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第六章 狂気は恐ろしくも時に甘く

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 あの後は俺も朝食を取り、フロントに戻ってからは次々と訪れるチェックアウトのお客様に対応した。
 藤倉部長は、寝ていたにも関わらず吉田課長が出勤した時点で退勤。
 後から来た清水さんに「はぁぁん?」ってすごい表情を浮かべさせていた。
 それから、孝之さんが車を取りに行くのに合わせて俺も山を下り、家族の顔を見て来るから戻りは17日の昼頃になりますという話をしたら、長谷川さんは声にならない歓喜の叫びを上げ、課長や清水さんは「気を付けろ」「また明後日ね」と笑顔で送り出してくれた。
 11時に退勤し、お昼ごはんを食べてから寮に戻って荷造りし、午後一のバスにウェルカムセンター前から乗車することになる。

「あ。そういえばこのバス代は……」
「カードで決済したよ」
「それお支払いします。空港行きと値段は同じだったかな……」

 スマホで調べようとしたら、その手を孝之さんの手が止められた。

「それは要らないから夕飯を奢ってくれ。実家に送るのはその後でもいいだろう?」
「……言い方が、ずるくないですか」

 暗にそれまで一緒に過ごしたいと言われて胸が高鳴る。
 睨んだら、孝之さんは薄く笑ってこめかみのあたりにキスをくれた。
 時間通りに停留所に来たバスに乗り込むと、やはりシーズンが始まっている事もあり11月半ばに空港から来たバスに比べれば乗客が多かった。
 とは言え二人並んで座るのにも場所を選ぶ余裕があるくらいで、前から四列目を選んだ。前後と、通路を挟んだ隣に乗客がいなかったからだ。
 俺が窓側、孝之さんは通路側。
 頭上に荷物を入れるロッカーもあるが俺達の荷物は二人とも鞄一つだから手元で充分だ。

「はぁ……」

 バスが動き出したところで孝之さんはとても深い息を吐き出した。
 何事かと見遣れば、ついさっきまで出来る男然と凛々しい佇まいを崩さなかったのに、今はとても疲れて見えた。

「大丈夫ですか……?」
「……君を無事に連れ出せてホッとした」
「……俺?」
「ああ……ここで出来る話ではないから、後で話す……すまないが、少し寝てもいいか」
「え……」
「すまん……」

 言うが早いか、隣り合った手を握られた。
 寝ると言ったのに握る手は力強く、まるで逃げないよう捕まえられている気分になる。
 ……違う。
 俺を無事に連れ出せたと彼は言った。
 もしかしたら自分の知らないところで何かがあったのかもしれない。

「……肩、枕にしますか?」
「ん……」

 目を閉じた孝之さんの頭が肩に乗せられて、同時にふわりと香ったのはいつものユーカリではなく寮のユニットバスに備え付けられているシャンプーの匂いだった。
 ほとんどの人が使っているし、俺だってそうだ。
 同じはずなのにどうして孝之さんから香るというだけでこんなにどきどきするんだろう。
 
「お疲れさまです、おやすみなさい……」

 バスが走る音に紛れるくらいの小さな声で告げて肩に乗せられている頭に口付けた。
 と、握る手は指と指が絡み放すまいと言いたげに力が増す。そのことを嬉しいと、この人が好きだなと思う自分を自覚したらカァァッと顔が熱くなってきた。
 恥ずかしい。
 その熱を誤魔化すように流れる窓の景色に視線を固定する。
 いつまでも彼を見ていたらとても口に出来ないような想像をしてしまいそうだった。……仕方ないんだ、俺だって男だもの。
 孝之さんが本当に寝入ってしまうまでそう時間は掛からなかった。
 俺は、彼の眠りを邪魔しないためになるべく動かないように努めながら空いている左手でスマホを操作。最近はあまり見ていなかった巷の話題記事を読み流していると、メッセンジャーアプリが新着を知らせてきた。
 俺にメッセージを送ってくるのなんて広告以外には家族と孝之さんだけ。
 案の定、それは兄からだった。
 うちの兄姉は年齢が離れており、学年で言ったら兄とは10、姉とは9つの差がある。
 上二人は年子なんだ。
 ちなみに孝之さんとは学年で言うなら8つ。いまは9歳差だけど来月には俺が23になるからね。

『年末にホテルに泊まるとき、お土産は持っていった方がいいか?』

 兄からのそんな内容に「いらないよ」と返信する。それから……更に打つ文字を躊躇った。実を言うと実家に今日帰宅することを伝えていないのだ。そもそも帰るつもりがなかったから家族は年末年始にホテルに泊まりにくることを決めた。なのにいま俺が帰るってどうなのかな、と。
 それに、せっかく山を下りたのに。
 一緒にバスに乗ることを決めたのだって孝之さんといられる時間が増えると思ったからだ。たまの機会なんだから少しでも長く二人きりの時間を過ごしたいし、寮では出来ないこともしたいな、と……ぅっ……付き合って間もないのに、もっと触りたいとか、触って欲しいって望むのは早いんだろうか。
 こういうのってそれなりに時間が経過してから段階を踏むべき?
 ほとんどの人間関係を「必要な時だけ」で割り切っている俺には経験が乏しすぎて正解が判らない。
 孝之さんはどうだろう。
 俺とそういうことをしたいって少しは考えてくれているんだろうか。
 キスだけで満足していたりは……。

「どうしよ」

 兄との交信画面を閉じ、思わず声に出して呟いてしまう。
 ほんと、どうしよう。


 バスは幾つかの停留所を経由し約二時間掛けて札幌駅前に到着した。
 孝之さんはそれより10分くらい早く目を覚まし、俺を二時間も動けなくしてしまったことを謝ってくれたがそんな必要はまるでない。

「不謹慎ですけど、疲れているのを見せてくれたのは、嬉しかったです」

 そう伝えたら少し照れたような顔になったのが印象的だった。
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