私の完璧な彼氏さん

むつき紫乃

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理想と現実の狭間で

◇ 24

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「うちの代でも、氷室くんは別格よ。入社当時から突出してて、ほかの同期はみんな圧倒されて。触発されて奮起する人と、ほどほどでいいやって投げ出しちゃう人と、二分しちゃったのよね。優秀な人が多いとしたらそういうことかな。おかげで、同期の仲はあまり良くないのよ。ああいう人間の存在も一長一短よね」

 苦笑しつつ小声で語る市川の話を、雪乃は意外に思った。いくら有能な人であっても、全てうまくいくとは限らないのか。むしろ一人飛びぬけることで、本人の意志とは離れたところで劣等感や嫉妬など負の感情を生み出してしまうのかもしれない。

 優秀な人間を褒め称えるだけでなく、一歩引いて周りへの影響を冷静に観察している彼女の視点は新鮮なものだった。

「ああでも、上司としての氷室くんは信頼できるから、そこは心配しないで」

 鷹瑛の下で指導を受けている雪乃に気兼ねしたのか、最後にそう付け足す。

「氷室課長にはとても良くしていただいてますから。大丈夫です」
「そう。良かった」

 市川はふっと安堵の息をつくと、手を振って営業二課を出ていった。

 雪乃は自席に戻り、手の中のものをゆっくりと見直す。描かれている時計塔はやはりとても綺麗だ。仕事目線でチェックしなければならないことは分かっているのに、絵としての完成度が高くてついつい鑑賞する気持ちになってしまう。一人だといつまででもうっとりと見ていられそうだった。

「氷室課長にも、一緒に見てもらおうかな」

 他人の目があったほうが捗るだろうし、多面的な見方ができる。

 時計を確認すると、市川と話をしていた間に随分と長針が進んでいたが、鷹瑛はまだ戻っていなかった。「頭を冷やす」のに手間取っているのだろうか。

 質問したいことはほかにもいくつか溜まっていて、そろそろ帰ってきてほしいところだった。彼の判断が必要な部分をより分けつつ作業を進めるのは、効率があまりよろしくないのだ。

 雪乃は椅子に座ったまま両手を上げて伸びをすると、机の端にあるマグカップを持って席を立った。集中が切れてしまったついでにコーヒーでも淹れてこようと思ったのだ。

 給湯室は廊下の一番奥にあって、その横の突きあたりは大窓になっている。外にはバルコニーがあるのだが、出たことはない。窓はいつも閉まっていて人が出ているところを目にしたこともないから、鍵がかかっていて開かないものだと思っていた。

 廊下を歩いて給湯室の前までやってきた雪乃は、普段と変わらぬ窓の風景に気を払うこともなく、ドアノブに手を伸ばした。しかしそのとき、いつもはないかすかな風の感触が指先にあった。驚いて大窓を振り仰いだ。

「開いてる……」

 注意深く見ると、バルコニーへの出入り口と窓枠の間に小さな隙間ができていた。風はここから入ってきている。

 マグカップを給湯室に置いてくると、ほんの少し開いていた戸を押して外に踏み出した。屋外はビル風がびゅうびゅうと強く吹いていて、さらわれそうになる髪を咄嗟に押さえた。

 バルコニーに出た行動はほんの出来心だった。出られないと思っていた場所に本当は出られると分かれば、どんな場所か確かめたくなるのは自然な好奇心だ。
 ただ一つ、このときの雪乃が迂闊だったのは、戸が開いていたにもかかわらず先客がいる可能性を全く予想しなかったことだ。

 バルコニーはビルの壁と平行に続いていて、中から見えるよりもずっと幅があった。建物の角に沿って曲がった向こう側にもつながっているようで、どこまで続いているのかつい見たくなってしまう。
 気軽な気持ちで曲がり角に近づいていく。

 ふと、風の音とは違うなにかが耳に届いて、足を止める。誰かが会話をしていた。

「私と付き合っていたときとずいぶん趣味が変わったのね」

 はっきりと聞こえた人間の声がついさっき耳にしたばかりの女性のものだと気がついて、雪乃は息をのんだ。けれど、本当の衝撃はこのあとだった。

「条件を考えたんだ」

 答えた男性の声に、思わず両手で口を塞ぐ。この声の持ち主を、自分はよく知っている。

「条件? ずいぶん冷たい言い方」
「事実だからな」
「条件ってなあに? あなたが女性に求めるものがなんなのか、興味があるわ」
「一言でいうのは難しい。雪乃について言うなら、支えてくれそうなところ、かな」
「なに? それ。かなり酷いこと言ってるけど――」

 これ以上、聞いてはいけない。

 雪乃はさっと踵を返した。少し離れるだけで、二人の会話はあっけなく風の向こうに紛れていく。
 高鳴る鼓動を押さえつけて大窓の前に引き返し、大きな音を立てぬように屋内に戻った。出入り口は元通りに少しだけ開けておく。そのくらいの冷静さは残っていた。むしろ、頭の芯が冷え切っていて怖いくらいだ。

 一刻も早くその場を立ち去りたくて廊下を無駄のない足取りで突き進み、営業二課に戻った。扉の前で一つ呼吸をして、なにくわぬ顔でオフィスに入る。

 大丈夫だ。同僚たちはみな自分の仕事に没頭している。平然とした顔の雪乃を、誰も気にかけたりはしない。
 自分の席にたどり着き、仕事の続きをしようとした。

 なにをしようとしていたんだっけ。

「あ」

 気がついたそれは、張りつめた風船を一突きで破裂させてしまうような、小さい針のようなものだった。

「マグカップ、置いてきちゃった」

 張りつめた心が弾けたすきに、目頭がじわりと熱を持つ。泣き出しそうになるのをこらえて、けれども一粒だけぽとりとこぼれてしまう。その雫を、雪乃は呆然と眺めた。
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