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第1章 異世界に転移しました

16.緊急事態

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 耳元で、膨らませた紙袋を割ったような心臓に悪い音。

「……っ」

 驚いて覚醒した意識が、眠っていたことを自覚させた。
 戻ってすぐに購入した「虎の巻」が膝の上で開かれたままになっているから、読んでいる間にソファで眠ってしまっていたらしい。

「何時……」

 ローテーブルに置いてある懐中時計を開くと、夜の8時を過ぎたばかり。宿に戻ったのが4時前だったことを考えると、数時間は寝ていたのだろう。
 いま目が覚めて良かったと思うべきか否か。
 元々、少し読んだら寝るつもりだったから就寝準備は済ませていた。このままベッドに移動して朝まで寝るのもアリだと思う。
 でも……。

「さっきの音は何だったんだろう……?」

 それが気になって窓に目を向ける。
 車窓は宿の部屋の窓よりも大きく、広く街の景色を楽しませてくれるから、何か判ればいいなぁくらいの気持ちだった。
 だがそこに見たのは、遠くで燃え盛る火だ。

「火事……⁈」

 街の東、商業区から少し離れたあの辺りは一般の住宅街だと昼間にクルトが案内してくれた。自分が仲間と暮らしているクランハウスもこの辺りだって、楽しそうに。

「クルトさんの家の近く……」

 そこが燃えている。
 いや、もしかしたら……!

「何かあったんじゃ……!」

 部屋を飛び出そうとして寝巻き姿であることを思い出し、寝室に移動する。クローゼットからシンプルな上下を取り出して着替え、靴下、ケープ、念のために初期装備も身に付けて外へ。
 途端、まるで校内放送みたいなアナウンスが耳に飛び込んできた。

『ーーの東に獄鬼ヘルネルが出現。銀級以上の冒険者及び僧侶は救援を頼む! 繰り返す、トゥルヌソルの東に獄鬼ヘルネルが出現、一般民は職員の指示に従って避難、銀級以上の冒険者及び僧侶は救援を頼む!』

 獄鬼ヘルネル
 神が創り給いし世界を破壊せんと暗躍する獄界ヘルゾーンの住人を、ロテュスの民が獄鬼ヘルネルと呼んでいると『虎の巻』の初めの方に書いてあった。

獄鬼ヘルネルは銀級冒険者のジェイ・デバンナに憑いている! 火属性の魔法使いでリス科エキュルイユ獣人族ビースト! 銀級以上の冒険者及び僧侶は救援を頼む!』


「この放送いつから……!」

 ゾッとした。
 神具の中にこんなアナウンスは聞こえて来なかった。
 もし避難のために御主人が俺に声を掛け続けていたとしたら。
 もしそれで逃げ遅れていたりしたら……!
 血の気が引く思いで部屋を飛び出した。
 が、途端に聞こえて来たのは大勢の人がいてこそ生じるざわめき。

「……?」

 なんだろうと思いつつそっと階段の下を確かめれば、ものすごい数の子どもたちがロビーや食堂に集まり、ボスをはじめとした宿の従業員たちに世話されていた。
 東に獄鬼ヘルネルが出現したというアナウンスが続く中、出入口の方が騒がしくなって来たと思ったら大きな剣を背中に担いだ冒険者だろう男が子どもを抱えて宿に入って来る。

「宿の主はいるか!」

 大きな声に、少し離れた場所にいた御主人が気付いた。
 負けじと大きな声で「ここだ!」と手を上げる。

「金級のグランツェだ。要請に従い獄鬼ヘルネル討伐に向かう! 娘を頼む!」
「判った、母親は」
「同じく金級のモーガンだ。終わればどちらかが迎えに来る」

 話をしながらグランツェと名乗った冒険者に近付いた御主人は、彼が抱く4歳の女の子の手首に細い腕輪を装着させた。

「その石に魔力を」
「――これでいいか」
「ああ光ったな。モーガンが迎えに来るならあんたの魔力を持たせるのを忘れるな」
「ああ」

 遠目ではよく判らないが、たぶんお迎えの際の親子確認のための道具なんだろう。
 グランツェから御主人に委ねられる小さな女の子は、不安そうな眼差しを父親に送っている。

「大丈夫だ、すぐに戻る」

 その女の子の額にキスをして微笑むグランツェは、御主人に再度「頼む」と告げて宿を出て行った。

「よし、みんなと父さんが戻って来るのを待っていような」

 優しい声でそう言い、女の子を抱っこしたまま子どもたちがたくさんいる場所に連れて行く。よく見ればロビーにいるほぼ全員の手首に同じような腕輪が装着されていた。
 聞こえた遣り取りから推察するに、討伐に参加する冒険者の子どもの避難場所がここ、ということだろうか……?

(御主人に余計な心配はさせずにすんだのかな)

 それならよかったと息を吐く。
 それと同時に、迷った。
 アナウンスは今も頭上で鳴り響く。ロビーや食堂には不安な顔をした子ども達と、励ます宿の従業員や冒険者ではない母親と思しき大人たち。

(俺はどうするべきなんだろう)

 銀級以上の冒険者と僧侶は獄鬼ヘルネルを倒すために協力して欲しいと呼ばれている。
 だが今の自分にあるのは僧侶という職業名だけで回復魔法どころか体内の蓄積魔素量だって大したことはない。無力な子どもと同じだ。
 ならば此処に避難しているのが正しい。

(でも、あの火の現場にはクルトさんがいる)

 そしてきっと、監視なんて建前で彼を守る依頼を受けてくれたレイナルドも。
 依頼を出したのは他でもない自分だ。

(行っても足手纏いになる……判ってる……でも)

 どうしよう。
 どうしよう。
 どうしよう。
 頭の中で繰り返す疑問が心臓を鷲掴みしてくる。息が上がる。イヤな汗が滲む。行くべきではない。判っている。なのに此処に留まることを考えると心臓の奥底が凍るのではないかと思うくらい冷たくなるのが感じられる。

「どう、したら……っ」

 昼間、ジェイがクルトに近付いた時と同じだ。
 逃げたい、離れたい。
 だけどそのまま遠く離れれば後悔するという、予感。

「ぁ……」

 無意識に右手の甲に触れて、気付く。
 僧侶のグローブを身に付けて来るのを忘れていた。

(神具の中なら外して大丈夫だと思って、そのまま)

 お風呂に入るのに濡らすのがイヤで外したのだ。
 自分がどうすべきかは定まらないけれど、リーデンから肌身離さずに身に付けて置けと言われているそれを持っていないのは不安で、部屋に取りに戻った。
 客室に入り、壁際に設置した扉を開けて神具『住居兼用移動車両』Ex.の中へ。
 洗面所の、洗濯機の上。
 つっかえ棒に引っ掛けてある角ハンガーに、ピンチで挟んでいるそれを取り、右手に装着する。

「……うん」

 身に付けるだけで少しだけ不安が和らぐ。
 だからと言ってどうすべきかは定まらないけれど。

「行くか、此処に残るか」

 窓の向こうを見つめる。
 ドォン……と遠くで聞こえる戦闘音。
 怖い。
 嫌だ。
 あの火の周りにどんな光景が広がっているのか、それを想像する事すら本能が拒否する。
 判っているなら此処に残るのが正解だ。
 でも。

「でも……っ」

 左手で右手の甲を握る。
 クルトの笑顔を思い出す。
 レイナルドの、ララの、御主人の。

「みんな戦ってる」

 戦わなくていい世界も選べたのに、ここロテュスを選んだのは自分。
 怖いから、なんて理由で逃げるなら。

「生きていく価値がない」

 役に立たなきゃ。
 何でも、出来ることはやらなきゃ、……捨てられる。

 ――……イラナイ子だ……
 ――……おまえ、親に捨てられたんだろう?
 ――……えぇ……可哀想……

 捨てられる。
 また。

「……っ」

 弾かれるように体が動いた。
 靴に足を突っ込んでドアノブを回す、手に。

「おまえというやつは……」

 手に、大きな手が重なった。
 耳元に呆れた吐息を交えた低い声。

「ヤーオターオの加護の影響ならば天界エデンの責任だが、……おまえはもう少し……くっ……」
「……リーデン様……?」

 驚いた。
 此処に来れるとは聞いていたけれど、まさか、って。
 でも本人だ。
 鹿みたいに枝分かれした大きな角に、床に這うほど長い薄紫色の髪。人形と言われたら信じてしまいそうな綺麗な顔も、低い声も。

「リーデン様……大神様に怒られていたんじゃ……」
「っ、あぁそうだ! いまも説教の真っ最中だがまた緊急事態が起きそうだったんでな!」

 怒っている。
 とても。
 ……睨まれている。

「……俺、またご迷惑をお掛けしたんですね……?」

 リーデンの眉間の皺が深くなる。
 ああ、やっぱり。

「やっぱり、俺なんて、いない方が……っ」
「どうしてそうなるのだ馬鹿者!」
「だって、……だって、ジェイって人が、獄鬼ヘルネルなんでしょう……? 俺がクルトさんを守ってなんて依頼を出したせいで刺激したんじゃないんですか⁈ レイナルドさんだって巻き込まれて……!」
「ならば考えろ。おまえが今日あの時間にトゥルヌソルに来なかったらどうなっていたと思う」
「っ……?」
「クルトという男は借金奴隷に堕とされてジェイに買われ、服従の紋を刻まれて純潔を散らされただろう。仲間のいない今日の内にトゥルヌソルを出て、それきりだ」
「そんな……っ」
「ついでに教えてやる。ジェイという男に取り憑いてトゥルヌソルに侵入した獄鬼ヘルネルはこの街に残り、次々と新しい獲物を見つけてはクルトのような被害者を出し続けただろう。僧侶が多く出入りするから大丈夫だと油断しているこの街トゥルヌソルは内部からの侵蝕に弱過ぎる」
「……⁈」

 説明されても理解するのは難しかったが、要は、僧侶がいる場所に獄鬼ヘルネルは近付けないが、悪意を抱えた獲物――今回の場合はクルトを欲していた男の身体を乗っ取ったわけだが、肉体を得れば入り込む事が出来る。
 侵入してしまえば、見つかるまではやりたい放題だ、と。

「そ……どうして……っ」
「おまえの幸運スキルとカグヤの加護だ」
「え……」
「良縁を引き寄せ、守った。獄界ヘルゾーンの住人――ここロテュスでは獄鬼ヘルネルと呼んでいるが、連中は天界エデン全体の敵だから異界の主神同士の加護が相乗効果を生んだんだと考えられる」
「……っ」
「おまえが居たから守られたんだ」

 言い聞かせるようなリーデンの言葉が冷えた心臓の奥に染み込む。
 じんわりと温かくなっていくのを感じるのは、決して気のせいではないだろう。

「主神クラスの三柱から加護を得たことを自覚しろ。ついでにその三柱を焦らせ、動揺させ、泣かせそうになっている事も自覚してくれ」
「泣か……えっ」
「カグヤがずっと泣きそうにしている。ヤーオターオも真っ青な顔をして自分の世界のことも手につかなくなっているんだ、自分達が勝手に加護を与えたせいで想定外な影響を齎してしまったからな。何なら大神様まで血圧が上がり過ぎて立ち上がれずにいるぞ」
「ええっ⁈」

 驚き過ぎて変な声が出た俺の肩に頭を乗せて、リーデンが深く、深く、息を吐いた。

「……おまえの運命が歪められることを良しとせず禁忌を犯したのはユーイチの独断だ。だが、おまえを転移させて生かすと決めたのは天界エデンの総意」

 リーデンは顔を上げ、真っ直ぐに瞳を射抜いて来る。
 青空の下に咲き誇るタンポポの、命の力強さを感じさせる春の色。

「命ある者を転移させた初めての事態に、天界エデン全体が騒然としている。皆がおまえの言動に注目しているんだ」
「は、じ……めて……」
「そうだ」
「ロテュスの初転移者じゃなくて……?」
「禁忌を犯したのはユーイチが初だ」

 なんてこった。
 守られておいて何だが、なんてことをしたんだユーイチ。
 目の前がぐるぐるする。
 混乱しているのが見て取れたのか、リーデンはもう一度深く息を吐くと、両手で俺の顔を挟む。
 大きくて温かい手。
 視線を重ね、決して逸らさせまいとする優しい拘束。

「……そしておまえをロテュスで生かすと決めたのは俺だ。俺はおまえを捨てたりしない。その命が尽きるまで見守ると約束する」
「……っ」
「自身を卑下するな。蔑ろにするな。おまえは、おまえの心のままに生き、願えばいい」
「願、う……?」
「ああ、願え。おまえの、その真っ白な魂から放たれる祈りには天界エデンが必ず応えるだろう」

 とん、と。
 背中を押される。

「行け」

 ロテュスに転移させられた時とは全く違う、心強い後押し。

「っ……リーデン様っ、ここで、待っててくれますかっ?」

 ほとんど勢いで発した言葉に、リーデンの目が丸くなる。
 驚かせた。
 でも、もう。

「俺が帰って来た時、ここに居てくれますかっ? 話が、したいです! ちゃんと! たくさん!」

 すぐそこにいるのに、ものすごく大きな声で訴えた。
 リーデンは最初こそ固まっていたが、すぐに、笑った。

「おまえがそれを望むなら」
「……っ、絶対ですからね! 行って来ますっ」

 心がぽかぽかする。
 行って来ますなんて、何年ぶりに口にしただろうか。

 わからない。
 でも。

 もう勝てる気しかしなかった。
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