネルティエの二人が邂逅し、その口から『螺旋の魔女』について語られていたその頃。
一人残って生徒会室で魔力操作の練習を続けていたスイが、ゆっくりとその力を霧散していく。
アーシャの妨害がなければ簡単にいくのにと、どこか腑に落ちない様子で溜息を吐いたスイは、今日はここまでにして教会に帰ろうと生徒会室を後にした。
生徒会室を出た頃には、すっかり窓の外に見える空も薄っすらと群青色に染まり、色濃い闇が空の向こう側を染め始めていた。
学園の敷地内からは生徒の声もなく、静けさが漂う。
スイの靴が奏でる乾いた音だけが廊下に響き渡るようだ。
しばらく進んだ先で、スイはふと通り過ぎた教室の中にいた一人の人影に気付き、足を止めた。
「――ルスティアさん?」
「ん……。やぁ、スイ君。こんな時間まで生徒会のお仕事かな?」
スイの声に気付いて振り返ったのは、先日の『魔術科』の説明会で同席した柔らかい笑みを湛えた少年、ルスティアだ。
「生徒会じゃなかったんですけど、ちょっと自習していて。あそこは魔法を撃っても修復されるみたいですから、練習にはちょうど良いんです」
「へぇ、空間に対する修復結界、か。さすがはヴェルディア魔法学園の生徒会室だね。そんなもの、なかなかお目にかかれるものじゃないからね。
……ふむ。これから帰りかい?」
「えぇ、そのつもりですけど。どうしたんです?」
「あぁ、うん。もし良かったら、生徒会室を見せてもらったり出来ないかな? あそこは一般生徒の立ち入りが禁止されていたはずだしね」
ルスティアの言葉にスイが僅かに逡巡する。
確かに生徒会室は一般生徒の立ち入りは基本的には禁じられている。
生徒会役員の腕章が扉を閉じる施錠魔法を解く鍵の役割を果たす為、無断で入る事は不可能となっており、同行するか、或いは何かしらの用事があって中に生徒がいない限りは入る事は出来ないだろう。
特に関係者以外立ち入り禁止という訳ではないが、やはり生徒会室はその敷居の高さから冷やかしに行くというのはなかなか難しいのだろう。
この日は特に急いで帰る必要もなく、スイがようやく答えを出す。
「別に構いませんけど……」
「そうか! ならその方が有り難い。……ちょっと物騒な客人がいるみたいだからね」
声を被せるような勢いで告げられたルスティアの返答。
最後の一言はスイの耳には届かず、スイはルスティアを連れて生徒会室への道を引き返す事になったのであった。
「それで、ルスティアさん」
「あぁ、ルティで良いよ。親しい人からはそう呼ばれているんだ。編入してきたのに、まだ友人らしい友人も出来ていないからね。キミにはその第一号になってもらいたいね」
「へぇ、なんか意外ですね。ルスティアさんは友達とかすぐに出来そうなのに――」
「――ルティだよ」
「え、っと、ルティさん。どうしてあんな所に一人でいたんですか?」
廊下を歩く二人の足音が鳴り響く中、スイがルスティアに尋ねた。
先程までルスティアがいたのは、彼のいるべき8年生の教室という訳ではなく、使われていない空き教室の一つだ。用事がなければあんな所にいる理由もないだろう。
何かの授業で忘れ物でもしたのかと楽観的な考え方で尋ねたスイであったが、ルスティアは答えに困ったように頬を掻いた。
「いやぁ、ちょっと待ち人に約束をすっぽかされてしまってね。どうしたものかと途方に暮れながら外を見ていたのさ」
「待ち人? あ、ネルティエさんですか?」
「へぇ、どうしてそう思うんだい?」
「さっきルティさん、親しい友人がいないって言っていたので。あの説明会の時の雰囲気から察するに、ルティさんと待ち合わせするとなるとネルティエさんぐらいなものなのかなって」
「う……あはは……、友達がいないって言われるのはちょっとばかり胸にくるものがあるかな。あぁ、気にしないでくれよ。正解だからね」
悪気なく辛辣な現実を突き付ける形となったスイの言葉に、ルスティアは苦笑混じりにそう答えると、肩を竦めて首を左右に振った。
「ネルとは幼馴染でね。まぁ彼女がこの街に留学するって決まってからは、年に一度か二度ぐらい顔を合わせる程度になってしまっていた訳だけども。そんな訳だから、ちょっとは旧交を温めようかと思ってね。だけどまぁ、結果はこのザマだよ。
せっかく転入してきた幼馴染に対して、ずいぶんな仕打ちだとは思わないかい?」
「う、うーん……。あはは……」
そうは言われても反応に困る、というのがスイの率直な感想であり、スイが苦い笑いを浮かべながら答えを誤魔化した。
スイが誤魔化して視線を外した姿を確認して、ルスティアは歩く速度を意図的にわずかに落とし、スイの視界から外れてみせた。
柔らかな笑顔を浮かべていたルスティアの表情はすっと真剣なものへと切り替わり、後方にちらりと視線を向ける。
「……さて、スイ君。外もずいぶん暗くなってきたし、ちょっと急ごうか」
「え? あ、そうですね」
自分から生徒会室を見たいと言っておきながら急かしてみせるルスティアに、特にスイは苛立ったりもせずに素直に応じる。そんなスイの素直な態度に、心配になってしまうのはルスティアであった。
――なるほどね、やっぱりまだまだ普通の子供、という訳か。
前を歩くスイの背中を見つめながら、ルスティアは改めてスイを心の中でそう評価するのであった。
生徒会室へと再び入ってきたスイの横で、ルスティアは興味津々といった様子で生徒会室の中を見回していた。
遺失されてしまった技術の集まった生徒会室。
建物の外観からは考えられない程の広大な広さや、中空を貫いた大理石で出来た廊下など、見慣れていないルスティアにとってみれば全てが初見。新鮮に映るのも無理はなかったようだ。
一頻り周囲を見回した後で、ルスティアが振り返って円卓のある奥を指差した。
「さすが、としか言葉が出て来ないよ。スイ君が魔法の練習をしているのはあの奥かい?」
「そうですよ」
「よし、行こうじゃないか」
ぐいぐいとスイの腕を引っ張ってルスティアが小走りに廊下を走り出した。
その姿はまるで、一刻も早く遊びに行こうとするチェミを彷彿とさせるような微笑ましさがあったが、ちらりと振り返ってスイの後方――生徒会室の扉を見つめたルスティアの顔に、スイが感じていた微笑ましさが霧散する。
鋭い眼光が睨み付けるように捕らえた扉。
そして、ほぼ同時に扉が乱暴に開かれた。
ぞろぞろと中へと入ってきた、身長にしてみれば120センチ程度の者達。
黒いボロボロの外套に身を包んだ何者か達は、その外套の裾から銀色の刃を覗かせていた。
「――ッ!?」
「走れッ!」
突然の来訪者。
後方から現れた何者か達に動揺し、足を止めかけたスイへとルスティアの叫び声が届けられ、腕をさらに強く引かれた。
転びそうになりながらも、駆け出したルスティアに置いていかれないようにスイが懸命に走り、円卓の向こう側である草原へと駆け抜け、そこでようやく二人が足を止めて振り返る。
「い、今のは?」
「招かれざる客、とでも言うべきかもしれないね。スイ君、ここで迎え討つけど、準備は出来ているかい」
ルスティアの顔はいつもの柔らかな微笑みとは異なった、真剣な表情だった。眼には鋭い眼光を宿し、ルスティアがスイに視線も向けずに言い放つ。
それは質問ではなく、否応なくとも対処しろという指示だ。
ルスティアの態度にスイも咄嗟に気持ちを切り替え、来訪者達を敵として認識し、力強く頷いた。
「――良い顔だね。戦い慣れているのかい?」
「えぇ、まぁ。それなりに色々ありましたから」
この一年間、スイがただの学生生活を送っていたのであれば、こんな事態で咄嗟に頭を切り替える事は出来なかっただろう。
タータニアとの旅、ブレイニル帝国の急襲。
そのどちらもが今ではスイにとっての一つの成長の糧となり、『戦う』というそのものに対する覚悟や意識を構築させていた。
ルスティアの横顔から視線を後方に向け、駆けてきた何者か達に向ける。
色々と隣の少年に問いたい事も多々あるが、スイはそれを口にはしようとはしない。
前方にやってきた何者か達が凶器を手にしている以上、道を尋ねるだけという訳でもないのはまず間違いないのだ。
「ところで、スイ君」
「スイで構いません。何ですか?」
「……分かったよ、スイ。キミは純粋な魔法使いとしての戦い方に慣れているかい? つまり、後方からの魔法攻撃に」
「前に出て戦うよりは、です。まだ経験豊富とは到底言えませんけど――」
「――上々だ。なら、後方から戦うと良い。灰燼にするなり串刺しにするなり、ご自由に」
あっさりと言い放つルスティアの言葉に思わずスイが慌てて振り返った。
ルスティアにとってみれば何ら迷いはないようで、特に強がって意気込んでいるという様子すら見えない。これは当然の選択肢だと言わんばかりの表情だ。
その顔に、スイはぴくりと眉を動かした。
「殺せ、と言うつもりですか?」
「殺せって言うのはちょっと違うかな。正確には――」
ルスティアが言葉を区切り、両手に魔力を集めて氷の短剣を作り上げた。
「――壊せ、だよ。アレらは人じゃない。遠慮なんてしなくていい」
それだけ告げて、姿を見せた敵を見るなりルスティアがぐんと上体を前傾させて駆け出した。
地を蹴り、肉薄していくその動きは魔法使いのオーソドックスな型とはまるで異なる。むしろ彼の動きは、斥候や暗殺者といった類に近かった。
敵の数は4。
横並びに陣を取った襲撃者達は、フードに隠れた暗闇の中から赤い光をルスティアに向けると、周囲に散開した。
ルスティアに対峙するように刃を構えた者は、中央に位置していた2体のみ。一番外側に離れていた左右の2体は、ルスティアには見向きもせずにスイに向かって駆け出した。
「……ッ、チッ! スイ、少しで良いから時間を――!」
自分に集中してくれるものかと踏んでいたルスティアのアテは外れ、彼ら――と言って定かであるかは疑問ではあるが――は予定通りにスイを狙って肉薄する。
まさか自分を無視するとは思っておらず、思わずルスティアが舌打ちしてスイへと声をかける。
純粋な魔法使いであれば、接近戦は分が悪い。
このままではスイが不利だと考え、ルスティアは慌てて踵を返そうと地面に足を滑らせながらちらりと振り返る。
その瞬間――眩い白金色の光が弾け、戦場となっているこの状況には似つかわしくない、嘲笑を孕んだ声がルスティアの耳に届いた。
「――人形か。アーシャに比べればずいぶんと粗末なものだ」
ルスティアのそれよりも眩さを感じさせる明るい金色の長髪を揺らした、真っ白なワンピースを着た女性。
釣り上がった紅玉の瞳を湛えた目付きは、嘲笑を貼り付けたまま前方からやって来る襲撃者を睨み付ける。
スイの〈使い魔〉であるファラ――ファラスティナ――だ。
彼女やルスティアの言う通り、『銀の人形』――つまりはアーシャと同じく、襲撃者達は『魔道人形』と呼ばれる類の戦闘兵器だ。
アーシャのように自我を持っているそれとは違い、ただただ命令された内容を愚直に果たそうとする兵器に過ぎない。
つまり、この襲撃者達は『何者かによって命令を受けて襲撃している』というのは火を見るより明らか。それが一体、誰が、何を目的にしているのかはさて置き。
召喚光が消え去ると同時に姿を現したファラは、早速右手を横薙ぎに振り払う。
途端、進行方向に突然現れた火柱に、魔導人形達は思わずその足を止めた。
――あれが金龍か……。お師匠様の言う通りだ。
ちらりと振り返っていたルスティアはその光景に舌を巻きつつも、その前評判に違わぬ実力を見て感心していた。
ただの一振りで高さにして数メートルにもなろうかという火柱をあげるなど、人化も然ることながらその実力の一端には肝が冷やされる。
いつまでも感心している場合ではないと頭を切り替え、後方に散った襲撃者から意識を剥がしたルスティアは、前方に佇む2体の魔導人形に意識を集中させる。
両手に持った氷で造られた無愛想な刃を構え、さらに肉薄する。
斜めに振り下ろされた銀の刃を、身体を捻りながら躱してみせたルスティアは、そのまま更にもう一体の魔導人形を一瞥し、左手に構えていた氷の刃を投げ飛ばした。
当然その程度ならば対処するだけの実力はあるだろうと踏んでいたルスティアの想像通り、氷の刃を弾き飛ばした魔導人形。
しかしそれが、ルスティアの狙いだった。
「――残念、それは少しハズレだね」
ルスティアの柔らかな口調によって紡がれた、魔導人形への評価。
それを示すかのように、すでに氷の刃を投げ放ったルスティアの左手から、新たに氷の刃が投げ飛ばされ、魔導人形のがら空きになった身体を狙いすまし、頭部と思しき赤い光を放った瞳に突き刺さる。
仰け反るように倒れていく魔導人形を一瞥しつつも、ルスティアはすぐに意識を切り替え、自分と近い位置にいる魔導人形に向かって、両手に握っていた氷の刃を投げ放つ。
さすがに学習能力はあるのか、こちらはどうやら弾いて対処しようとはせずに後方へと跳んで逃げたようだ。
面倒だと思う間もなく、ルスティアはぴたりと足を止めた。
――瞬間、後方に跳んだ魔導人形を、横合いから白に近い金色の光線が呑み込み、ジュッと音を立てて上半身を消失させた。
唖然とした顔でルスティアがその光の出処を見つめると、ファラが魔導人形の立っていたその位置に向けて手を翳したまま、退屈そうに鼻を鳴らしていた。
もしも今の魔力に気付かなければ、肉薄していた自分もろとも消されそうな一撃を放っていながら、それに悪気など一切感じていない様子だ。
「さっさと終わらせれば良かろう」
「あはは……、僕は魔力量が低いからね。そういう強力な魔法はちょっとしんどくて、ね」
苦笑しながらルスティアがファラへと答えた後でスイへと視線を向けると、スイの目の前には銀色の魔法陣が浮かび上がっていた。
膨大な魔力を使った『無』の魔法はその規模の大きさだけならば、周囲一帯を呑み込みかねない程の威圧感を与えている。
アーシャの言う『無駄の多い魔法』の使い方はまさしくこれの事であり、同時にそれだけの魔力量を要する『無』の魔法とは一体どういったものなのか、ルスティアは困惑の中でその光景を見つめていた。
そして、スイの魔法が発動した。
重く巨大な何かが這いずるような、ズズズッと響く音。
炎の壁で足止めされていた魔導人形がようやく迂回し、スイへと肉薄しようと試みている最中に、それらの周囲で景色が――世界が歪む。
対象となった魔導人形の上半身をすっぽりと消失させたその空間に、ルスティアは思わず目をむいた。
伝聞でしか聞かなかった『無』の魔法ではあるが、その巫山戯た能力はどうやらルスティアが想像していたそれ以上のものがあるようだ。
――参ったな……。ネルにも報告しておくべき内容が増えたみたいだ。
率直な感想を頭の中に浮かべながら、ルスティアは最初に無力化した魔導人形へと足を向けて歩いて行く。
目のような役割を果たしていたその光は既に失われ、身体を構築していたのは擬似的に魔力でその形を造らせただけの簡素な魔導人形であったらしく、外套の中身は華奢な骨組みに刻印が刻まれた木だけだ。
持ち運びに長けた簡素な魔導人形。
どうやら、ルスティアが手に入れたとある筋の情報通りのようだ。
検分していたルスティアへと歩み寄るスイ。
しかしそれよりも先に、ファラがルスティアの肩を掴み、振り向かせた上で真っ赤な双眸をルスティアへと向けた。
「……貴様、あれらがいると知っていて主様をここまで連れて来たな?」
険を帯びるその表情は、もしも冗談の一つでも口にすれば自分が先程の魔導人形と同じ末路を辿らされてしまうような、そんな気配すらするものであった。
稀に契約出来る上位にいる〈使い魔〉は姿を現さずとも主の行動を理解する事が出来るというが、どうやらそれは金龍ともなれば当然可能なようだ。
どうやら自分の行いが見抜かれたのかと観念したルスティアが両手を挙げて「説明するよ」とだけ短く答えると、ファラは再び鼻を鳴らしてルスティアの肩から手を放し、腕を組んでみせた。
一体何があったのかと慌ててファラに駆け寄ったスイが何かを尋ねる前に、ルスティアがその端を切った。
「アルドヴァルド王国が動き始めたらしい。狙いはキミだよ、スイ。いや、正確に言うならキミとキミのお姉さんだ」
「え……?」
唐突なルスティアの物言いに、スイが思わず声を漏らす。
「まずは何処から説明するべきかな。まず、僕らがどういった存在か。それを知ってもらうべきかもしれないね。
僕とネルティエは、『螺旋の魔女』とかつて呼ばれていたノルーシャ様の弟子なんだ」
ルスティアが相変わらずの柔らかな笑みを浮かべて、説明を始めるのであった。
◆ ◆ ◆
宵闇の支配したヴェルディア魔法学園の屋上に、一人の女性が佇んでいた。
桃色の髪を揺らし、丸い眼鏡をかけた女性。身体は長い白衣に包まれ、ポケットに両手を突っ込んだまま、眼下に広がる闇を見つめる。
「……人の作品に手を出しておきながら、今度は私達の『希望』まで欲する。まったく、人の業というものはいつの時代も変わらずに――醜く度し難い」
涼やかな口調で呟かれたその言葉は、まだ春先のヴェルディア大陸を吹き抜ける冷たい風によって運ばれていく。髪を揺らした風の悪戯を、右手をポケットから出して指先で抑えた女性。
そんな彼女の後方で眩く白い光が弾けた。
左右にバサッと音を立てて広がる6枚3対の真っ白な翼が、集まった光を宵闇の広がる空へと霧散させる。
灰色――というよりも限りなく白に近い長い髪が頭頂部で真ん中で分けられ、まっすぐ豊満な胸元まで下りている。白いドレスは足すらも隠してしまいそうな程の長さであり、僅かに裸足の指先が姿を覗かせていた。
地面に足をつけずに僅かに中空に浮くような形で姿を現した、白の女性。
その姿に桃色の髪をした女性――アンビー・ニュタルは振り返りもせず、ただ何も言わずに沈黙を貫いて背中を向けていた。
「我が主様、お客様がお見えになられたようです」
鈴を転がすような、それでいてどこか蠱惑的な声だった。
主であるアンビーに向かって彼女はそれだけを告げた。
ほんの半年程前は、このヴェルディア魔法学園の『研究科』に在籍していたアンビー。どこかマッド・サイエンティスト地味た思考の持ち主でありながら、スイに接点を持っていた一人の女性研究者。
噂ではこのヴェルディア王国のどこぞの研究機関――魔法や魔導具を扱う研究機関であり、禁忌指定情報などから発展に弊害とならないかを調べる機関――へと就職したはずの彼女は、どういう訳かこのヴェルディア魔法学園の屋上で、天魔と呼ばれる上位に属する天使を〈使い魔〉として携え、姿を現していた。
それほどの能力があるのであれば、『研究科』というマイナーな場所よりも『魔術科』に入るべきだろう。
もしも魔法学園の生徒がそれを見ていれば、必ず誰もがそう口を揃えて言ったに違いない。
語尾に「ッス」とつけた、どこか馴れ馴れしくも飄々とした彼女の面影は、この場には存在しない。
静謐な宵闇を背に纏って佇むその姿は、なるほど天使が主と仰ぐのもさして違和感を覚える光景ではなかった。
ようやく扉が開かれ、姿を現したのは金髪の少年――ルスティアであった。
天使が振り返るその向こうで、それでもアンビーは一切振り向こうともせずに来訪者へと声をかけた。
「与えた情報は早速役に立ったみたいだね。何よりだよ」
それだけを告げて、アンビーは相変わらず両手を白衣のポケットに突っ込んだまま顔を向け、不敵な笑みを浮かべた。
「……スイを狙ったアルドヴァルド王国の手先が動き出した。そうお師匠様にお伝えになったのも、アナタだったんですか?」
「あぁ、ノルーシャとは旧知の仲でね。きな臭い動きを見せている連中の情報を彼女に教えれば、彼女が動くかと思ってね」
ぴくりとルスティアの眉が動いた。
ルスティアの師である『螺旋の魔女』と呼ばれた女性、ノルーシャ。
そんな彼女の名を呼び捨てにして、旧知の仲であるとまで告げる目の前の女性。そして、彼女のすぐ傍に控えている天使。
確か、ノルーシャがかつて自分が何者かであるかを証明する為に、「知人の〈使い魔〉だ」と言って紹介した天使こそが彼女であったはずだ。
確かにノルーシャと天使の主であるアンビーは繋がりを持っているようだ。
だが、それが一体何者なのかまではルスティアもまだ想像こそつくが確信は持てていない。
「……まったく、僕の諜報能力も自信がなくなりそうです。アナタの正体に対して得られた情報が、あまりにも少なすぎて」
「へぇ、聞かせてもらっても良いかな?」
「えぇ。アルドヴァルド王国より留学してきた生徒である事であり、ニュタルの家名を持つ者はアナタしかいないこと。それに、ノルーシャ様の旧知の知人であり、半年程前はアルドヴァルド王国の使者として、ヴェルディア王国の国王に謁見した人物、です」
「そこまで調べられたなら、十分じゃないかな?」
「いいえ。それもこれも、簡単に出てきた情報――つまりは泳がせて良い瑣末な情報に過ぎないということでしょう。実際、僕はアナタに対してはそれら以外の情報を何一つ得る事も出来ていないのですから。
こう見えても、ガルソ王国では諜報員として育てられた存在なんですけどね。自信はある方なんですよ?」
「諜報員、ね。なるほど、ノルーシャの弟子としてやって来た割にはずいぶんと良い眼と耳をしていると思っていたけど、そういう事か」
「えぇ。ちなみに、この事はノルーシャ様もとっくに存じている内容ですので。僕が王国の指示によってお師匠様のもとにいる事を知らないのは、姉弟子のネルぐらいなものですよ」
「つまり、脅しには使えない、と? ふふ、キミもずいぶんと面白そうだ」
アンビーがここに来てようやく、興味を示したかのような反応をした。
先程までは路傍の石を見るような顔をしていたが、どうやらその評価は改めてもらえたらしい。
ルスティアはそれを確信すると、愛想良く振りまいていた笑顔を真顔へと切り替えた。
「――それで、アナタは一体何者なんですか? 僕の予想では、恐らくノルーシャ様と同位の存在。つまりは『魔女』の一柱であると、そう踏んでいる訳ですが」
「……ふむ。まぁノルーシャの弟子に明かす分には特に問題はないだろうね」
アンビーはポケットから手を取り、眼鏡を外す。
ただそれだけの行為であったにも関わらず、纏っていた空気ががらりと色を変えたと感じ取ったルスティアは、自然と頬を伝った汗に気付いていなかった。
重圧、緊張。圧倒的な格の違い。
そういったものがこの場には充満し、溢れ、ルスティアを呑み込んだ。
――あぁ、今日は厄日なのかもしれない。
頭の中でそんな益体もない考えを巡らせて、ルスティアは溜息を吐いた。
スイを何とか襲撃者達から戦っても安全な場所へと案内し、戦いが終わったと同時に金龍であるファラに睨まれ、命の危険を覚えた。
どうにか自分が『螺旋の魔女』の弟子であるという事と、アルドヴァルド王国が動き出しているという事については指摘出来たが、まだどこか信じていない様子であった。
極めつけは、情報提供者――つまりはこのアンビーから、屋上に顔を出すように告げられ、いざ来てみればこの冗談ではない程のプレッシャーを正面からぶつけられる始末である。
幼い頃から諜報員として育てられていたルスティアだからこそ泣き出したりもこそしないが、もしも許されるならこんな状況、今すぐにでも背を向けて逃げ出したい気分である。
「さて、改めて自己紹介といこうか。私はキミが言った通り、ノルーシャの同胞だよ。
――『断崖の魔女』アンビー。それが、私の本当の名だ」
「……まさか。いや、どうやら嘘という訳ではなさそうだ」
ちらりと天使へと視線を向けたルスティアの問いかけに、天使が頷いて答えた。
その仕草はつまり、アンビーと名乗るこの女性こそが、ルスティアとネルティエ二人の師であるノルーシャと同じく『魔女』であり、『断崖の魔女』だという証左であった。
「やれやれ……、まったくもって今日は厄日だよ。こんな所で『魔女』の一人に会えるなんてね」
皮肉する言い回しは果たして自分が幸運と言うべきか、それとも不運だと嘆くべきか分からないルスティアの正直な言葉であった。
確かに嘆いていたい気分だが、今はそれどころじゃない。
「それで、『断崖の魔女』様。どうしてアナタがここに? 母校が懐かしくなった、という訳でもないでしょうけど」
「あぁ、ちょっとばかり計画を変更しようと思ってね」
「計画?」
「『銀の人形』。彼女は私が連れて帰るよ」
「……それは承服しかねますね。ノルーシャ様からの命令ですので」
「ノルーシャには私から伝えておこう。まぁキミが関与するべき問題じゃないからね。悪い事は言わないから、手を引くんだね」
アンビーの言葉に、ルスティアは逡巡した。
確かにアンビーが『断崖の魔女』である事は間違いないだろう。
天使の証明、とでも言うべきそれがついた、お墨付きだ。そこを疑うのは無駄というものだろう。
同時に、自分の師であるノルーシャとの関係も理解出来ない訳ではない。
かつて『魔女』は、それぞれに交友を深めていたのだと聞かされている上に、今回のアルドヴァルドの動きをノルーシャに告げたのも、このアンビーだろう。
――――そもそもルスティアがこの街に来たのは、ネルティエの失敗が原因だ。
彼女はスイがこの街にいる間の『監視と保護』を命じられているのである。
しかし、一年前の夏、続いて冬。
一年で二度も観察対象とも呼べるスイを他国に連れ去られてしまったのだ。
ネルティエの言い分も不幸の連続としか言えない内容ではあったが、いずれにせよ今回のアルドヴァルド王国介入の動きは見過ごせず、それらと相まってルスティアも祖国であるガルソ王国を離れ、わざわざこのヴェルディア大陸へとやって来たのだ。
師の命令は、スイと『銀の人形』を守ること、だ。
最悪、戦火が迫るようならば彼らを連れて帰るようにとも言われている。
夕方には運命共同体であるネルティエも、件の『銀の人形』ことアーシャと接触しているはずだが、スイと別れて間もなくここにきたルスティアは、そちらで何が起こったのかまでは理解しているはずもない。
情報交換が出来ていない以上、今のこの場では自分の裁量が要求される。
師の命令と、師と同じ『魔女』の言い分。
どちらを取るかは――自明の理だ。
「……どういうつもり、かな?」
「どうもこうも、それを引き受けるつもりはないという事ですよ――」
制服の下に隠していたらしいナイフシースから二本の短剣を両手に取り、ルスティアは腰を落として構えていた。
「――何せお師匠様は頑固でして。勝手をすれば、僕らとしても命を儚いものだと理解させられかねないのでね。まったく、痛し痒しといったところです」
笑顔で告げるルスティアの眼光は、その笑顔とは裏腹に鋭く光っていた。
油断なく勝機を探っている狩人然としたその目付きに、アンビーも「ほう」と喉を鳴らした。
相手は自分などでは到底手が届かない師と同じ存在、『魔女』。
そんな彼女にどうすれば一矢を報いることが出来るか、それを探っている。
「……はぁ、ホントに今日は厄日ですよ」
ついつい本音が漏れる。
もはやルスティアにとっては口癖となりそうな程であった。
――もしかしなくても、殺されるかもなぁ。
そんなどうしようもない悲観を抱く程に勝算などなく、同時にそれを受け入れても命の灯火が消される予感しかしない。
そんな冗談は置いておいても、少なくとも彼の師はあくまでも『断崖の魔女』ではなく、『螺旋の魔女』だ。
ただそれだけで、従うか従うつもりなく抗うかは悩む必要すらない。
しばしの睨み合い。
ルスティアが自分の不幸な立場に嘆いていた怨嗟が通じたのか、アンビーがふっと笑って眼鏡をかけ直す。
同時に、先程から自分に向けられていたプレッシャーがふっと和らいだ。
「しょうがない。順序を踏んでノルーシャに先に伝えておこう。――ただし、分かっているかな? もうあまり時間はないだろうね」
「……見逃してくれる訳ですか。
それぐらいは当然、言われなくても理解してますよ。何せさっき襲われたばかりですし、ね」
ふっと緊張状態から解放されてルスティアが笑う。
「助けてあげたいのは山々だけど、今アルドヴァルドと私が事を構える訳にはいかないのでね。自力で何とかしてくれたまえよ――」
それだけを告げると、アンビーはトン、と足のつま先を地面に当てて、アンビーは中空に魔法陣を描いた。
そして、振り返る。
「――結果如何では、キミ達の命では済まない程の被害を引き起こすことになるだろうね」
転移型と思しき魔法陣にくぐって姿を消していくアンビーを見送り、天使がふっと姿を消していく。
そこでようやく、ルスティアは深い溜息を吐いた。
「……責任重大だな、これは……」
最後の最後で脅しとも取れる言葉を投げかけられるなど、思ってもみなかったルスティアである。へなへなと力なく地面に座り込んで空を見上げて呟いたその言葉は、夜空へと吸い込まれていくのであった。
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アーシャとネルティエの二人が邂逅し、その口から『螺旋の魔女』について語られていたその頃。
一人残って生徒会室で魔力操作の練習を続けていたスイが、ゆっくりとその力を霧散していく。
アーシャの妨害がなければ簡単にいくのにと、どこか腑に落ちない様子で溜息を吐いたスイは、今日はここまでにして教会に帰ろうと生徒会室を後にした。
生徒会室を出た頃には、すっかり窓の外に見える空も薄っすらと群青色に染まり、色濃い闇が空の向こう側を染め始めていた。
学園の敷地内からは生徒の声もなく、静けさが漂う。
スイの靴が奏でる乾いた音だけが廊下に響き渡るようだ。
しばらく進んだ先で、スイはふと通り過ぎた教室の中にいた一人の人影に気付き、足を止めた。
「――ルスティアさん?」
「ん……。やぁ、スイ君。こんな時間まで生徒会のお仕事かな?」
スイの声に気付いて振り返ったのは、先日の『魔術科』の説明会で同席した柔らかい笑みを湛えた少年、ルスティアだ。
「生徒会じゃなかったんですけど、ちょっと自習していて。あそこは魔法を撃っても修復されるみたいですから、練習にはちょうど良いんです」
「へぇ、空間に対する修復結界、か。さすがはヴェルディア魔法学園の生徒会室だね。そんなもの、なかなかお目にかかれるものじゃないからね。
……ふむ。これから帰りかい?」
「えぇ、そのつもりですけど。どうしたんです?」
「あぁ、うん。もし良かったら、生徒会室を見せてもらったり出来ないかな? あそこは一般生徒の立ち入りが禁止されていたはずだしね」
ルスティアの言葉にスイが僅かに逡巡する。
確かに生徒会室は一般生徒の立ち入りは基本的には禁じられている。
生徒会役員の腕章が扉を閉じる施錠魔法を解く鍵の役割を果たす為、無断で入る事は不可能となっており、同行するか、或いは何かしらの用事があって中に生徒がいない限りは入る事は出来ないだろう。
特に関係者以外立ち入り禁止という訳ではないが、やはり生徒会室はその敷居の高さから冷やかしに行くというのはなかなか難しいのだろう。
この日は特に急いで帰る必要もなく、スイがようやく答えを出す。
「別に構いませんけど……」
「そうか! ならその方が有り難い。……ちょっと物騒な客人がいるみたいだからね」
声を被せるような勢いで告げられたルスティアの返答。
最後の一言はスイの耳には届かず、スイはルスティアを連れて生徒会室への道を引き返す事になったのであった。
「それで、ルスティアさん」
「あぁ、ルティで良いよ。親しい人からはそう呼ばれているんだ。編入してきたのに、まだ友人らしい友人も出来ていないからね。キミにはその第一号になってもらいたいね」
「へぇ、なんか意外ですね。ルスティアさんは友達とかすぐに出来そうなのに――」
「――ルティだよ」
「え、っと、ルティさん。どうしてあんな所に一人でいたんですか?」
廊下を歩く二人の足音が鳴り響く中、スイがルスティアに尋ねた。
先程までルスティアがいたのは、彼のいるべき8年生の教室という訳ではなく、使われていない空き教室の一つだ。用事がなければあんな所にいる理由もないだろう。
何かの授業で忘れ物でもしたのかと楽観的な考え方で尋ねたスイであったが、ルスティアは答えに困ったように頬を掻いた。
「いやぁ、ちょっと待ち人に約束をすっぽかされてしまってね。どうしたものかと途方に暮れながら外を見ていたのさ」
「待ち人? あ、ネルティエさんですか?」
「へぇ、どうしてそう思うんだい?」
「さっきルティさん、親しい友人がいないって言っていたので。あの説明会の時の雰囲気から察するに、ルティさんと待ち合わせするとなるとネルティエさんぐらいなものなのかなって」
「う……あはは……、友達がいないって言われるのはちょっとばかり胸にくるものがあるかな。あぁ、気にしないでくれよ。正解だからね」
悪気なく辛辣な現実を突き付ける形となったスイの言葉に、ルスティアは苦笑混じりにそう答えると、肩を竦めて首を左右に振った。
「ネルとは幼馴染でね。まぁ彼女がこの街に留学するって決まってからは、年に一度か二度ぐらい顔を合わせる程度になってしまっていた訳だけども。そんな訳だから、ちょっとは旧交を温めようかと思ってね。だけどまぁ、結果はこのザマだよ。
せっかく転入してきた幼馴染に対して、ずいぶんな仕打ちだとは思わないかい?」
「う、うーん……。あはは……」
そうは言われても反応に困る、というのがスイの率直な感想であり、スイが苦い笑いを浮かべながら答えを誤魔化した。
スイが誤魔化して視線を外した姿を確認して、ルスティアは歩く速度を意図的にわずかに落とし、スイの視界から外れてみせた。
柔らかな笑顔を浮かべていたルスティアの表情はすっと真剣なものへと切り替わり、後方にちらりと視線を向ける。
「……さて、スイ君。外もずいぶん暗くなってきたし、ちょっと急ごうか」
「え? あ、そうですね」
自分から生徒会室を見たいと言っておきながら急かしてみせるルスティアに、特にスイは苛立ったりもせずに素直に応じる。そんなスイの素直な態度に、心配になってしまうのはルスティアであった。
――なるほどね、やっぱりまだまだ普通の子供、という訳か。
前を歩くスイの背中を見つめながら、ルスティアは改めてスイを心の中でそう評価するのであった。
生徒会室へと再び入ってきたスイの横で、ルスティアは興味津々といった様子で生徒会室の中を見回していた。
遺失されてしまった技術の集まった生徒会室。
建物の外観からは考えられない程の広大な広さや、中空を貫いた大理石で出来た廊下など、見慣れていないルスティアにとってみれば全てが初見。新鮮に映るのも無理はなかったようだ。
一頻り周囲を見回した後で、ルスティアが振り返って円卓のある奥を指差した。
「さすが、としか言葉が出て来ないよ。スイ君が魔法の練習をしているのはあの奥かい?」
「そうですよ」
「よし、行こうじゃないか」
ぐいぐいとスイの腕を引っ張ってルスティアが小走りに廊下を走り出した。
その姿はまるで、一刻も早く遊びに行こうとするチェミを彷彿とさせるような微笑ましさがあったが、ちらりと振り返ってスイの後方――生徒会室の扉を見つめたルスティアの顔に、スイが感じていた微笑ましさが霧散する。
鋭い眼光が睨み付けるように捕らえた扉。
そして、ほぼ同時に扉が乱暴に開かれた。
ぞろぞろと中へと入ってきた、身長にしてみれば120センチ程度の者達。
黒いボロボロの外套に身を包んだ何者か達は、その外套の裾から銀色の刃を覗かせていた。
「――ッ!?」
「走れッ!」
突然の来訪者。
後方から現れた何者か達に動揺し、足を止めかけたスイへとルスティアの叫び声が届けられ、腕をさらに強く引かれた。
転びそうになりながらも、駆け出したルスティアに置いていかれないようにスイが懸命に走り、円卓の向こう側である草原へと駆け抜け、そこでようやく二人が足を止めて振り返る。
「い、今のは?」
「招かれざる客、とでも言うべきかもしれないね。スイ君、ここで迎え討つけど、準備は出来ているかい」
ルスティアの顔はいつもの柔らかな微笑みとは異なった、真剣な表情だった。眼には鋭い眼光を宿し、ルスティアがスイに視線も向けずに言い放つ。
それは質問ではなく、否応なくとも対処しろという指示だ。
ルスティアの態度にスイも咄嗟に気持ちを切り替え、来訪者達を敵として認識し、力強く頷いた。
「――良い顔だね。戦い慣れているのかい?」
「えぇ、まぁ。それなりに色々ありましたから」
この一年間、スイがただの学生生活を送っていたのであれば、こんな事態で咄嗟に頭を切り替える事は出来なかっただろう。
タータニアとの旅、ブレイニル帝国の急襲。
そのどちらもが今ではスイにとっての一つの成長の糧となり、『戦う』というそのものに対する覚悟や意識を構築させていた。
ルスティアの横顔から視線を後方に向け、駆けてきた何者か達に向ける。
色々と隣の少年に問いたい事も多々あるが、スイはそれを口にはしようとはしない。
前方にやってきた何者か達が凶器を手にしている以上、道を尋ねるだけという訳でもないのはまず間違いないのだ。
「ところで、スイ君」
「スイで構いません。何ですか?」
「……分かったよ、スイ。キミは純粋な魔法使いとしての戦い方に慣れているかい? つまり、後方からの魔法攻撃に」
「前に出て戦うよりは、です。まだ経験豊富とは到底言えませんけど――」
「――上々だ。なら、後方から戦うと良い。灰燼にするなり串刺しにするなり、ご自由に」
あっさりと言い放つルスティアの言葉に思わずスイが慌てて振り返った。
ルスティアにとってみれば何ら迷いはないようで、特に強がって意気込んでいるという様子すら見えない。これは当然の選択肢だと言わんばかりの表情だ。
その顔に、スイはぴくりと眉を動かした。
「殺せ、と言うつもりですか?」
「殺せって言うのはちょっと違うかな。正確には――」
ルスティアが言葉を区切り、両手に魔力を集めて氷の短剣を作り上げた。
「――壊せ、だよ。アレらは人じゃない。遠慮なんてしなくていい」
それだけ告げて、姿を見せた敵を見るなりルスティアがぐんと上体を前傾させて駆け出した。
地を蹴り、肉薄していくその動きは魔法使いのオーソドックスな型とはまるで異なる。むしろ彼の動きは、斥候や暗殺者といった類に近かった。
敵の数は4。
横並びに陣を取った襲撃者達は、フードに隠れた暗闇の中から赤い光をルスティアに向けると、周囲に散開した。
ルスティアに対峙するように刃を構えた者は、中央に位置していた2体のみ。一番外側に離れていた左右の2体は、ルスティアには見向きもせずにスイに向かって駆け出した。
「……ッ、チッ! スイ、少しで良いから時間を――!」
自分に集中してくれるものかと踏んでいたルスティアのアテは外れ、彼ら――と言って定かであるかは疑問ではあるが――は予定通りにスイを狙って肉薄する。
まさか自分を無視するとは思っておらず、思わずルスティアが舌打ちしてスイへと声をかける。
純粋な魔法使いであれば、接近戦は分が悪い。
このままではスイが不利だと考え、ルスティアは慌てて踵を返そうと地面に足を滑らせながらちらりと振り返る。
その瞬間――眩い白金色の光が弾け、戦場となっているこの状況には似つかわしくない、嘲笑を孕んだ声がルスティアの耳に届いた。
「――人形か。アーシャに比べればずいぶんと粗末なものだ」
ルスティアのそれよりも眩さを感じさせる明るい金色の長髪を揺らした、真っ白なワンピースを着た女性。
釣り上がった紅玉の瞳を湛えた目付きは、嘲笑を貼り付けたまま前方からやって来る襲撃者を睨み付ける。
スイの〈使い魔〉であるファラ――ファラスティナ――だ。
彼女やルスティアの言う通り、『銀の人形』――つまりはアーシャと同じく、襲撃者達は『魔道人形』と呼ばれる類の戦闘兵器だ。
アーシャのように自我を持っているそれとは違い、ただただ命令された内容を愚直に果たそうとする兵器に過ぎない。
つまり、この襲撃者達は『何者かによって命令を受けて襲撃している』というのは火を見るより明らか。それが一体、誰が、何を目的にしているのかはさて置き。
召喚光が消え去ると同時に姿を現したファラは、早速右手を横薙ぎに振り払う。
途端、進行方向に突然現れた火柱に、魔導人形達は思わずその足を止めた。
――あれが金龍か……。お師匠様の言う通りだ。
ちらりと振り返っていたルスティアはその光景に舌を巻きつつも、その前評判に違わぬ実力を見て感心していた。
ただの一振りで高さにして数メートルにもなろうかという火柱をあげるなど、人化も然ることながらその実力の一端には肝が冷やされる。
いつまでも感心している場合ではないと頭を切り替え、後方に散った襲撃者から意識を剥がしたルスティアは、前方に佇む2体の魔導人形に意識を集中させる。
両手に持った氷で造られた無愛想な刃を構え、さらに肉薄する。
斜めに振り下ろされた銀の刃を、身体を捻りながら躱してみせたルスティアは、そのまま更にもう一体の魔導人形を一瞥し、左手に構えていた氷の刃を投げ飛ばした。
当然その程度ならば対処するだけの実力はあるだろうと踏んでいたルスティアの想像通り、氷の刃を弾き飛ばした魔導人形。
しかしそれが、ルスティアの狙いだった。
「――残念、それは少しハズレだね」
ルスティアの柔らかな口調によって紡がれた、魔導人形への評価。
それを示すかのように、すでに氷の刃を投げ放ったルスティアの左手から、新たに氷の刃が投げ飛ばされ、魔導人形のがら空きになった身体を狙いすまし、頭部と思しき赤い光を放った瞳に突き刺さる。
仰け反るように倒れていく魔導人形を一瞥しつつも、ルスティアはすぐに意識を切り替え、自分と近い位置にいる魔導人形に向かって、両手に握っていた氷の刃を投げ放つ。
さすがに学習能力はあるのか、こちらはどうやら弾いて対処しようとはせずに後方へと跳んで逃げたようだ。
面倒だと思う間もなく、ルスティアはぴたりと足を止めた。
――瞬間、後方に跳んだ魔導人形を、横合いから白に近い金色の光線が呑み込み、ジュッと音を立てて上半身を消失させた。
唖然とした顔でルスティアがその光の出処を見つめると、ファラが魔導人形の立っていたその位置に向けて手を翳したまま、退屈そうに鼻を鳴らしていた。
もしも今の魔力に気付かなければ、肉薄していた自分もろとも消されそうな一撃を放っていながら、それに悪気など一切感じていない様子だ。
「さっさと終わらせれば良かろう」
「あはは……、僕は魔力量が低いからね。そういう強力な魔法はちょっとしんどくて、ね」
苦笑しながらルスティアがファラへと答えた後でスイへと視線を向けると、スイの目の前には銀色の魔法陣が浮かび上がっていた。
膨大な魔力を使った『無』の魔法はその規模の大きさだけならば、周囲一帯を呑み込みかねない程の威圧感を与えている。
アーシャの言う『無駄の多い魔法』の使い方はまさしくこれの事であり、同時にそれだけの魔力量を要する『無』の魔法とは一体どういったものなのか、ルスティアは困惑の中でその光景を見つめていた。
そして、スイの魔法が発動した。
重く巨大な何かが這いずるような、ズズズッと響く音。
炎の壁で足止めされていた魔導人形がようやく迂回し、スイへと肉薄しようと試みている最中に、それらの周囲で景色が――世界が歪む。
対象となった魔導人形の上半身をすっぽりと消失させたその空間に、ルスティアは思わず目をむいた。
伝聞でしか聞かなかった『無』の魔法ではあるが、その巫山戯た能力はどうやらルスティアが想像していたそれ以上のものがあるようだ。
――参ったな……。ネルにも報告しておくべき内容が増えたみたいだ。
率直な感想を頭の中に浮かべながら、ルスティアは最初に無力化した魔導人形へと足を向けて歩いて行く。
目のような役割を果たしていたその光は既に失われ、身体を構築していたのは擬似的に魔力でその形を造らせただけの簡素な魔導人形であったらしく、外套の中身は華奢な骨組みに刻印が刻まれた木だけだ。
持ち運びに長けた簡素な魔導人形。
どうやら、ルスティアが手に入れたとある筋の情報通りのようだ。
検分していたルスティアへと歩み寄るスイ。
しかしそれよりも先に、ファラがルスティアの肩を掴み、振り向かせた上で真っ赤な双眸をルスティアへと向けた。
「……貴様、あれらがいると知っていて主様をここまで連れて来たな?」
険を帯びるその表情は、もしも冗談の一つでも口にすれば自分が先程の魔導人形と同じ末路を辿らされてしまうような、そんな気配すらするものであった。
稀に契約出来る上位にいる〈使い魔〉は姿を現さずとも主の行動を理解する事が出来るというが、どうやらそれは金龍ともなれば当然可能なようだ。
どうやら自分の行いが見抜かれたのかと観念したルスティアが両手を挙げて「説明するよ」とだけ短く答えると、ファラは再び鼻を鳴らしてルスティアの肩から手を放し、腕を組んでみせた。
一体何があったのかと慌ててファラに駆け寄ったスイが何かを尋ねる前に、ルスティアがその端を切った。
「アルドヴァルド王国が動き始めたらしい。狙いはキミだよ、スイ。いや、正確に言うならキミとキミのお姉さんだ」
「え……?」
唐突なルスティアの物言いに、スイが思わず声を漏らす。
「まずは何処から説明するべきかな。まず、僕らがどういった存在か。それを知ってもらうべきかもしれないね。
僕とネルティエは、『螺旋の魔女』とかつて呼ばれていたノルーシャ様の弟子なんだ」
ルスティアが相変わらずの柔らかな笑みを浮かべて、説明を始めるのであった。
◆ ◆ ◆
宵闇の支配したヴェルディア魔法学園の屋上に、一人の女性が佇んでいた。
桃色の髪を揺らし、丸い眼鏡をかけた女性。身体は長い白衣に包まれ、ポケットに両手を突っ込んだまま、眼下に広がる闇を見つめる。
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涼やかな口調で呟かれたその言葉は、まだ春先のヴェルディア大陸を吹き抜ける冷たい風によって運ばれていく。髪を揺らした風の悪戯を、右手をポケットから出して指先で抑えた女性。
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地面に足をつけずに僅かに中空に浮くような形で姿を現した、白の女性。
その姿に桃色の髪をした女性――アンビー・ニュタルは振り返りもせず、ただ何も言わずに沈黙を貫いて背中を向けていた。
「我が主様、お客様がお見えになられたようです」
鈴を転がすような、それでいてどこか蠱惑的な声だった。
主であるアンビーに向かって彼女はそれだけを告げた。
ほんの半年程前は、このヴェルディア魔法学園の『研究科』に在籍していたアンビー。どこかマッド・サイエンティスト地味た思考の持ち主でありながら、スイに接点を持っていた一人の女性研究者。
噂ではこのヴェルディア王国のどこぞの研究機関――魔法や魔導具を扱う研究機関であり、禁忌指定情報などから発展に弊害とならないかを調べる機関――へと就職したはずの彼女は、どういう訳かこのヴェルディア魔法学園の屋上で、天魔と呼ばれる上位に属する天使を〈使い魔〉として携え、姿を現していた。
それほどの能力があるのであれば、『研究科』というマイナーな場所よりも『魔術科』に入るべきだろう。
もしも魔法学園の生徒がそれを見ていれば、必ず誰もがそう口を揃えて言ったに違いない。
語尾に「ッス」とつけた、どこか馴れ馴れしくも飄々とした彼女の面影は、この場には存在しない。
静謐な宵闇を背に纏って佇むその姿は、なるほど天使が主と仰ぐのもさして違和感を覚える光景ではなかった。
ようやく扉が開かれ、姿を現したのは金髪の少年――ルスティアであった。
天使が振り返るその向こうで、それでもアンビーは一切振り向こうともせずに来訪者へと声をかけた。
「与えた情報は早速役に立ったみたいだね。何よりだよ」
それだけを告げて、アンビーは相変わらず両手を白衣のポケットに突っ込んだまま顔を向け、不敵な笑みを浮かべた。
「……スイを狙ったアルドヴァルド王国の手先が動き出した。そうお師匠様にお伝えになったのも、アナタだったんですか?」
「あぁ、ノルーシャとは旧知の仲でね。きな臭い動きを見せている連中の情報を彼女に教えれば、彼女が動くかと思ってね」
ぴくりとルスティアの眉が動いた。
ルスティアの師である『螺旋の魔女』と呼ばれた女性、ノルーシャ。
そんな彼女の名を呼び捨てにして、旧知の仲であるとまで告げる目の前の女性。そして、彼女のすぐ傍に控えている天使。
確か、ノルーシャがかつて自分が何者かであるかを証明する為に、「知人の〈使い魔〉だ」と言って紹介した天使こそが彼女であったはずだ。
確かにノルーシャと天使の主であるアンビーは繋がりを持っているようだ。
だが、それが一体何者なのかまではルスティアもまだ想像こそつくが確信は持てていない。
「……まったく、僕の諜報能力も自信がなくなりそうです。アナタの正体に対して得られた情報が、あまりにも少なすぎて」
「へぇ、聞かせてもらっても良いかな?」
「えぇ。アルドヴァルド王国より留学してきた生徒である事であり、ニュタルの家名を持つ者はアナタしかいないこと。それに、ノルーシャ様の旧知の知人であり、半年程前はアルドヴァルド王国の使者として、ヴェルディア王国の国王に謁見した人物、です」
「そこまで調べられたなら、十分じゃないかな?」
「いいえ。それもこれも、簡単に出てきた情報――つまりは泳がせて良い瑣末な情報に過ぎないということでしょう。実際、僕はアナタに対してはそれら以外の情報を何一つ得る事も出来ていないのですから。
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「諜報員、ね。なるほど、ノルーシャの弟子としてやって来た割にはずいぶんと良い眼と耳をしていると思っていたけど、そういう事か」
「えぇ。ちなみに、この事はノルーシャ様もとっくに存じている内容ですので。僕が王国の指示によってお師匠様のもとにいる事を知らないのは、姉弟子のネルぐらいなものですよ」
「つまり、脅しには使えない、と? ふふ、キミもずいぶんと面白そうだ」
アンビーがここに来てようやく、興味を示したかのような反応をした。
先程までは路傍の石を見るような顔をしていたが、どうやらその評価は改めてもらえたらしい。
ルスティアはそれを確信すると、愛想良く振りまいていた笑顔を真顔へと切り替えた。
「――それで、アナタは一体何者なんですか? 僕の予想では、恐らくノルーシャ様と同位の存在。つまりは『魔女』の一柱であると、そう踏んでいる訳ですが」
「……ふむ。まぁノルーシャの弟子に明かす分には特に問題はないだろうね」
アンビーはポケットから手を取り、眼鏡を外す。
ただそれだけの行為であったにも関わらず、纏っていた空気ががらりと色を変えたと感じ取ったルスティアは、自然と頬を伝った汗に気付いていなかった。
重圧、緊張。圧倒的な格の違い。
そういったものがこの場には充満し、溢れ、ルスティアを呑み込んだ。
――あぁ、今日は厄日なのかもしれない。
頭の中でそんな益体もない考えを巡らせて、ルスティアは溜息を吐いた。
スイを何とか襲撃者達から戦っても安全な場所へと案内し、戦いが終わったと同時に金龍であるファラに睨まれ、命の危険を覚えた。
どうにか自分が『螺旋の魔女』の弟子であるという事と、アルドヴァルド王国が動き出しているという事については指摘出来たが、まだどこか信じていない様子であった。
極めつけは、情報提供者――つまりはこのアンビーから、屋上に顔を出すように告げられ、いざ来てみればこの冗談ではない程のプレッシャーを正面からぶつけられる始末である。
幼い頃から諜報員として育てられていたルスティアだからこそ泣き出したりもこそしないが、もしも許されるならこんな状況、今すぐにでも背を向けて逃げ出したい気分である。
「さて、改めて自己紹介といこうか。私はキミが言った通り、ノルーシャの同胞だよ。
――『断崖の魔女』アンビー。それが、私の本当の名だ」
「……まさか。いや、どうやら嘘という訳ではなさそうだ」
ちらりと天使へと視線を向けたルスティアの問いかけに、天使が頷いて答えた。
その仕草はつまり、アンビーと名乗るこの女性こそが、ルスティアとネルティエ二人の師であるノルーシャと同じく『魔女』であり、『断崖の魔女』だという証左であった。
「やれやれ……、まったくもって今日は厄日だよ。こんな所で『魔女』の一人に会えるなんてね」
皮肉する言い回しは果たして自分が幸運と言うべきか、それとも不運だと嘆くべきか分からないルスティアの正直な言葉であった。
確かに嘆いていたい気分だが、今はそれどころじゃない。
「それで、『断崖の魔女』様。どうしてアナタがここに? 母校が懐かしくなった、という訳でもないでしょうけど」
「あぁ、ちょっとばかり計画を変更しようと思ってね」
「計画?」
「『銀の人形』。彼女は私が連れて帰るよ」
「……それは承服しかねますね。ノルーシャ様からの命令ですので」
「ノルーシャには私から伝えておこう。まぁキミが関与するべき問題じゃないからね。悪い事は言わないから、手を引くんだね」
アンビーの言葉に、ルスティアは逡巡した。
確かにアンビーが『断崖の魔女』である事は間違いないだろう。
天使の証明、とでも言うべきそれがついた、お墨付きだ。そこを疑うのは無駄というものだろう。
同時に、自分の師であるノルーシャとの関係も理解出来ない訳ではない。
かつて『魔女』は、それぞれに交友を深めていたのだと聞かされている上に、今回のアルドヴァルドの動きをノルーシャに告げたのも、このアンビーだろう。
――――そもそもルスティアがこの街に来たのは、ネルティエの失敗が原因だ。
彼女はスイがこの街にいる間の『監視と保護』を命じられているのである。
しかし、一年前の夏、続いて冬。
一年で二度も観察対象とも呼べるスイを他国に連れ去られてしまったのだ。
ネルティエの言い分も不幸の連続としか言えない内容ではあったが、いずれにせよ今回のアルドヴァルド王国介入の動きは見過ごせず、それらと相まってルスティアも祖国であるガルソ王国を離れ、わざわざこのヴェルディア大陸へとやって来たのだ。
師の命令は、スイと『銀の人形』を守ること、だ。
最悪、戦火が迫るようならば彼らを連れて帰るようにとも言われている。
夕方には運命共同体であるネルティエも、件の『銀の人形』ことアーシャと接触しているはずだが、スイと別れて間もなくここにきたルスティアは、そちらで何が起こったのかまでは理解しているはずもない。
情報交換が出来ていない以上、今のこの場では自分の裁量が要求される。
師の命令と、師と同じ『魔女』の言い分。
どちらを取るかは――自明の理だ。
「……どういうつもり、かな?」
「どうもこうも、それを引き受けるつもりはないという事ですよ――」
制服の下に隠していたらしいナイフシースから二本の短剣を両手に取り、ルスティアは腰を落として構えていた。
「――何せお師匠様は頑固でして。勝手をすれば、僕らとしても命を儚いものだと理解させられかねないのでね。まったく、痛し痒しといったところです」
笑顔で告げるルスティアの眼光は、その笑顔とは裏腹に鋭く光っていた。
油断なく勝機を探っている狩人然としたその目付きに、アンビーも「ほう」と喉を鳴らした。
相手は自分などでは到底手が届かない師と同じ存在、『魔女』。
そんな彼女にどうすれば一矢を報いることが出来るか、それを探っている。
「……はぁ、ホントに今日は厄日ですよ」
ついつい本音が漏れる。
もはやルスティアにとっては口癖となりそうな程であった。
――もしかしなくても、殺されるかもなぁ。
そんなどうしようもない悲観を抱く程に勝算などなく、同時にそれを受け入れても命の灯火が消される予感しかしない。
そんな冗談は置いておいても、少なくとも彼の師はあくまでも『断崖の魔女』ではなく、『螺旋の魔女』だ。
ただそれだけで、従うか従うつもりなく抗うかは悩む必要すらない。
しばしの睨み合い。
ルスティアが自分の不幸な立場に嘆いていた怨嗟が通じたのか、アンビーがふっと笑って眼鏡をかけ直す。
同時に、先程から自分に向けられていたプレッシャーがふっと和らいだ。
「しょうがない。順序を踏んでノルーシャに先に伝えておこう。――ただし、分かっているかな? もうあまり時間はないだろうね」
「……見逃してくれる訳ですか。
それぐらいは当然、言われなくても理解してますよ。何せさっき襲われたばかりですし、ね」
ふっと緊張状態から解放されてルスティアが笑う。
「助けてあげたいのは山々だけど、今アルドヴァルドと私が事を構える訳にはいかないのでね。自力で何とかしてくれたまえよ――」
それだけを告げると、アンビーはトン、と足のつま先を地面に当てて、アンビーは中空に魔法陣を描いた。
そして、振り返る。
「――結果如何では、キミ達の命では済まない程の被害を引き起こすことになるだろうね」
転移型と思しき魔法陣にくぐって姿を消していくアンビーを見送り、天使がふっと姿を消していく。
そこでようやく、ルスティアは深い溜息を吐いた。
「……責任重大だな、これは……」
最後の最後で脅しとも取れる言葉を投げかけられるなど、思ってもみなかったルスティアである。へなへなと力なく地面に座り込んで空を見上げて呟いたその言葉は、夜空へと吸い込まれていくのであった。
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