私の完璧な彼氏さん

むつき紫乃

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完璧じゃない彼の話

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 ◆ ◆ ◆

 部屋から出てきた鷹瑛は、胸の内の混乱を隠せない急いた足取りで駅に向かっていた。

 特に緊急の用事があったわけではない。昨日あんなことをしておいて、雪乃を置き去りにしてしまうのがどれほどまずい行いかも認識はしていた。
 けれど、今の鷹瑛が彼女のそばにとどまったとしても何も言えなかっただろう。逆に下手なことを口走ってしまいかねない。あまりにも動揺しすぎていて、考えがまとまらないのだ。

 いつもなら、なにをしてなにを言うべきか、自分がとるべき行動が手に取るように分かるし、苦もなくそれを実行できる。それは、自分のあるべき姿というものを正確になぞってきたからこそ自信を持ち、冷静でいられたからだ。

 しかし、地道に積み上げてきた完璧な振る舞いを昨夜で台無しにした。力任せに女性を抱くなんて、一歩間違えたら犯罪だ。雪乃に突きつけた言葉の数々も、傷つけることを分かっていて止められなかった。

 己の弱さに負けたのだ。欠点をさらしてしまった鷹瑛は、どんな顔を向けていいのか分からず、咄嗟に逃げ出した。とんだ失態だった。

 思えば近頃の自分はおかしかった。どんなときにでも、感情と上手く折り合いをつけて最善の選択をしてきたはずなのに、雪乃が絡むと合理的にはさばけない感情が湧き上がる。その正体がなんなのか、すでに気づいていた。

 嫉妬なんて単純なものではない。意にそぐわない行動をとる恋人に対して理不尽に苛立つ気持ちは、彼女を思いどおりにしたいという歪んだ支配欲の表れだ。

 自分がこんな醜悪な欲望を抱くことになるなんて。

 雪乃は鷹瑛にとって難しい存在かもしれない。そう予見したのは市川だった。おそらく彼女はこのことを指していたのだろう。
 自分の愛情が重すぎるというだけではなく、雪乃の性格的な要因が大きいのだと思う。彼女は男に対して従順すぎる。

 他人に指示を出すことには仕事で慣れているが、それにしたってこちらの言うことに従う姿は素直すぎたし、狙ったとおりに変化していく様は思うつぼにはまりすぎていた。自己を厳しく律している鷹瑛までも、無意識につけあがらせてしまうくらいには。

 昔付き合っていたという男たちの気持ちが今になって分かる。これも魔性、というのだろうか。無自覚に男をのめり込ませてしまう危うい引力が彼女にはあるのだ。

「まずいな……」

 その引力に抗っていける気がしない。感情的に身体を奪うような真似など二度としたくないと思うのに、雪乃にとっていい恋人でありたいと思うのに、鷹瑛の中には自分でも制御できない暗い衝動があるのだ。

 いや、むしろ都合がいいのだろうか。

 雪乃は昨日、話があると言っていた。それは別れ話なのではないだろうか。鷹瑛が理性を失った一因である。

 バレンタインデーの夜に二人きりで会うほど進藤と親密だと知って、昨夜は目の前が赤く染まるかというくらいに憤りを覚えた。けれど、彼女の前で冷静さを保てないのならば、いっそ奪われてしまったほうがいいのかもしれない。
 雪乃にとっては、そのほうが、幸せなのかもしれない。

「――っ」

 呼吸が苦しくなるほど胸が詰まって、歯を食いしばった。
 意外なほどに衝撃を受けている。
 雪乃の幸せが自分のそばにはないのかもしれない、その可能性がどうしても許容できなかった。それくらい心の底から彼女を求めているのである。

 こんなふうに矛盾した感情にさいなまれるのは本当に久々で、鷹瑛は困惑していた。今のスタンスで行動するようになって以降、心は常に安定していたのだ。

 スタンスというのはつまり、自分の立場を理解し、できないこととすべきでないことを見極め、できることをのみ実行するというものである。それで状況が変わらないのなら、それはそもそも自分の力が及ばない問題だったのだから悩んでも仕方がないと切り捨てる。冷たいほど合理的だが、苦悩がない分、感情はぶれない。

 けれど今、雪乃のよい恋人でいられないことを認めてしまったら、自分にできるのは彼女から離れることだけだ。傷つけるのをわかっていてそばにいるということは、相手を蔑ろにする行為で、潔癖な鷹瑛はそうする己を到底許すことなどできない。

 だけど、それでも。雪乃を手放したくなどない。

 早足で通りを突き進みながら、ままならない現実と苦悩を振り切ることもできず、ただひたすら駅を目指していた。
 その懐でにわかにスマホが震えだす。
 取り出した端末に表示された名前を見て、鷹瑛はさっと口元を引き締めた。





『いやあ、休日の朝なのに早急に対応してくださって助かりました。ありがとうございます』
「とんでもないです。お役に立ててよかった。またなにかあればご連絡ください」

 受話器を置く音が土曜日のしんとしたオフィスでやけに大きく響く。通話を終えた鷹瑛は息をついて椅子の背にもたれかかった。

 早朝の電話は急遽必要になった資料を送ってくれないかという取引先からのものだった。普段は休日の作業を極力受けないようにしているが、今回ばかりは気分を紛らわせたい気持ちもあって承諾した。とはいっても資料のデータそのものは鷹瑛がすでに持っていたため、そのまま出社してパソコンから送信するだけの話だったのだが。

 作業はあっけなく終わり、早々に手持無沙汰となってしまった。

「後回しになってた仕事でもしておくか……」

 昨夜は会食のあとに直帰したせいで、机の上には確認を要する書類が少しだけ溜まっている。

 特に急ぎでもないので月曜日にまわしても全く問題はないのだが、せっかく会社に顔を出したのだからついでにやっておくのがいいだろう。営業という仕事をしていると、客先の都合でスケジュールが狂うことはよくあるので、早め早めに処理しておくに越したことはない。

 マウスを手にしたちょうどそのとき、一課と二課を遮るパーテーションの向こうから誰かが近づいてくる気配がした。
 顔を上げると、間仕切りの向こうから現れたのは進藤だった。
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