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2 俺の自転車盗らないで!

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 数年前、偉大な男がこの世を去った。

 男の名は戸坂悟士。
 俺の父親だ。

 親父は世界でも名の知れたバイクレーサーだった。
 しかし競技中、不慮の事故によって帰らぬ人となった。

 生前、彼はよくこんな言葉を口にしていた。

「なんにせよ早いってのは良いことだぜ」

 皮肉な話だ。
 親父はまだ40歳にも満たなかった。

『──早いことは良いことだ』

 俺は父の遺志を継いだ。
 徒競走から冷凍食品に至るまで、常にスピードを追求しながら生きてきた。
 
 そして今日も……。



 ────さて、自分語りはこのくらいにして。

 暦は5月。時刻は朝の5時半。場所は近所の寂れた公園。

 俺はちょうどバイトを終え、ベンチで小休止していたところだ。

 未亡人の母の稼ぎは乏しく、要するに俺の家は貧乏だった。
 なのにうちの高校はアルバイト禁止。まあバレなければ大丈夫だろうと、やむを得ず早朝の新聞配達をして家計を支えている。

 学校側に知られたらペナルティは免れない。
 しかしなにもせずにいても学費が続かず結果は同じだ。

「ま、こんだけ貰えりゃ美味しい仕事だ」

 生徒手帳に挟んだ給与明細を眺めてニヤける。

 自転車で新聞を配るだけなので、道順さえ覚えてしまえば散歩みたいなものだ。
 面白みはないが給料に関しては悪くない。
  
「っと、そろそろ日の出だな」

 休憩おしまい。
 ベンチから腰を持ち上げた──その時だった。

「……あ?」
 
 突然、足元に影が現れた。
 それは俺がまばたきをした一瞬の間に、溢したインクの染みのようにどんどん広がり膨らんでいく。

 ハッと天を仰いだのとほぼ同時!

「うわぁっ!?」

 突風に煽られて、俺の体は数メートル後ろまで投げ飛ばされた。

「ん ぁ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ !?」
「な、なんだぁ!!?!?!?」
  
 静寂の朝に二つの悲鳴が木霊する。

「…………な」
 
 なにかが、降ってきた。
 
 それも、俺の目の前に。
  
 雨ではないし雪でもない。
 そもそも空から落ちてくるはずの代物ではなかった……ように思う。見間違いでなければ。

「い、痛ってぇえええ」
 
 砂を孕んだ髪を掻き毟る。
 
 なんとか体を起こすと、傾いた視界にモノクロの球体が映り込んだ。

「ああ? サッカーボール?」

 起き上がってボールを拾う。あまり使っていないのか、汚れなどは見られない。
 
 だが、違う。
 落下物の正体はこいつじゃない。

「おーい」

 女の声。
 俺はぎくりと強張った。

「ごめんね。怪我はない?」
 
 寝間着姿の少女が覗き込む。
 
 外見に憶えはない。背格好を見るに中学生だろうか。
  
 小麦色のショートカット。
 肌は青白く、顔立ちはまだ幼い。
 薄水色のパジャマも相まって、水彩画のような儚い印象を受ける。
 
 俗に言う“美少女”を体現したような女の子だった。

「…………」

 まあいい。
 女の子の方はどうでもいい。

 それより俺は別のところに視線を奪われていた。
 彼女が背負う無骨な直方体が、気になって気になって仕方がなかった。

「…………????」

 明らかに場違いな鉄の鞄。
 サイズは一般的なリュックよりも少し小振りだ。
 デザインを見るに、なにかを持ち運ぶための用途とは考え難い。
 
 どちらかと言うと荷物を詰めるためのものではなく、既にみっちりと詰まっているように見える。
 たとえば基盤や燃料、赤い線やら青い線やら色々とぐちゃぐちゃと。

 ……爆弾?
 そんな単語も一瞬過った。

「あの、大丈夫?」
 
 改めて訊ねられて我に返る。

「お、おう」
 
 少しびびったけど。
 
 女の子はほっと息を吐き、二度ばかり頷いた。

「本当ごめんよ。お兄さん大学生?」
「いや。高校生」
「高校! 随分と大人っぽいね。学年は?」
「二年だ」
「あっ、ぼくも二年!」

 ぼく。ぼくっ娘って現存する生き物だったのか。
 
 しかしこの見てくれでタメとは。

「……中学の二年生、だよな?」

 俺が訊ねると、女の子は「む」と頬を膨らませた。

「ぼく、一応年上だよ。本当は三年生なんだけど、ダブっちゃってるんだ」
「留年か」

 留年。パジャマ。病弱少女。

「うん、そういうこと」

 そういうことらしい。

「寝間着でサッカーなんかやってっから風邪引くんじゃねえの?」
「口の悪い人だなぁ。哀しいことに、ぼくがこうして外出できるのは早朝くらいなんだよ」
「ほーん」
「しかも朝のケンオンまでには戻らなくちゃいけない。なかなかハードでしょ?」
 
 自分で無茶してるだけでは?
 と言いかけて、俺はふと気になった。

「ケンオンってなんだ?」
「検温。朝の検診だよ。毎日朝食前に看護婦さんが来て体温測るやつ」
「え。つまりお前さん入院中?」
「そうだよ」
「脱け出してきたわけ?」
「うん」
 
 あっけらかんとした返答に呆然となった。
 病室から抜け出して公園でサッカーって、なんなんだこの女。

「頭のネジがブッ飛んでんのは結構だけど、体の方は平気なのか?」
「大丈夫、ではないかも」

 あーマジか。
 
 無粋な質問をしてしまった。
 俺は今更になって、背中の装置は医療器具の一種なのではと気が付いた。

「ああ、ごめん。そろそろ行かなくちゃ」
 
 女の子はそう告げて、両脇のホルスターから短い棒を引き抜いた。
 よく見ると背中の鉄箱からリード線が繋がっている。

「コントローラーか?」
 
 俺が訊ねたのとほぼ同時だ。

「あ、あれっ?」
「ぶわっ!?」
 
 顔に思いっきり熱気を浴びせられ、たまらず咳込む。
 
 鉄箱が灰色の煙をぷしゅぷしゅと撒き散らし始めたせいだ。
 ぶうんと低周波のノイズが続く。記憶を辿ると縁日の小型発電機の音によく似ていた。

「どうなってんだ、おい!」
 
 立ち込める煙は徐々に濃さを増していき、女の子はあっという間に霞みの中に隠されてしまった。

「……ねえ。これ煙出過ぎじゃない?」
「そう思うならさっさと止めろよ」

 黒煙はもくもくと膨らみを増していき、誰がどう見ても火災現場だ。

「お、おい、なんかバチバチ鳴ってんぞ」
 
 しかも火花まで散り始めた。

「さすがにヤバくね?」
「あ、危ないよね、これ」
 
 彼女は慌てて荷物を肩から外した。
 
 地面に放られた鉄箱は鈍い音を立てて沈黙したものの、未だ煙が止まる気配はない。

「いよいよ爆弾めいてきたな」
「ど、どうしよう……」

 どうしようと言われましても……。

「とりあえず消防車呼んだ方が──あ? おいっ!」
 
 続く一連のアクションは、まるで断片的なパラパラ漫画のようだった。

 俺が視線を外したコンマ数秒の隙に、女の子は煙たい鉄箱を放り投げ、これが上手い具合に自転車のカゴに納まった。
 当然、この場に自転車は一台しかない。俺が乗ってきた新聞配達用の自転車だ。

「待て待てお前なにしてやがる!」

  彼女はサドルに跨り、後輪のスタンドを蹴り上げた。

「借りてくね」
「は!?」
「あとで返すから」
「返すもなにもそれはバイト先のチャリだから、あッ!!?!?」
 
 俺は咄嗟に制したが、容赦なく走り出したホイールに右足の爪先を轢かれた。

「ぎゃあああああああああ!!! 痛ッてェええええええええ!!!!」
「ごめん。急いでるから」
「に、逃がすかテメー!」
 
 煙の尾を引きながら小さな背中が遠退いていく。

 いくらスピード狂の俺でも、全速力の自転車相手に追い付けるわけがない。
 100メートルほど鬼ごっこを続けたところで、これ以上は時間の無駄だと思い知る。

「冗談じゃねえぞ」
 
 みっともない声で俺は吼えた。

「てめえオラァ! せめて名前くらい名乗っていけ!」
空見椋久そらみむく! またね!」
 
 その背が見えなくなるまで、俺は彼女のことを睨み続けた。

「く、クソが。覚えとけよ、空見」
 
 名前の響きに誘われて、遠くの空を仰ぎ見る。

「そういやあいつ、なんで上から降って来たんだろう?」

 パールトーンの光が差し込んでくる。
 日は昇った。今日も晴天だ。

「最悪だ……バイト先への言い訳を考えないと……」
 
 俺はたっぷり時間を掛けて新聞屋への帰路を歩いた。
 早いことは……なんだっけな。
 
 今日は長い一日になる。そんな予感がした。
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