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時空に巡りし者
十一
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大きな月が輝いていた。
同級生・岡山一太が闇に憑かれ、岬を殺そうとし、河夕によって解放されたあの夜。
岬を夢の中から侵し、食しようとしていたのは確かに闇狩一族の副総帥、是羅だった。
けれどその支配から逃れようと、必死に声を張り上げていたのは岬だっただろうか。
……そうだったかもしれない、高城岬だったのかもしれない。
だが、彼女の声が聞こえていたのも、また確かだった……。
――しっかりしろ、――……
その男の声は、一体誰のものだったか。
聞き慣れた影見河夕のものと似ていなくもない。
だが彼ではない、もう少し大人びた男の声。
――大切なのは信じること、そう言ったのを忘れたか……
それはあの日にも見た夢の台詞。
楠啓太が闇だった。
松橋雪子の命が危うかったその時。
影見河夕と初めて出逢ったあの騒動で、雪子と河夕を助ける力が欲しいと心から願ったとき体中に溢れた力の狭間から聞こえてきたのは確かにその声だった。
――確かに私達は間違った。けれど信じよう、未来にはきっと叶うのだと。
未来には叶えられると信じた願いは、一体何だったのか。
この声の男と、あの女は誰だったのか。
名を、何と呼んでいただろう。
――……信じるわ、――……
――それでこそ――だ……
名を、何と呼んでいただろう……彼らは、互いを何と……。
……リー………ン……
不意に鈴の音が響く。
涼やかな美しい音色。
意識の奥に直接、聴こえるその音は、果たしてどこから届くのか。
……リー………ン……
優しい音だなと思う。
いつしか岬は布団から起き上がり、音も立てずに襖を開けて廊下に出ると、いつ河夕が戻ってきてもいいようにと開けておいた縁側の窓を開け、裸足のままで暗い庭へ降り立った。
「……そこ、に……?」
言葉までが生じ、足は動く。
岬の声であり、岬の体が進む道。
だがその意識は“誰”のものか。
「そこに……影主……?」
知らないはずの名を紡ぐと同時、一粒の雫が頬を流れる。
岬の足は、そのまま本堂を通り過ぎ、奥の雑木林へと入っていった。
そこは、この四城寺の住職である父親に禁じられていたこともあり、今まで一度も足を踏み入れたことのない土地。
にも拘らず、躊躇う素振りさえ見せずに奥へ進んでいく。
石片や草の先が素足には痛いだろうに、眉一つ動かさず。
ただ静かに、涙を流しながら。
しばらくして辿り着いたのは、雑木林の中で一定の間隔を保って広がる草むらだった。
その中央には小さな祠があり、しかもそれは微かな金色の光りを放っていた。
今までは普通に聞こえていた夜闇に擦れる木々の音も、間を吹きぬけていく風も遮断され、静寂の中に光り輝く祠と、意識に届く鈴の音だけがこの世の全て。
「是羅が……」
そうして呟かれる、二つ目の名前。
「是羅が再び私を……影主……っ」
岬の手は迷うことなく祠の小さな扉を開くと、祠が輝いて見えた原因である小さな物体を――金色の指輪を、己の胸に抱き締めた。
……リー………ン……リー………ン……
岬の手に触れたことを喜ぶように、鈴は激しく鳴り響き、指輪は輝きを増した。
流れる涙は溢れるように彼の頬を伝う。
「ああぁ…っ…影主……!」
黄金色の指輪を自分の左手薬指にはめ、その手で胸に掛けられた銀の指輪を包み込む。
岬は、……否、そこにいるのは岬でありながら、意識は既に彼自身のものではなかった。
長い黒髪の、まだ少女といって差し支えない美しい影が岬の姿に重なっていた。
岬とは似ても似つかない、霊体のように透けている彼女は、しかし岬と同じ動作、同じ言葉を繰り返し紡いでいた。
「影主……っ!」
岬には知り得ないはずの、その名を。
あの一族を束ねる男の名。
漆黒の髪と黒曜石の瞳。
ただ一人の、闇狩一族の王。
「影主……っ」
「―――……っ、岬!?」
不意に上がった呼び声に。
金の指輪が光りを抑え、周囲には風と大地の音が戻る。
凛と響いたその声は、岬が寝室を抜け出すのとほぼ同じくして四城寺に戻ってきた河夕のもの。
雑木林に消える岬の姿を必死で追ってきたのか、わずかに息の上がっていた河夕は、しかし岬と、彼に重なる女の姿に目を見開いた。
「誰、だ……」
驚愕の眼差しで問う河夕に、女と、そして岬も、ひどく悲しそうな顔をして見せた。
「……私を、お忘れになったのですか……?」
岬の声だ。
だがそれは、女の言葉。
(岬、また憑かれたのか……?)
だが闇の魔物ではない。
岬に重なる彼女からは、闇の禍々しさがまるで感じられない。
「影主……私を覚えていらっしゃらないのですか……」
何故、その名前を知っているのか。
岬は、河夕が一族の総帥であることはもちろん、その位を継いで以降、影主が自分の呼び名となったことも話していない。
話すには、自分の犯した罪すら告白しなければならないから、話せなかった。
「……っ」
この少女は何者か。
どうして、その名を岬に紡がせるのか。
「会いたかった……ずっと、お逢いしたかったのに……」
岬と少女は立ち上がり、一歩ずつ河夕に近付いてくる。
これが岬だと思えば、河夕には伸ばされる手を振り払うことが出来なかった。
金の指輪が輝く左手が河夕の胸元に触れた。
いつもそこにある銀の指輪は、今は岬の胸の上。
「誓いの指輪は、こうして持っていて下さったのに……」
「岬……」
彼の――少女の手が自分の首から掛かっていた銀の指輪を外し、河夕に返す。
持ち主の胸元に帰った銀の指輪は淡い光りを放ち、そこから感じる熱に河夕は再度、驚愕した。
こんな変化が今までにあっただろうか。
熱く、切ない、――白銀色の輝き。
それに気を取られ、岬から気が逸れたほんの一瞬。
視界を遮った影から距離を置く間もなく触れられた唇。
「――」
あまりに突然の出来事に目を見開く河夕の首に腕を絡め、求められた二度目の口付け。
(っ……岬、どうして……)
理由が解らず、力で岬の身体を押し戻そうとするが、岬の腕か、少女の意思が、河夕を放そうとしなかった。
「……何故……、抱き締めては下さらないのですか……」
長く一つになっていた影が揺れ、細い声が状況を把握出来ていない河夕に問う。
「何故……私を受け止めては下さらないのですか……私がお嫌いになられたのですか……?」
「……岬は、どこだ」
ようやくのことで河夕が口にしたのは、それだけ。
それが何より大切なこと。
「岬を返せ。……これはおまえの身体ではない」
苦しげに、けれど強く言い放つ河夕に、重なる二人の瞳から新たな涙の雫が零れ落ちた。
「私に……、私に、どこへ行けと……」
「行くべき場所はあるはずだ。この体は……、これは、岬だけのものだ」
「影主……っ……?」
「そうだ、俺は影主だ。……それを知っているなら、俺の言葉に従え。この体で勝手をすることは許さない」
「……影主……っ」
岬の身体を操る少女は、腕に力を込め、河夕の細くともしっかりとした胸に縋る。
「影主、私は……私は……」
「岬を返せ」
泣き声は止まない。
河夕の言葉を偽りだと信じ込みたい少女の悲しみが、岬の涙を通して伝わってくる。
だが河夕に彼女の悲しみを受け入れることなど出来ない。
この体は間違いなく親友である岬のもので、得体の知れない霊体の少女のものではないのだから。
同級生・岡山一太が闇に憑かれ、岬を殺そうとし、河夕によって解放されたあの夜。
岬を夢の中から侵し、食しようとしていたのは確かに闇狩一族の副総帥、是羅だった。
けれどその支配から逃れようと、必死に声を張り上げていたのは岬だっただろうか。
……そうだったかもしれない、高城岬だったのかもしれない。
だが、彼女の声が聞こえていたのも、また確かだった……。
――しっかりしろ、――……
その男の声は、一体誰のものだったか。
聞き慣れた影見河夕のものと似ていなくもない。
だが彼ではない、もう少し大人びた男の声。
――大切なのは信じること、そう言ったのを忘れたか……
それはあの日にも見た夢の台詞。
楠啓太が闇だった。
松橋雪子の命が危うかったその時。
影見河夕と初めて出逢ったあの騒動で、雪子と河夕を助ける力が欲しいと心から願ったとき体中に溢れた力の狭間から聞こえてきたのは確かにその声だった。
――確かに私達は間違った。けれど信じよう、未来にはきっと叶うのだと。
未来には叶えられると信じた願いは、一体何だったのか。
この声の男と、あの女は誰だったのか。
名を、何と呼んでいただろう。
――……信じるわ、――……
――それでこそ――だ……
名を、何と呼んでいただろう……彼らは、互いを何と……。
……リー………ン……
不意に鈴の音が響く。
涼やかな美しい音色。
意識の奥に直接、聴こえるその音は、果たしてどこから届くのか。
……リー………ン……
優しい音だなと思う。
いつしか岬は布団から起き上がり、音も立てずに襖を開けて廊下に出ると、いつ河夕が戻ってきてもいいようにと開けておいた縁側の窓を開け、裸足のままで暗い庭へ降り立った。
「……そこ、に……?」
言葉までが生じ、足は動く。
岬の声であり、岬の体が進む道。
だがその意識は“誰”のものか。
「そこに……影主……?」
知らないはずの名を紡ぐと同時、一粒の雫が頬を流れる。
岬の足は、そのまま本堂を通り過ぎ、奥の雑木林へと入っていった。
そこは、この四城寺の住職である父親に禁じられていたこともあり、今まで一度も足を踏み入れたことのない土地。
にも拘らず、躊躇う素振りさえ見せずに奥へ進んでいく。
石片や草の先が素足には痛いだろうに、眉一つ動かさず。
ただ静かに、涙を流しながら。
しばらくして辿り着いたのは、雑木林の中で一定の間隔を保って広がる草むらだった。
その中央には小さな祠があり、しかもそれは微かな金色の光りを放っていた。
今までは普通に聞こえていた夜闇に擦れる木々の音も、間を吹きぬけていく風も遮断され、静寂の中に光り輝く祠と、意識に届く鈴の音だけがこの世の全て。
「是羅が……」
そうして呟かれる、二つ目の名前。
「是羅が再び私を……影主……っ」
岬の手は迷うことなく祠の小さな扉を開くと、祠が輝いて見えた原因である小さな物体を――金色の指輪を、己の胸に抱き締めた。
……リー………ン……リー………ン……
岬の手に触れたことを喜ぶように、鈴は激しく鳴り響き、指輪は輝きを増した。
流れる涙は溢れるように彼の頬を伝う。
「ああぁ…っ…影主……!」
黄金色の指輪を自分の左手薬指にはめ、その手で胸に掛けられた銀の指輪を包み込む。
岬は、……否、そこにいるのは岬でありながら、意識は既に彼自身のものではなかった。
長い黒髪の、まだ少女といって差し支えない美しい影が岬の姿に重なっていた。
岬とは似ても似つかない、霊体のように透けている彼女は、しかし岬と同じ動作、同じ言葉を繰り返し紡いでいた。
「影主……っ!」
岬には知り得ないはずの、その名を。
あの一族を束ねる男の名。
漆黒の髪と黒曜石の瞳。
ただ一人の、闇狩一族の王。
「影主……っ」
「―――……っ、岬!?」
不意に上がった呼び声に。
金の指輪が光りを抑え、周囲には風と大地の音が戻る。
凛と響いたその声は、岬が寝室を抜け出すのとほぼ同じくして四城寺に戻ってきた河夕のもの。
雑木林に消える岬の姿を必死で追ってきたのか、わずかに息の上がっていた河夕は、しかし岬と、彼に重なる女の姿に目を見開いた。
「誰、だ……」
驚愕の眼差しで問う河夕に、女と、そして岬も、ひどく悲しそうな顔をして見せた。
「……私を、お忘れになったのですか……?」
岬の声だ。
だがそれは、女の言葉。
(岬、また憑かれたのか……?)
だが闇の魔物ではない。
岬に重なる彼女からは、闇の禍々しさがまるで感じられない。
「影主……私を覚えていらっしゃらないのですか……」
何故、その名前を知っているのか。
岬は、河夕が一族の総帥であることはもちろん、その位を継いで以降、影主が自分の呼び名となったことも話していない。
話すには、自分の犯した罪すら告白しなければならないから、話せなかった。
「……っ」
この少女は何者か。
どうして、その名を岬に紡がせるのか。
「会いたかった……ずっと、お逢いしたかったのに……」
岬と少女は立ち上がり、一歩ずつ河夕に近付いてくる。
これが岬だと思えば、河夕には伸ばされる手を振り払うことが出来なかった。
金の指輪が輝く左手が河夕の胸元に触れた。
いつもそこにある銀の指輪は、今は岬の胸の上。
「誓いの指輪は、こうして持っていて下さったのに……」
「岬……」
彼の――少女の手が自分の首から掛かっていた銀の指輪を外し、河夕に返す。
持ち主の胸元に帰った銀の指輪は淡い光りを放ち、そこから感じる熱に河夕は再度、驚愕した。
こんな変化が今までにあっただろうか。
熱く、切ない、――白銀色の輝き。
それに気を取られ、岬から気が逸れたほんの一瞬。
視界を遮った影から距離を置く間もなく触れられた唇。
「――」
あまりに突然の出来事に目を見開く河夕の首に腕を絡め、求められた二度目の口付け。
(っ……岬、どうして……)
理由が解らず、力で岬の身体を押し戻そうとするが、岬の腕か、少女の意思が、河夕を放そうとしなかった。
「……何故……、抱き締めては下さらないのですか……」
長く一つになっていた影が揺れ、細い声が状況を把握出来ていない河夕に問う。
「何故……私を受け止めては下さらないのですか……私がお嫌いになられたのですか……?」
「……岬は、どこだ」
ようやくのことで河夕が口にしたのは、それだけ。
それが何より大切なこと。
「岬を返せ。……これはおまえの身体ではない」
苦しげに、けれど強く言い放つ河夕に、重なる二人の瞳から新たな涙の雫が零れ落ちた。
「私に……、私に、どこへ行けと……」
「行くべき場所はあるはずだ。この体は……、これは、岬だけのものだ」
「影主……っ……?」
「そうだ、俺は影主だ。……それを知っているなら、俺の言葉に従え。この体で勝手をすることは許さない」
「……影主……っ」
岬の身体を操る少女は、腕に力を込め、河夕の細くともしっかりとした胸に縋る。
「影主、私は……私は……」
「岬を返せ」
泣き声は止まない。
河夕の言葉を偽りだと信じ込みたい少女の悲しみが、岬の涙を通して伝わってくる。
だが河夕に彼女の悲しみを受け入れることなど出来ない。
この体は間違いなく親友である岬のもので、得体の知れない霊体の少女のものではないのだから。
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