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小柄な後輩がしっかりと男だった件

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 木島徹きじまとおるは、放課後は下校時間ぎりぎりまで図書館で寝るのが日課になっている。
 家に帰りたくないという消極的な理由だが、本がたくさんある環境は家に似ていて、独特の匂いも相まってとても落ち着くからだ。
 さすがに定期試験の期間中は生徒が増えるから昼寝目的の自分は遠慮せざるを得ないけど、それ以外は南側一番奥の席が、彼の指定席だった。
 だから、気付いた。
 進級し二年生になった春の終わりぐらいから自分以外にも毎日同じ席で熱心に調べ物をしている生徒がいること。
一心不乱に何かをノートに書き留めている間も表情がくるくると変わること。それから、シャープペンシルの芯を折ってしまった時に「あっ」て悲しそうな顔をすること。

 おもしろい。

 そう思った。




 ***

 五月末。
 梅雨入りもまだだというのに日中は夏日みたいに暑くなったその日も、図書室は冷房が効いていてとても過ごし易い環境だ。
 あと二週間もすれば期末考査のために勉強したい生徒でごった返すだろうから堪能するなら今の内とばかりにいつもの指定席を陣取った。
 枕代わりの漢語辞典。
 さて寝るかと俯せたところで誰かが前の席に座った音が聞こえて来た。寝たふりをしつつ視線を転じると、自分と同じようにそこを指定席にしている後輩の姿。ブレザータイプの制服の襟元には校章と学年を示すピンバッチが付いているから、彼が一年生なのは間違いなくて。
 かれこれ一月以上だ。
 自分は寝に来てるけど、彼はいつも真面目に調べ物をしながら真剣にノートを取っている。
 今日も資料を取りに行くのだろう。
 鞄と制服のブレザーを席に置いてから本棚の向こうに。

(何してんだろな)

 まぁ自分には関係ないか、と目を閉じて、……いつまでも後輩が戻って来ないから気になって眠れない。

(くそっ)

 放課後は図書館で昼寝。
 人のルーティンに勝手に入り込んできた挙句に気にさせるなんて何て奴だと舌打ちするが、それが身勝手な主張だという自覚はある。
 むしろ自覚があるからこそ苛立つのだ。

(俺は寝に来てんだ)

 内心の呟きは言い訳か、自分自身への言い聞かせか。気付いたら本棚に移動して後輩の姿を探していた。彼が席に着かないと自分の寝る環境が整わないからである。
 自分の指定席が、放課後になると程良い陽射しで心地良くなる南端の窓際だから一番近い本棚はあまり利用者のいない美術全集の棚だ。カウンターからも最も遠くてしんと静まり返っている。そこから順に入り口へ移動すると、旅行・ガイドや、英語の多読本を含む英語関係の資料、雑誌、絵本、進路関係……。

「いねぇし」

 思わず呟いた自分に気付かないまま、更に歩く。
 産業、技術・工学、自然科学、社会科学、歴史……、いた。
 一番上の棚に、ぷるぷると震える体で必死に背伸びして腕を伸ばしている後輩が。ふっ、と笑いそうになって慌てて顔を引き締める。

(面倒な奴)

 毒づくのは何のためか、対外的には無言で彼に近付くと必死に腕を、指先を伸ばしている本の背表紙を掴む。

「これか」
「えっ」
「……これか、って聞いているんだが」
「は、はいっ。そうです、お願いします」

 自分には一生縁が無さそうな中世ヨーロッパの歴史を綴った分厚い本を棚から抜いて、手渡す。

「ぁ、ありがとうございます」
「別に。届かないなら脚立使えば」
「それが、今日はどこにも空いている脚立がなくて」
「は?」

 定期試験の期間でもないのに全部利用中なんてことがあるだろうか。そう思って周囲を見渡すが、空いている脚立どころか使っている生徒もいない。
 イラッとして棚の間から出ると、カウンターに向かって声を上げる。

「おい図書、脚立が出てない」
「えっ」

 ガタッとカウンターでお喋りをしていたのだろう図書委員数名が焦ったように立ち上がる。この距離ではブレザーについているピンバッヂの数字なんて見えないが、初々しい雰囲気を見て取るに一年生だろう。

「すみませんっ、いますぐに出します!」

 バタバタと備品庫に入っていく女子生徒達に舌打ちする。本人たちの怠慢が上級生の指導不足かは知らないが自分の予定を狂わされたのはあいつらのせいだと思うと苛立ちが治まらない。
が、その矢先。

「あの、ありがとうございました、えっと……木島先輩」

 ブレザーの名札を見たのだろう。
 そう呼ばれて、なにか温かなものが胸に染み出してくるような気がする。
 おかしい。
 居心地が悪い。
 こいつの名前も見てやらねばと胸元に視線を転じるが、ブレザーを席に置いている彼のそこに名札はなかった。
 ムッとする。
 感情が忙しない。

「おまえ、名前は」
「俺は、あ、そっか」

 本人も名札が無いことに気付いたらしい。

「俺は一年の坂井です。坂井真優さかいまひろ

 名乗った後で後輩は笑った。

「なんか、不思議です」
「なにが」
「だってもう一ヶ月以上同じ場所にいたのに、初めてお話しました」
「――」

 頭の中が真っ白になるという表現を、いま初めて自らの頭で実体験した。しかも次の瞬間には体の芯の方から熱が吹き出してくる。

「っ、くだんねぇ」
「あ」

 それきり踵を返して南向きの窓際、いつもの指定席に戻った彼は荒々しい動作で座り、俯せた。
 カウンターにいた女生徒たちがビクついていたようだが知った事ではない。
 その日は、結局眠れなかった。




 ***

 六月初旬。
 放課後を図書室で過ごすのは相変わらずだったが、変わった事も一つ。何故か後輩・坂井真優の指定席が前から横に移動した。
 高所の本を取った翌日に恐る恐る声を掛けて来た彼が「隣に座っても良いですか?」と聞いてきて「勝手にしろ」と答えた結果である。
 以来、こうだ。
 自分は昼寝。
 真優はひたすら調べ物をしてノートを取る。
 ずっとその繰り返し。

「……おまえ、いつもそうやってるけど飽きねぇの」
「飽きません。楽しんでますし」
「へぇ」
「それに、たまにこうして先輩が話しかけてくれますから」
「……バカじゃねぇの」

 イラッとして声音が低くなると、真優は眉を八の字にして笑う。隣に来なければそんな困った顔をすることもないだろうに、よく判らないヤツだ。

「……寝る」
「はい。おやすみなさい」

 声に温もりを感じる事にもイライラするし。
 カリカリと文字を書き続ける音に安心している自分自身にも、イライラした。




 六月中旬。

「明日から期末試験期間ですね」

 真優が言う。

「木島先輩は、期間中は図書室に来ないんですか?」
「は?」
「五月の中間試験の時は来なかったでしょ」
「……なんで知ってんだよ」
「だって俺は来てましたもん。もちろん調べ物はストップして試験勉強をしていましたけど」
「へぇ」
「先輩は試験勉強しないんですか?」
「俺は此処で寝て、家に帰ってからしてる」
「え」
「なに」
「ぁ、いえ……あまり勉強が好きな風には見えなかったので」
「好きなわけないだろ。親がうるさいから文句言わせない程度にやってるだけだ」
「そう、ですか」

 真優は何かを言いたそうな顔になるが、聞いて来ないなら答えてやる義理もない。

「寝る」
「あ、はい……あの……」
「なに」
「明日から来ない、ですか?」
「あぁ」
「そう……ですよね」

 それきり黙ってしまう真優。
 言いたい事があるなら言え、と思う。

「寝る」
「ぁ、……はい。おやすみなさい」

 いつもと違う響きに、心臓がざわざわした。




 七月。
 期末考査を終えたその日に図書室に向かうといつもの指定席には真優が先に座っていて、自分の顔を見るなり相好を崩した。
 安心したような、泣き出しそうな、よく判らない顔。

「……試験、出来なかったのか?」
「え? いえ、試験はたぶん問題ないです」

 だったら何でそんな顔をしているのか……聞きそうになって、聞く必要はないだろうと何かが自身を制する。

「先輩はどうでしたか?」
「普通」
「そうですか……」

 席に着き、今日はうすっぺらい鞄を枕代わりにする。

「寝る」
「ぁ、あの」
「なに」
「……あの、もうすぐ夏休みじゃないですか」
「ああ」

 期末試験は終わった。
 来週はテストの結果が続々と出て、再来週には終業式が予定されている。

「先輩は、夏休み中は、どうするんですか?」
「は?」
「図書室には来れませんし、昼寝……とか、どこでするのかなって」
「あー……駅前の図書館かな」
「図書館ですか」
「本の匂い、好きなんだよ」
「! あ、あのっ、じゃあ夏休み、図書館でご一緒してもいいですかっ?」
「は」
「ダメですかっ?」
「っ……」

 詰め寄られた。
 顔が近い。
 心音が早い。
 イライラする。

「か、勝手にしたらいいだろ」
「はい!」

 笑顔。
 満面の嬉しそうな笑顔に顔が熱くなる。
 苛立つ。
 こんなの、……俺は知らない。

「寝るっ」
「はいっ、おやすみなさい!」

 弾むような声。
 この日はいつまでも心臓が煩かった。




 八月。
 駅前の図書館でも、真優と並んで座っていた。
 自分は昼寝。
 真優は、学校と違って自分のノートパソコンを持ち込んでカタカタと文字を打ち続けている。
 完璧なブラインドタッチだ。
 手慣れている。
 音が他の人の迷惑になるかも……と言うから連日のように個室を一つ占領しているが、ここもそれほど利用者が多いわけではない。

「先輩の昼寝の邪魔になりませんか?」
「別に」

 自分でも不思議だが、真優のタイピングの音は図書室で聞いて来た鉛筆を走らせる音に似ていて、むしろホッとすらしてしまう。
 そうは言わないけれど。
 ともあれタイピングの音が気になると言うきちんとした理由を以って個室を占領し、ゆっくり昼寝が出来るのだ。何の問題もない。

「つーか……学校であれだけ調べ物して、それ……何してんの」
「あ……えっと……」
「言いたくないなら聞かないけど」
「いえっ、……その、趣味で、小説を書いていて」
「小説?」
「はい。webで公開しているんです……」

 驚いた。
 だからあんな真剣に調べ物をしていたし、タイピングも手慣れているのか。

「どこで読めんの」
「えっ、読むんですか? ダメですっ」
「なんでだよ。公開してるなら人に読まれてなんぼだろ」
「そ、そうですけど、先輩はダメですっ」
「なんで」
「だ、って、は、恥ずかしいじゃないですか……っ」

 赤い顔。
 困惑のせいか少し潤んだ視線。
 ごくり、喉が鳴る。
 変だ。

「っ、寝る!」
「は、はい! おやすみなさいっ」

 いつもの遣り取りなのに、今日のは互いに早口で語調が強い。
 そして心臓が煩い。
 今までは無かった衝動を抑え込むのに必死で、タイピングの音が止まっている事にも気付かなかった。




 九月。
 学校の図書室で真優から質問された。

「先輩、土日は何をしているんですか?」
「バイト」
「働いているんですか?」
「ああ。高校卒業したらすぐに家を出たいから貯めてる」
「え……あの、進学はしないんですか?」
「する」
「それ……って、その……」
「親と関係良くないのは気付いてんだろ」
「……はい」
「親が行けって言うから行く。親の金で大学生っつー自由時間を得られると思えば文句ないし。けど顔は見たくねぇから家を出る。それだけだ」
「……」
「理解出来ないって?」
「いえ、そうじゃなくて……」
「なに」
「……来週から、また中間試験期間じゃないですか」
「ああ」
「先輩はまた図書室に来なくなりますよね?」
「ああ」
「だったら……駅前の図書館で一緒に勉強しませんか?」
「……は?」
「俺はテスト期間中も先輩に会いたいです。先輩が、好きです」

 急に何を言い出すのかと驚いた。
 いつかと同じ、いや、それよりも真っ白になった頭で何とか「ああ、いいけど……」と返したが、何がいいと言うのだろう。
 真優の言葉の意味も、自分の動揺の意味も、理解し難い。
 ただし俺の返答を聞いた後で真優が見せた表情がいつまでも瞼の裏から消えてくれなくて、その日、初めて昼寝しないまま下校時刻を迎えてしまったことは自覚しないわけにいかなかった。




 十二月。
 九月のあの日以来、二人は放課後を駅前の図書館で過ごすようになっていた。
 たった一度。
 されど一度。
「好き」と口にしたことですっかり吹っ切れたのか、目が合う度に真優が「好きです」と伝えてくるようになってしまい、どこで誰に聞かれるか判らない状況に不安が生まれた。
 かといって一緒に過ごすのを止めるという選択肢を選ぶことはどうしても出来ず、駅前の図書館なら個室があることを思い出したからだ。
 しかも図書室なら下校時刻で帰宅しなければならないが、駅前の図書館なら高校生だと午後8時まで利用する事が出来る。
 もうこの時点で答えなど出ていそうなものだが、自分は彼に応えぬまま。
 親には「もうすぐ受験生になるから」と言っただけで問題なかった。
 時間が延びれば、自然と昼寝だけでなく読書や勉強の時間が発生し、試験前には真優の勉強を見て苦手な部分を指導することもあった。
 放課後の昼寝の時間が減れば夜の睡眠時間が増えるわけで、最近は真優に顔色が良くなったと思われているのだが本人は気付いていない。

「おまえ、最近俺とばっかりいるけどクラスのダチはいいのか」
「クラスでは普通に接していますよ。先輩こそ俺とばっかり一緒にいるじゃないですか」
「……俺の事は関係ないだろ」

 人付き合いが面倒だと言い掛けて、だったらどうして真優とは一緒にいるのかと自問自答した末にそんな返答に落ち着いた。
 気付きたくない事に気付いてしまいそうだったから。

「関係なくなんて、ないんですよ」

 不意に真優が言う。

「先輩が好きって言ったでしょ?」
「っ、それ、止めろ」
「止めません。先輩に意識させるのは成功したみたいなので、あとは何としてでも好きになってもらいます」

 学年が違い、受験を控えている相手を口説くには時間が幾らあっても足りないと真優は言う。

「先輩と一緒にいられるから、先輩が実は頭良いこと、教えるのが上手なこと、面倒見がいいこと……先輩のいろんなところを知る事が出来ました。こんなに好きにさせたのは先輩なんですから、ちゃんと責任を取ってください」
「……ンだよ、それ」

 目を逸らして言い返すと、小さく笑われた。

「寝ちゃいますか?」
「寝るっ」

 イラッとして返したら、やっぱり笑われて。

「……困りましたね」
「は?」
「図書館の個室ってすごく落ち着くんですけど……最近の先輩は可愛過ぎて」

 スッと伸びて来る手が頬に触れ、耳に。

「っ……」
「その反応、本当に可愛い……」
「ちょ、おま……!」

 動揺のあまり椅子から落ちかけたところを真優の細い腕に支えられた。
 細い。
 自分より小柄なくせに、強い腕。

「……っ」

 顔が熱い。
 心臓が破裂しそう。

「は、放せ、よ」
「……可愛いなぁ」
「くそっ、いいから放せ!」
「うーん……先輩、このままキスしたら口利いてくれなくなりますか?」
「はっ?」
「もう一緒に図書館に来てくれませんか?」
「なっ、な……」

 当たり前だ、と怒鳴ればいい。
 何なら今すぐに「帰る」と突き放せばいいのだ。それは判っているのに、出来ない。心臓が打つ早鐘は拒否じゃない。

「っ……い、一回だけだぞ……っ」
「!」

 パッと輝く真優の笑顔。
 それを見て更に心臓が騒がしくなる自分はアホではないだろうか。呆れる。イラつく。
 なのに――。

「先輩、大好きです」

 ふにっ、って。
 口と口が触れ合うだけのキス。

「……っ」
「先輩……もう一回だけ……」
「ぃ、ぁ、あと、一回なら……っ」

 自分を心底アホだと思う。
 一回が二回になり、二回が三回になる。

「……っはぁ……先輩、いまここで俺のこと「好き」って言いませんか?」
「い、言うかバカ……!」

 そんな抵抗に何の意味があったのか。真優はむむむっと難しい顔で堪える様子を見せた後で苦く笑う。

「今日からちょっと本気度を上げていきたいと思うので覚悟して下さい」
「なに……」

 抵抗を飲み込んだ四度目のキスは、まるで食われるようで。
 大人しいと思っていた後輩が実は獣だと思い知らされた体の芯に走る甘い痺れ。一緒にいて「寝る」なんてもう言えない。
 だって、寝る、なんて。
「おやすみなさい」の声を次に聞く時は。

「大好きです、先輩」

 あぁ、もう!


 ***

 読んで頂きありがとうございました。
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