境界線のむこうがわ

灰羽アリス

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「は~や~し~だ~!」

 いつものねちっこい声が背後からかかり、俺はびくっと肩をふるわせた。
 
 ──こんどは何だ? 心当たりがありすぎる。

 引きつる頬になんとか笑顔をつくって振り返ると、禿げ頭がずいっと眼前にせまってきた。

「お、おはようございます、部長」
「おはようじゃないよ、君。ねぇ、どうなってんの、今月の承認率。30件中25件って、ちょっと高すぎるんじゃないのぉ」
「はぁ、しかし」
「はぁ、しかし。なんや?」
「みなさん、お困りのようですし……」

 新卒採用で保険会社に入社して3年目。営業職を経て今年から配属されたのは、引受査定部署──たとえば火事で家が燃えたので、保険料を300万円支給してください、なんていう客からの請求(告知書)に可否で答える部署なのだが──

 この仕事、どうやら俺には向いていない。

 だって、どの客にも、告知書通りの金額を払い戻すのが妥当のように思える。そのために彼らは普段、決して安くない保険料を支払っているのだし。

 家が燃えたので、建て替え費用がいる。
 交通事故にあったので、治療費がいる。
 ガンになったので、入院費がいる。

 承認、承認、承認。

 これの、何がいけないのか。

 いいことをしているみたいで俺も気分がいいし、客だって、満足。両者、ハッピー。

「バカたれ!」

 しかし部長は不満なようで……

「うちは慈善事業やってるわけやないんやぞ! 困ってるっちゅう客の言い分みんな信じて金バラまいてどうすんねん! うちが破産してまうやろが! 人に優しゅうしたいんならよそでボランティアでもやっとれ、この、どアホウ!」

 言うだけ言うと、部長はどすどす足音を響かせて、自分の巣穴に戻って行った。

 ──そんな俺のデスクには、また新たに検討中の案件がひとつ。

「どれどれ告知書の内容はっと」

 斎藤晴美さん。44歳。
 家族構成は夫と子どもひとり。
 水濡れ、盗難、突発的な事故まで、すべてをカバーできる最高金額の家財保険に加入。
 加入は五年前。
 請求金額は1500万円。
 請求理由は盗難、それにともなう家財の破壊、その修繕と補てん。
 
 近所のコンビニでたむろしている不良少年どもに自宅を荒らされた……ってまじか、こりゃひどいな。

 被保険者の斎藤晴美が送ってよこした書類には、荒らされた自宅の写真が同封されていた。

 一面スプレーで落書きされた壁、荒らされた室内、壊され、散乱する家財道具や衣類。
 斎藤晴美は家財保険に加入していることを理由に、これらの家財の修繕費を出せというのだ。

 たしかに、このままじゃ住めないし、困るよなぁ。リフォームにも金かかるだろうし──。
 うん、やはりうちから金を出すべきだ。1500万円、どんとさ。
 いや、でも、いま部長に叱られたばっかりだしなぁ……。

 ううんと唸っていると、事務の女の子が同情したのか、お茶を出してくれた。

「優しすぎるんですよ、林田さんは」

 お茶をすすりながら俺はふっと笑ってしまった。
 その言い回し、何か懐かしい感じだ。

「なんです?」
「いや、ちょっと、思い出し笑い」
「やだー、林田さんってば、やらし~」
「そんなんじゃないって。俺、思い出すような彼女とか、いないし」

 少し、期待をこめて言ってみる。
 女の子、佐々木さんは小柄でショートカットの良く似合う、可愛い女性。ちょっとだけ、気になる存在。
 と、佐々木さんは桃色の唇をぽかんとあけて、

「あ、そっか」
「ん?」
「林田さんは彼女じゃなくって、彼氏がいるんですもんね」
「ぶっ!?」
「やだ、大丈夫ですか?」

 吹き出した熱いお茶はたちまち白いシャツを汚し──、ぼうぜんとする俺をよそに、佐々木さんは俺のシャツを拭ってくれた。ありがとう。でもそれ、ぞうきんだよね?

「だ、誰が言ってんの、その、その、俺にかれっ……」
「みんな言ってますよ~。林田さんは格好いいけど、そっち系だから脈なしだよって」
「えっ……」

 みんな言ってる、格好いい、そっち系、脈なし。
 佐々木さんのさぐるような目つき……。
 そこには、期待を持たせるような媚びも含まれている気はするのだが……。
 しかし、男色家だと思われている俺。
 ちょっと、頭こんがらがってきた。

 と、そのとき。

 事務所のドアがバンッ! と勢いよく開いて、

「会いたかったよ、かずおみ~!」
「うわぁ!」

 イノシシが突進してきたかと思った。もしくはクマ。

 激しい衝突。続いて脳震とうを起こしたかのような目まいと、腰の痛み。
 ……俺は大の男に押し倒されていた。
 よく知る、きれいな男に。

「わたひこ……」
「うんっ! ひさしぶり、かずおみ」

 さらさら流れる明るい巻き毛。
 透き通るような茶色い目に涙をためて、かつての小さな怪物が微笑んだ。

 原風景の波が、わっと俺を襲う。
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