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第六章 狂気は恐ろしくも時に甘く

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 孝之さんはなんとも言えない複雑な表情を浮かべていたけれど、最終的には「確かに山でのことは説明しないとならないか……」なんて言い訳っぽいことを言い出した。
 それで一緒にいてくれるなら別にいい。
 でも、少しだけもやっとしてしまって、その不満が顔に出ていたらしい。

「拗ねた顔も好ましいが、頼むから煽らないでくれ」
「っ」

 顔を寄せ、耳元にそんな台詞を寄越したのが地下鉄の中だった。
 明日の予定を鑑みて彼の実家の近くにあるビジネスホテルに部屋を取ることにしての移動中。ちょうど社会人、大学生、遊びに出ていた高校生らの帰宅時間に被ったようで車内は混雑しており距離が近いのは全く不自然じゃないから良いとしても、煽るなと言うなら自分も自重して欲しい。
 そう思って睨んだら頭にキスされた。
 判ってない!
 それから地下鉄を降りて、ビジネスホテルへ向かう途中にあったファミリーレストランで少し早い夕食を済ませた。ここの支払いは約束通り俺だったけど、その後で立ち寄ったコンビニの支払いは全部持っていかれてしまった。孝之さん曰く「少し込み入った話になるから、お詫びの前払いだ」って。
 一体どんな話をされるのか、さすがに不安になって来た。
 駅から真っ直ぐ歩いて来れば20分も掛からないだろう距離にあったビジネスホテルは一目でそれと判るとてもシンプルな外観で、駅近くという、事業所と住居が混ざり合う環境に違和感なく溶け込んでいる。
 最近は自分もホテルで出迎える側だったから「いらっしゃいませ」と声を掛けられることに多少の居心地の悪さを感じつつ、静かに手続きが終わるのを待つ。

「朝食は朝6時から9時まで、あちら左手側のレストランでバイキング形式となっておりますので時間内にご利用ください」
「ああ、ありがとう。行こうか」

 鍵を受け取った孝之さんに声を掛けられ、二人でエレベーターに乗り込んだ。
 部屋は五階。
 このホテルの最上階だった。


 建物が細長いのは外観からも明らかで、廊下はすれ違う人がいれば体を傾ける必要があったし、部屋も各フロアに四部屋ずつで、扉の間隔から見てもそんな広い部屋でないのは間違いない。
 だが部屋にはユニットバス・トイレがあって、シングルベッドが二つ。
 書類仕事がし易そうなデスクの上には光量を調節可能な照明が設置されている他、小さな冷蔵庫と、グラスや湯呑と言った食器類も最低限揃っていた。更に窓際にはスクエア型のテーブルを挟んで一人掛けのソファが二つ。
 ……まずい、なんか、緊張して来た。

「奏介」
「は、はいっ」

 驚いて振り返ると、ハンガーを差し出した孝之さんが苦笑交じりに此方を見ていた。

「そんな緊張しなくてもいい。コートをこれに、……それから電話をするから、少しの間だけ静かに頼めるか」
「はい……」

 ハンガーを受け取り、それを手前のベッドの上に置いてコートを脱ぐ。
 そうしている間に孝之さんは自分の上着をクローゼットに掛け終えると、窓際に近付きながらスマホを操作してどこかに連絡を取り始めた。

「……お疲れさま」

 相手が出たのか、普段より少しだけぶっきらぼうな声がする。

「ああ、いま山を下りて市内にいる。明日そっちにも顔を出そうと思っているが厄介な事になってて……ああ、メールで知らせた件だな。……ああ……まさか。彼なら一緒にいるぞ」

 俺?
 驚いて彼を見たら、視線が重なった。

「当たり前だ、この状況で置いて来れるか。だから……ああ……おまえ、解ってるなら……いや、いい」

 それからしばらくは相槌を打つだけだった孝之さんは、だが。

「ああ。だから話せる範囲で事情は説明するが、いいな?」

 相手にそう確認を取る。

「そうだ。……その辺りはいまから本人に確認する。危険な真似をさせるつもりはないぞ。……それは判るが……わかった。ああ……だから、判ったと言っている」

 不機嫌そうな声。
 ものすごく不服そうに八の字になる眉。

「――それはまた今度な。用件はそれだけだ、明日な」

 ブツリと通話を切る直前に「待ってよ!」とスマホの向こうから大きな声が聞こえた気がしたのだが……。

「切って大丈夫なんですか?」
「問題ない。弟だしな」
「弟?」

 驚いて聞き返したら、孝之さんは少し困った顔で笑って「……こっちに」と窓際のソファに座るよう促した。それからさっきコンビニで買って来た水や、酒の缶を小型冷蔵庫にしまっていく。

「すみません、俺がやっておけばよかった」
「いや、静かにと頼んだのは俺だ……とりあえず話をしたいから、座ってくれ」

 反論は許しませんという雰囲気があって、俺は戸惑いつつも窓際の奥の方のソファに座る。
 孝之さんはしまわなかった水と、緑茶のペットボトルをテーブルの上に置くと自分も向かいのソファに腰を下ろした。

「さて……何から話そうか悩むが、まずは嘘を吐いていた事を謝りたい」
「嘘……?」
「俺はブロンシェの新入社員じゃないんだ」

 目を丸くする俺に、孝之さんは胸ポケットからカードケースを取り出して中から一枚の名刺を抜いてこちらに示す。

「俺の本当の職業は、これ」

 指差されたのは名刺の肩書部分。
 そこに書いてあった文字は――。

「弁護士……?」
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