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第六章 狂気は恐ろしくも時に甘く

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「奏介」
「ん……」
「奏介、起きる時間だ。夜も食べていないんだから仕事前に何か食おう」
「え……?」

 孝之さんの声に導かれるように意識を浮上させて、ハッとする。
 真っ暗な部屋。
 至近距離に大好きな人の顔。

「えっ」
「おはよう」
「お、おはようございます……え……」
「いま夜中の12時だ。次は2時出勤だろ」
「え、っと、そうです……え……12時⁈」
「ああ」
「本当に夜中の? えっ、なん……俺、何時から寝てました⁈」
「遅番で上がってすぐだったから16時過ぎか」
「そ……えぇぇぇぇ……」

 一体何時間寝たの俺……すぐには信じ難い睡眠時間に驚き過ぎて固まっていたら、孝之さんがそっと頭を撫でてくれた。

「精神的に疲れさせていた自覚はある。ゆっくり寝られたなら良かったよ……頭が痛いとか、吐き気がするといった異常はあるか?」
「……いえ、とてもスッキリしています」
「なら、眠れて良かったと思っておけばいい」
「そんな……ぁ、孝之さんは眠れたんですか?」
「ああ」

 それならまぁ……って。

「着替えてる!」
「制服が皺になると困るだろ?」
「そ、……れはそうですけど!」

 ううう、いろいろ見られたんだろうか。
 既に温泉を一緒しているんだから今更な気はするけど、でも、……あ、中のTシャツはそのままだ。

「いろいろ、お世話になりました……?」
「ああ。だが着替えや寝顔を楽しんだからお互い様だ」
「ぐ……っ」
「ははっ」

 完全に揶揄われている。
 くっ。

「ところで食べるものは下のコンビニにでも行ってくるが、風呂はどうする?」
「……入りたいです」
「なら行こう」
「……行こう?」
「俺はいまようやく君の恋人の座を手に入れて浮足立っているんだ。君が使っている風呂には何人たりとも近付くのを許せそうにない」

 ……はい?




 孝之さんの様子がおかしい。
 絶対にオカシイ。
 やけに傍に居たがるし、それは俺も同感なのでこれ幸いと便乗しているがあくまで部屋の中だけのこと。仕事が始まればそちらに集中させて欲しい。
 さっきまでは彼もそのつもりだろうと思えるくらい部屋の外では普通だったはずなのに、急に……なんて言ったらいいのか、とにかくおかしい。
 何かあったのかと聞いても「詳しい話は山を下りたらする」とだけ。
 それに出勤時間が迫っているのは確かなので顔を洗うついでにサッとシャワーだけ浴びることにした。孝之さんは宣言通りに扉の前で張ってた。
 誰も通り掛かっていませんように……。
 食事は、コンビニなんて開いてませんよって言ったら驚かれた。

「コンビニだろ?」
「23時で閉まるのが山仕様です」

 言ったら絶句していたが、事務所に行けば大量のお菓子が保管されている。健康には良くなくても朝食まで保たせるのは充分に可能だと思う。
 そんなこんなで出勤したらカウンターにはアルバイトの木山くんがいて、事務所には藤倉部長がいた。
 そうと気付いた直後、後方にいた孝之さんから冷気が放たれたような気がしたんだけど、……まさかね。で、その部長も様子がおかしい。 
 俺達が入るや否や「仮眠を取る」って休憩室に引っ込んでしまったので、まぁ、見方を変えれば平和ということなのだが。

「日中はバタバタしましたが昨日の予約分は無事にチェックインが終わったんですね」

 コルクボードに貼られていた吉田課長からのメッセージにはその旨が記載されていた。
 だが、それを聞いた木山くんは苦笑い。

「その内の一組が20時くらいに到着したんだけどさ、強烈だったよー。吉田課長の電話対応が良かったから今回はいいけど、あの電話に出たスタッフは二度とフロントで使うなって」
「あはは……」

 なるほど、部長の様子がおかしいのはそれが原因か。
 あの人が反省するとは考え難いが落ち込む事くらいはありそうだ。
 ゆっくり寝たおかげで俺はまったく眠くならず、四時、木山くんが退勤した後は孝之さんと二人で数時間後のチェックアウト準備を進めていった。
 仮眠が本気寝になっているっぽい藤倉部長は放置。
 ゆっくり休んでいて欲しい。
 そうして7時前には長谷川さんが出勤。

「おっはよーございまーす! 朝から相田くんと五十嵐さんの顔が見られるとか至福。今年フロントで本当に良かった。……で、今日の社員さんは?」

 事務所をぐるりと見渡して小首をかしげる彼女に挨拶を済ませ、休憩室を視線で示す。

「俺たちが出勤した後からずっと寝てます」
「えー……」
「五十嵐さんも、俺も、社員ですし」
「……うん、それもそうね」

 長谷川さんはとてもスッキリした顔で頷いた。

「朝ごはんどうぞー」
「あ、じゃあた……五十嵐さんから、どうぞ。俺はお菓子食べましたし」
「なら、お先に」

 事務所のお菓子は甘い物が多いので、俺は充分に空腹を紛らわせられたけど彼はそうじゃなかったはず。ゆっくり食べて来て下さいと見送って、俺と長谷川さんはカウンターに出た。早い人はそろそろチェックアウトに来るからだ。
 キーボックスに差し込んだ請求書の確認、アウト延長などリクエストの情報共有を済ませた後は黙って立っているのも勿体ないので小声でお喋り。
 朝食のためレストランに移動するお客様がロビーに現れればすかさず笑顔で「おはようございます」だ。

「そういえば昨日、あれから一騒動あったんですって?」
「まぁね。騒動は一つだったけど課長はぴったり三組のチェックイン対応とお詫びしていたよ」
「……課長には何かお土産を買って……あ、課長も明日から連休で山を下りるんでしたっけ」
「そう、今日早上がりで明日から休み。今夜から支配人が復帰ね」

 そう教えてくれた長谷川さんは、不意に口元を緩めて距離を詰めて来る。

「っていうか、課長もってことは相田くんも山下りるの? 一人で?」
「……長谷川さん」

 抑え切れない好奇心を全面に押し出してくる彼女に、自分も聞きたい事があったのだと思い出す。

「久和くんから聞きましたけど、お酒の席で五十嵐さんが俺のいい人だって噂してたって本当ですか?」
「それは違いますー。二人がお似合いだってにっしーと盛り上がっただけ」

 なるほど共犯はレストランの西田さんか。

「お似合いって何ですか」
「えー……ちょっと相田くん、まさか無自覚なの?」

 何が、と見返せば長谷川さんは呆れ顔。

「二人、めっちゃ距離近いよ」
「へ?」
「もっと言うならそこでぶつかった瞬間に、二人して恋に落ちましたって顔してた」
「は……なっ、え⁈」

 そういえば長谷川さんには再会したあの瞬間を目撃されていたな。確か悲鳴とも違う変な声を上げていたが、だからって。
 ……だからって。

「そんな、判り易いですか」
「お。素直だね」
「悪いことをしているわけではないので、……長谷川さんはこういう話題で不快にならなさそうですし」
「ならないね。っていうかむしろ若返るよごちそうさまです」

 ごちそうさまとは?

「で? で? 傍から見てたら脈アリだと思うんだけど、告白しないの?」
「それは――」
「そう思うなら近付く距離に配慮願いたいですね」

 唐突に割り込んで来た声は当然と言うべきか孝之さんで、朝食から戻って来たらしい。
 早い。
 え、待って。
 本当に早過ぎる。

「ちゃんと食べましたか? 俺に気を遣ってませんか?」
「君から目を離したくないだけだ。……いまも彼女と随分近付いていたし」
「えっ」
「おおお生ジェラシー……!」

 待ってホント。
 皆おかしいよ!
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