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[60]舞い戻る黒い影

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 ───逃げなきゃ。

 咄嗟に、そう思った。踵を返し、走り去ろうとした。だけど、青い騎士──グレイが、そんな私をあっさりと捕まえてしまう。

「やっと来たか。待ちくたびれたぞ」

 ジークは気だるげに椅子から立ち上がり、赤褐色の髪をかきあげる。この国では見ないエキゾチックな雰囲気は、母親譲りだと思われた。

「申し訳ありません」

 グレイが私を捕まえたまま、礼を取る。彼の主が誰なのか、その態度が示していた。

 カーライル子爵家は、元々中立派の貴族だったけれど、最近王家派に移行したと聞く。王妃様が何かと不安を呈されていた、サウザンド公爵家と同じ境遇だ。
 王家派であれば、陛下の意向に従い、陛下が王太子と指定した第ニ王子アレクを主と敬うべきはず。けれど、グレイは第一王子ジークを主とする。───ああ、と気づいた。王家の後継者争いを生じさたのは、元・中立派の貴族達だ。大方、第二王子アレクの下では旨味を得られない貴族達が、ならば第一王子ジークを御旗に立てようとと決起したのだろう。なんて、身勝手な。

「触らないで。失礼よ」

 グレイを睨むも、彼は私をちらとも見ない。掴む手の力が緩む気配もなかった。それでも暴れていると、膝の後ろを蹴られ、床に倒されてしまった。顎を固定され、無理やりジークの方を向かされる。

「ほう、お前がフィオリア・ディンバードか」

 ジークは上から下まで舐めるように、私を見た。

「なるほど、悪くない」

「ええ、国一番の美女と名高い王妃様にも引けを取りますまい」

 グレイの発言に、ジークが鼻で笑う。王妃様が彼を嫌うように、彼もまた、王妃様をよく思っていないらしい。

「さっそく始めよう。弟のお下がりというのは面白くないが、仕方ない」

 始める………? 何を─────

 考える間もなく兵士たちに両脇を押さえられ、無理やり前進させられる。振払おうにもびくともしない。足を踏ん張っても、引きずられる。

 向かう先は───ベッドだ。大人が四人は寝られそうな大きなベッド、その上に放り投げられた。柔らかな布団の上で跳ねながら、恐怖に身がすくんだ。頭の中で、痛いほど警鐘が鳴っている。

 下品な笑みを浮かべこちらに向かってくるジーク。見下ろすグレイと兵士たち。わかってる。この状況はまず過ぎる。

 どうしてよ。いつもいつも、私ばっかり搾取される側。どれだけ私が嫌いなの、ねぇ、女神様……!

 もう、気が狂いそうよ。

「貴女には、ジーク様の妃になっていただきます」

 グレイが私を見下ろしながら、言った。

 気力を振り絞り、彼らを睨み据える。

「───意味が、わからないわ。私は、キッド・エンデ様の妻になるのよ」

「ふむ。しかし、あなた方はまだ婚約すらしていない。その前に、貴女にはジーク様と結婚していただきます。ええ、もちろん教会式の結婚ですよ。つまり、肉体関係を結んでいただくのです」

「そんな───嫌よ!どうして私が」

「貴女がディンバードの娘だから、ですよ。さぁ、貴女はこれから時期王の妻となるのです。喜びなさい」

 ジークの指先が私の頬を、首筋を、なぞっていく。不快感が込み上げ、全身に鳥肌が立った。

「いや……っ」

「アレクセイとは何度体を重ねた?」

「なっ………重ねてなど………!」

「あれだけ長いこと一緒にいて、一度もか? 信じられん」

「当たり前でしょう!婚前性交は禁止されているのよ!」

「どうだか。まぁ、いい。これから確かめればわかることだ。たっぷりと時間をかけて調べてやろう」

 私が消えたことに、お父様はそろそろ気づくはずだ。でも、助けは間に合わない。

 怖い。ただただ、怖い。今すぐ気絶できればどんなにいいだろう。だけど、そんなにうまい具合に気絶はできないし、誰も助けに来てはくれない。自分でどうにかするしかない。

 負けたくない。もう、逃げ道はないの……?

 と、ある考えが浮かんだ。

 恐怖と震えを押し隠し、そして───、

 ふん、と笑ってやった。

「醜い顔。アレクとは似ても似つかないのね」

 こんな男に純潔を捧げるくらいなら───、私は死んでやる。

 そのために、この男を怒らせる。キレさせ、ひと思いに私を殺させる。彼の顔半分に残る酷い火傷の跡を、罵る。長い前髪で隠すくらいだから、きっとコンプレックスに思っているはず。そこを抉れば、ほら、こんなふうに。 

「なに……?」
  
 ジークはあからさまに顔をしかめた。

「お喋りで時間稼ぎのつもりか? いくら待っても、ここへは誰も来ないぞ」

「そんなつもりは無いわ。ただ、貴方みたいに醜い男に純潔を奪われるのが我慢ならない、と言っておきたかっただけ」

 ひゅっと、ジークが息を呑んだ。顔が、土色になっていく。

 どうか、どうか、うまくいって……!

「あら、気分を害したかしら。ごめんなさいね。腹いせに、私もはりつけにする? 税を払わなかった者たちを見せしめにしたようにね。気に入らない者は皆そうするんでしょう? なんにも我慢できないのね。まるで赤ちゃんだわ。陛下もよく見ていらっしゃる。顔も悪ければ性格も最悪。……だから貴方は王太子に選んでもらえなったのよ」

 頬を叩かれ、首がしなる。血の味がする。口の中が切れた。そのまま口元を掴まれる。爪が食い込み、痛い。こめかみが軋んだ。

 息ができない。ああ、前にこんな夢を見た気がする。誰かに首を絞められ、苦しくて、悲しくて。

 ────これでいい。

 このまま絞め殺して。身体を弄ばれるよりずっといい。───そうよ、私の心も身体も、全部ビクターのもの。誰にも汚させはしない。

「ジーク様、殺してしまっては元も子もありません。さぁ、お早く」

「───わかってる」

 ジークの手が離れ、激しく咳き込む。嘘でしょ、だめよ、止めないで。

「早く、殺して……!」

 苦しくて涙が出る。

 ジークが自身の服をはだけさせる。

 ああ、そんな……

 どうして私は死んでないの。それなら、もう、いっそ、

 自分で舌を噛み切って死んでやる。

「ビクター……ごめんなさい……」

「ビクター? 誰だ、それ」

 口を大きく開け、舌を出す。

「お前──くそ!」

 シーツが口に押し込まれ、失敗を悟る。どうして、どうしてよ。尊厳を護る。そのための、たったひとつの願いくらい、思い通りに実現させてよ……!

「手間をかけさせやがって」

 ジークの身体の重みに対抗しようと、手足を動かす。嫌……!嫌……!!!

 頬を叩かれ、ドレスが破かれる。

「んーーーっ!!」

「さぁ、大人しく我々の糧となるのです!あははは!」

 グレイの笑い声が、煩く響く。

 パリーン!とガラスが割れる大きな音がした。それから、ものすごい風が部屋中に吹き荒れた。兵士たちが飛ばされ、壁に激突する。

 窓辺には、黒い影が立っていた。見慣れたお面がこちらを向く。認識した途端、温かい涙がとめどなく溢れた。

「これはどういうわけだ?」

 底冷えするほど、低く恐ろしい声だった。前に、夜会で私を突き飛ばした男に向けたそれよりも、さらに重い威圧感がある。思わず頭を垂れてしまいそうな、そんな。でも、愛しくて、愛しくて、仕方のない、声。

「何者だ」

 ああ、彼は本当に────

「おい、フィオリア。そんなモブ男に抱かせてやるために、俺はお前を手放したんじゃねぇぞ!」
 
「んー!!!」

 口に詰められたシーツのせいで、彼の名を呼べないことがもどかしい。

 ああ、ビクター!!!!

「あー、もう。そこで待ってろ、今助けてやる」

 ずっと灰色だった世界が、色付いた。

 彼が、戻った。

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