25 / 55
理想と現実の狭間で
◆ 25
しおりを挟む
◆ ◆ ◆
雪乃と進藤が連れ立ってカフェから出てくる姿を目撃したのは、取引先から帰社したタイミングだった。二人の間に流れる和やかな空気、力んだところのない柔らかな微笑みに、鷹瑛の視線は釘付けとなった。
進藤の前ではあんなふうに笑えるのか。
そのことに思いのほかショックを受けていた。
自分と過ごすとき、雪乃は少し緊張している。恋人によく見られたいと願う内心が、そういった態度につながっているのだろう。自惚れではないはずだ。
彼女に前向きな向上心を植え付け、変化を促したのは鷹瑛だ。けれどそうして生まれたのは、まるで教師と教え子のように、常に一本張り詰めた糸が結ばれた関係である。
必要だからそうした。納得はしている。だがその一方で、ありのままの彼女を受け入れ、母の腕で眠る子のような安らぎを与えてやりたいというのも偽りない本心だった。
鷹瑛は雪乃の指導者になりたいわけではない。もっと近くで、いついかなるときも寄り添い、助け、導く――味方になりたいのだ。絶対的な。
穏やかに言葉を交わす二人から無理やり視線を引きはがし、誰にも見られていないだろうと油断して、ひっそりと表情を陰らせる。
それと同時に、面倒くさい男と目が合った。会社のエントランスで行き会ってしまった彼を見て、取り繕うこともなく眉間にしわを寄せる。
「おかえり、氷室くん。めずらしい顔をしているね」
「……悪いが、今はお前の相手をしている気分じゃない」
どうしてこの男はいつもタイミングよく現れて、ここぞとばかりに煽ってくるのだろう。嫌味な笑顔を拒絶するように顔をそむけた。
「この状況で挑発したら氷室くんがどんな反応するかっていうのも興味あるけど。さすがのぼくも、そこまで鬼畜じゃないよ」
背後に見える進藤と雪乃の存在にもとっくに気がついていたのだろう。その発言がまた鷹瑛にとっては煩わしい。十波は無遠慮にこちらとの距離を詰めると、至近距離で顔をじろじろと眺め、にやりと口角を上げた。
「得意のアルカイックスマイルもかたなしだね。落ち着いてから戻ったほうがいいんじゃないかな。氷室くんがそんな顔をしてたら嫌でも注目を集めるよ」
そこまでなのか。
額に手を当てると寄せた眉が硬く強ばっていて、内に抱える苦悶の根深さを物語っていた。
この感覚には覚えがある。理不尽な憤りは、顔合わせで雪乃が進藤と親しげな振る舞いを見せたときに感じたものと同じだ。嫉妬のようで嫉妬ではない歪んだ束縛。
意識の底に沈めて忘れたふりをしていたのに、やはり消え去ってはくれなかったらしい。むしろ、より大きく成長しているように感じられた。
「……そうだな。昼休みがてら頭を冷やしてくる」
そうしないと雪乃の前で平常心を保てそうになかった。
昼食をぞんざいに済ませた鷹瑛は、秘密の場所に向かった。廊下の突き当たりにあるバルコニーである。
この場所を知るのは十波と市川だけだ。出くわしたことがないだけで他に知る者がいるのかもしれないが、一人の時間を邪魔されないのならかまわない。営業部に配属された当初から、一人になりたいときにはここを訪れている。
ビルの構造上の問題なのか大窓の近くは時折強烈な風が吹くが、角を曲がった先はそれほどでもない。柵に手をかけ、冷たい風を肌に受けると、ざわついた感情が強制的に鎮められる。そのことに無性に安心した。
理性的に振る舞うことを厳しく自分に課している鷹瑛は、そのために感情を冷徹に律している。だから、雪乃に対するエゴに満ちた欲望も、実際の行動として表れる前に捨て去ってしまわなくてはならなかった。
けれども胸の内の暗雲はなかなか消えてくれない。
何度も訪れて見飽きてしまっているはずの景色をまた眺めて、いつもの自分を取り戻そうと躍起になっていた。延々と続く風の音に滑らかな女性の声が混じったのはそんなときだった。
「やっぱりここにいたのね」
振り返らなくても誰か分かってしまうほどに、この場所で聞き慣れた声だった。
「なにしに来たんだ。市川」
「鷹瑛が頭を冷やしてるって聞いたから、ここかなって。懐かしいわね」
柵にもたれる自分の隣に当然のごとく並んだ姿が、ここで彼女と語らった過去の記憶と重なる。
小さなため息が漏れた。
「十波が話したんだな。君にはもう別の相手がいるんだから、名前で呼ぶな」
「あら、つい。ごめんなさい。でも、別の相手がいるのは、お互い様よね?」
風に流れる長い髪を押さえながら、市川は意味ありげな視線をよこす。
「それも十波に聞いたのか?」
「これは勘。十波くんの態度もヒントにはなったけど。付き合ってる相手、英さんでしょ?」
「随分と自信満々に言うんだな」
「まあね。でも十波くんのせいではないわ。むしろ、あなたの方が分かりやすいわよ。彼女を見る目つきが全然違うから」
その指摘には純粋に驚いた。雪乃はともかく、自分は平然と隠し通せている自信があったのだ。
「元カノの洞察力をあんまり甘く見てはダメよ」
目を丸くしている鷹瑛を見て、市川はくすくすと笑う。
「それにしても、私と付き合っていたときとずいぶん趣味が変わったのね」
雪乃と進藤が連れ立ってカフェから出てくる姿を目撃したのは、取引先から帰社したタイミングだった。二人の間に流れる和やかな空気、力んだところのない柔らかな微笑みに、鷹瑛の視線は釘付けとなった。
進藤の前ではあんなふうに笑えるのか。
そのことに思いのほかショックを受けていた。
自分と過ごすとき、雪乃は少し緊張している。恋人によく見られたいと願う内心が、そういった態度につながっているのだろう。自惚れではないはずだ。
彼女に前向きな向上心を植え付け、変化を促したのは鷹瑛だ。けれどそうして生まれたのは、まるで教師と教え子のように、常に一本張り詰めた糸が結ばれた関係である。
必要だからそうした。納得はしている。だがその一方で、ありのままの彼女を受け入れ、母の腕で眠る子のような安らぎを与えてやりたいというのも偽りない本心だった。
鷹瑛は雪乃の指導者になりたいわけではない。もっと近くで、いついかなるときも寄り添い、助け、導く――味方になりたいのだ。絶対的な。
穏やかに言葉を交わす二人から無理やり視線を引きはがし、誰にも見られていないだろうと油断して、ひっそりと表情を陰らせる。
それと同時に、面倒くさい男と目が合った。会社のエントランスで行き会ってしまった彼を見て、取り繕うこともなく眉間にしわを寄せる。
「おかえり、氷室くん。めずらしい顔をしているね」
「……悪いが、今はお前の相手をしている気分じゃない」
どうしてこの男はいつもタイミングよく現れて、ここぞとばかりに煽ってくるのだろう。嫌味な笑顔を拒絶するように顔をそむけた。
「この状況で挑発したら氷室くんがどんな反応するかっていうのも興味あるけど。さすがのぼくも、そこまで鬼畜じゃないよ」
背後に見える進藤と雪乃の存在にもとっくに気がついていたのだろう。その発言がまた鷹瑛にとっては煩わしい。十波は無遠慮にこちらとの距離を詰めると、至近距離で顔をじろじろと眺め、にやりと口角を上げた。
「得意のアルカイックスマイルもかたなしだね。落ち着いてから戻ったほうがいいんじゃないかな。氷室くんがそんな顔をしてたら嫌でも注目を集めるよ」
そこまでなのか。
額に手を当てると寄せた眉が硬く強ばっていて、内に抱える苦悶の根深さを物語っていた。
この感覚には覚えがある。理不尽な憤りは、顔合わせで雪乃が進藤と親しげな振る舞いを見せたときに感じたものと同じだ。嫉妬のようで嫉妬ではない歪んだ束縛。
意識の底に沈めて忘れたふりをしていたのに、やはり消え去ってはくれなかったらしい。むしろ、より大きく成長しているように感じられた。
「……そうだな。昼休みがてら頭を冷やしてくる」
そうしないと雪乃の前で平常心を保てそうになかった。
昼食をぞんざいに済ませた鷹瑛は、秘密の場所に向かった。廊下の突き当たりにあるバルコニーである。
この場所を知るのは十波と市川だけだ。出くわしたことがないだけで他に知る者がいるのかもしれないが、一人の時間を邪魔されないのならかまわない。営業部に配属された当初から、一人になりたいときにはここを訪れている。
ビルの構造上の問題なのか大窓の近くは時折強烈な風が吹くが、角を曲がった先はそれほどでもない。柵に手をかけ、冷たい風を肌に受けると、ざわついた感情が強制的に鎮められる。そのことに無性に安心した。
理性的に振る舞うことを厳しく自分に課している鷹瑛は、そのために感情を冷徹に律している。だから、雪乃に対するエゴに満ちた欲望も、実際の行動として表れる前に捨て去ってしまわなくてはならなかった。
けれども胸の内の暗雲はなかなか消えてくれない。
何度も訪れて見飽きてしまっているはずの景色をまた眺めて、いつもの自分を取り戻そうと躍起になっていた。延々と続く風の音に滑らかな女性の声が混じったのはそんなときだった。
「やっぱりここにいたのね」
振り返らなくても誰か分かってしまうほどに、この場所で聞き慣れた声だった。
「なにしに来たんだ。市川」
「鷹瑛が頭を冷やしてるって聞いたから、ここかなって。懐かしいわね」
柵にもたれる自分の隣に当然のごとく並んだ姿が、ここで彼女と語らった過去の記憶と重なる。
小さなため息が漏れた。
「十波が話したんだな。君にはもう別の相手がいるんだから、名前で呼ぶな」
「あら、つい。ごめんなさい。でも、別の相手がいるのは、お互い様よね?」
風に流れる長い髪を押さえながら、市川は意味ありげな視線をよこす。
「それも十波に聞いたのか?」
「これは勘。十波くんの態度もヒントにはなったけど。付き合ってる相手、英さんでしょ?」
「随分と自信満々に言うんだな」
「まあね。でも十波くんのせいではないわ。むしろ、あなたの方が分かりやすいわよ。彼女を見る目つきが全然違うから」
その指摘には純粋に驚いた。雪乃はともかく、自分は平然と隠し通せている自信があったのだ。
「元カノの洞察力をあんまり甘く見てはダメよ」
目を丸くしている鷹瑛を見て、市川はくすくすと笑う。
「それにしても、私と付き合っていたときとずいぶん趣味が変わったのね」
0
お気に入りに追加
523
あなたにおすすめの小説
ヤンデレ系アンドロイドに愛された俺の話。
しろみ
BL
ブラック企業で働く平凡なサラリーマン・真山ヒロは上司のパワハラ回避とオタクライフを死守する為、中古のアンドロイド(人工型ロボット)を購入する。
※モブレ描写有りますが総受けではありません。
【R18】御曹司とスパルタ稽古ののち、蜜夜でとろける
鶴れり
恋愛
「私のこと、たくさん愛してくれたら、自信がつくかも……」
◆自分に自信のない地味なアラサー女が、ハイスペック御曹司から溺愛されて、成長して幸せを掴んでいく物語◆
瑛美(えみ)は凡庸で地味な二十九歳。人付き合いが苦手で無趣味な瑛美は、味気ない日々を過ごしていた。
あるとき親友の白無垢姿に感銘を受けて、金曜の夜に着物着付け教室に通うことを決意する。
しかし瑛美の個人稽古を担当する着付け師範は、同じ会社の『締切の鬼』と呼ばれている上司、大和(やまと)だった。
着物をまとった大和は会社とは打って変わり、色香のある大人な男性に……。
「瑛美、俺の彼女になって」
「できなかったらペナルティな」
瑛美は流されるがまま金曜の夜限定の恋人になる。
毎週、大和のスパルタ稽古からの甘い夜を過ごすことになり――?!
※ムーンライトノベルス様にも掲載しております。
四天王に転生したら部下の双子に執着されてるんだけど、穏便に国外脱出するにはどうすればいい?
秋山龍央
BL
主人公・敷島志紀は目が覚めたら『片翼のレジスタンス ~片田舎の料理人が革命軍で成り上がる~』の世界に転生していた。しかも敵キャラである皇国四天王の一人、シキになっていたのだ!
原作ではシキはかなり悲惨な最期を迎えるため、国外脱出を企てたシキ(転生主人公)だったが、その計画はあっさり部下であり護衛騎士である双子、ヴィクターとゼノンにバレてしまう。
すると、二人からは思ってもみなかった提案(脅迫)をされて…?
「シキ様が私たちのものになってくださるのなら、国外脱出に協力してあげてもいいですよ」
「シキ様が今から俺らに協力してほしいって言うんなら、こっちはそれなりの対価を貰いたいわけだ。だから、あんた自身をくれよ」
※ポンコツ主人公がクールな悪役ムーブを一生懸命頑張りつつ、部下の双子から羞恥責めや鬼畜責めされるお話
※3P、双子×主人公
婚儀で夫の婚約者を名乗るレディに平手打ちを食らうスキャンダルを提供したのは、間違いなく私です~私を嫌う夫に離縁宣告されるまで妻を満喫します~
ぽんた
恋愛
小国の王女であるがゆえに幼少より人質同然として諸国をたらいまわしされているエリ・サンダーソン。今回、彼女はフォード王国の王家の命により、スタンリー・レッドフォード公爵に嫁ぐことになった。その婚儀中、乱入してきたスタンリーの婚約者を名乗る美貌のレディに平手打ちを食らわされる。どうやらスタンリーは彼女を愛しているらしい。しばらくすると、エリは彼に離縁され、彼は元婚約者を妻にするらしい。
婚儀中に立った離縁フラグ。エリは、覚悟を決める。「それならそれで、いまこのときを楽しもう」と。そして、離縁決定の愛のない夫婦生活が始まる……。
※ハッピーエンド確約。「間違いなく私」シリーズ(勝手に命名)です。ご都合主義のゆるゆる設定はご容赦願います。
【R18】ひとりで異世界は寂しかったのでペット(男)を飼い始めました
桜 ちひろ
恋愛
最近流行りの異世界転生。まさか自分がそうなるなんて…
小説やアニメで見ていた転生後はある小説の世界に飛び込んで主人公を凌駕するほどのチート級の力があったり、特殊能力が!と思っていたが、小説やアニメでもみたことがない世界。そして仮に覚えていないだけでそういう世界だったとしても「モブ中のモブ」で間違いないだろう。
この世界ではさほど珍しくない「治癒魔法」が使えるだけで、特別な魔法や魔力はなかった。
そして小さな治療院で働く普通の女性だ。
ただ普通ではなかったのは「性欲」
前世もなかなか強すぎる性欲のせいで苦労したのに転生してまで同じことに悩まされることになるとは…
その強すぎる性欲のせいでこちらの世界でも25歳という年齢にもかかわらず独身。彼氏なし。
こちらの世界では16歳〜20歳で結婚するのが普通なので婚活はかなり難航している。
もう諦めてペットに癒されながら独身でいることを決意した私はペットショップで小動物を飼うはずが、自分より大きな動物…「人間のオス」を飼うことになってしまった。
特に躾はせずに番犬代わりになればいいと思っていたが、この「人間のオス」が私の全てを満たしてくれる最高のペットだったのだ。
社畜だけど転移先の異世界で【ジョブ設定スキル】を駆使して世界滅亡の危機に立ち向かう ~【最強ハーレム】を築くまで、俺は止まらねぇからよぉ!~
猪木洋平@【コミカライズ連載中】
ファンタジー
俺は社畜だ。
ふと気が付くと見知らぬ場所に立っていた。
諸々の情報を整理するに、ここはどうやら異世界のようである。
『ジョブ設定』や『ミッション』という概念があるあたり、俺がかつてやり込んだ『ソード&マジック・クロニクル』というVRMMOに酷似したシステムを持つ異世界のようだ。
俺に初期スキルとして与えられた『ジョブ設定』は、相当に便利そうだ。
このスキルを使えば可愛い女の子たちを強化することができる。
俺だけの最強ハーレムパーティを築くことも夢ではない。
え?
ああ、『ミッション』の件?
何か『30年後の世界滅亡を回避せよ』とか書いてあるな。
まだまだ先のことだし、実感が湧かない。
ハーレム作戦のついでに、ほどほどに取り組んでいくよ。
……むっ!?
あれは……。
馬車がゴブリンの群れに追われている。
さっそく助けてやることにしよう。
美少女が乗っている気配も感じるしな!
俺を止めようとしてもムダだぜ?
最強ハーレムを築くまで、俺は止まらねぇからよぉ!
※主人公陣営に死者や離反者は出ません。
※主人公の精神的挫折はありません。
義兄に告白されて、承諾したらトロ甘な生活が待ってました。
アタナシア
恋愛
母の再婚をきっかけにできたイケメンで完璧な義兄、海斗。ひょんなことから、そんな海斗に告白をされる真名。
捨てられた子犬みたいな目で告白されたら断れないじゃん・・・!!
承諾してしまった真名に
「ーいいの・・・?ー ほんとに?ありがとう真名。大事にするね、ずっと・・・♡」熱い眼差を向けられて、そのままーーーー・・・♡。
二人の妻に愛されていたはずだった
ぽんちゃん
恋愛
傾いていた伯爵家を復興すべく尽力するジェフリーには、第一夫人のアナスタシアと第二夫人のクララ。そして、クララとの愛の結晶であるジェイクと共に幸せな日々を過ごしていた。
二人の妻に愛され、クララに似た可愛い跡継ぎに囲まれて、幸せの絶頂にいたジェフリー。
アナスタシアとの結婚記念日に会いにいくのだが、離縁が成立した書類が残されていた。
アナスタシアのことは愛しているし、もちろん彼女も自分を愛していたはずだ。
何かの間違いだと調べるうちに、真実に辿り着く。
全二十八話。
十六話あたりまで苦しい内容ですが、堪えて頂けたら幸いです(><)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる