私の完璧な彼氏さん

むつき紫乃

文字の大きさ
上 下
21 / 55
理想と現実の狭間で

◇ 21

しおりを挟む
 ◇ ◇ ◇

「それでは以上の内容で制作を進めさせていただきます」

 打ち合わせを切り上げた雪乃がテーブルに出ていた資料をまとめて立ち上がると、流れを確認していた鷹瑛もそろって席を立った。向かいにいる先方の担当者は満足そうに頷いている。

 二人は駅のリニューアルに伴う時計塔の制作について鉄道会社に詳細を詰めに来ていた。

「よろしくお願いします。デザイン案ができるのを楽しみにしていますよ」

 エレベーターホールまで見送りに来た担当者は丁寧に腰を折る。

「本日はありがとうございました」

 開いた扉から箱に乗り込んで礼を返し、二人は取引先をあとにした。

 ビルを出て道路脇の歩道をならんで歩きながら、打ち合わせでのやり取りについて鷹瑛がいくつかコメントする。
 営業部に配属されて日の浅い雪乃は、自分が中心になって案件を進めることにまだ慣れていないため、こうして指導を受けている。

 彼の指摘は無闇に叱るようなものではないものの、本質を的確に突いてくるため緊張のひとときである。だが評価は総じて良いものだった。

「英さんは気遣いが細やかだから取引先の反応もいいな。この分なら、英さん一人に窓口を絞っても大丈夫そうだ。やってみるか?」
「任せていただけるなら、頑張ります」

 反射的な頷きに微笑みが応じる。

「じゃあこの案件は近々正式に僕から引き継ぐ。しばらくは僕もバックについてサポートするから、そこは安心していい」
「はい」
「営業は顔の広さが一番大事だから、人のつながりを大事にな」
「はい」

 一つ一つやる気のある相槌を返していると、鷹瑛は少し考える素振りを見せ、何気なく付け加えた。

「人とたくさん知り合っていろんな考えを知ることは、雪乃自身にとってもいいことだと思うから、公私ともにいろんな人と会っておくこと」
「はい。――え?」

 さらりと切り替わった呼び名に目を瞬かせる。不意打ちに成功した彼はにやりと口元を歪めた。

「自分の考えだけで思い込まずに、もう少し広い視野で物事を見れるようになれってことだ。そうすれば自分のことも客観的に見れるようになるだろ?」
「そ、そう、ですね……」

 突然上司の顔から恋人の顔になった気安い笑みにどぎまぎしてしまい、言われた内容をきちんと咀嚼できないまま視線を逸らす。

 二人きりになると鷹瑛は時々こういう悪戯をしかけてくる。互いにオンとオフをきっちり使い分けるタイプではあるが、仕事中は仕事だけに没頭してしまう融通の利かない自分とは対照的に、彼は比較的柔軟に切り替えられるようだ。

 仕事の合間の不意を突くようにちらりと甘い顔を見せられると、受け入れ態勢が整っていなくて困ってしまう。

 上手い返しが見つからないまま高揚した頬を冷やしているうちに、二人は駅までたどり着いてしまった。

「僕はもう一件寄るところがあるから、英さんは先に帰社しててくれ」
「あ、はい」
「じゃ、またあとで」

 改札を通って別のホームに去る背中を見送って、雪乃もまたホームに降りた。

 一人になって緊張がほどけると、ようやく落ち着いて考える余裕が戻ってくる。ホームに滑り込んで来た電車に乗り込んで振幅の大きな揺れに身をゆだねながら、先ほど鷹瑛に言われた言葉の一つ一つを振り返った。

 仕事上のアドバイスなら問題はない。胸に留めて、次は直せるように工夫すればいい。
 戸惑うのは、公私を超えた自身のあり方についての指摘だ。こういった抽象的な課題は、対応のしかたに決まった答えがないのがやりづらい。

 人とのつながりを大切にして、それぞれの考え方を知って、それから。広い視野で物事を見る、自分を客観的に見る、とは具体的にどうしたら?

 電車に揺られつつぼんやりもの思いに耽っていると、胸にあるシーンが蘇った。

 ――わかった。別れよう?
 ――もうしないから。
 ――またするとかしないとかじゃないの。あなたが、恋人を裏切っても平然としてられる人だっていうことが、私にはもう無理なの。

 確かにあのときの自分は、客観的に己や相手のことを見れていなかったのかもしれない。
 雪乃には雪乃の理想があるように、相手にも相手の理想や考えがあることを理解していなかった。独り善がりな誠意を押し付けて、相手から同じものが得られないのを嘆いたのは、思えば自分本位な態度だったのかもしれない。

 もちろん、恋人を蔑ろにするような男と別れたのは正しい選択だったと今でも思うけれど、こちらにも改善すべき点はあったのだろう。

 自分の考えを伝えて、相手の考えを聞いて、すり合わせる。仕事においては基本だが、今までの恋愛でそれはできていただろうか。

 いや、今の恋愛でも?

 鷹瑛との関係が順調に動き始めたのは、彼が雪乃を理解し、尊重しようと努力してくれているからだ。目の前のことで視界をいっぱいにしている自分の代わりに、彼が少し距離を置いて二人の関係を冷静に見つめ、バランスをとってくれている。

「あ、そっか」

 小さな発見に思わず呟きを漏らした。

 鷹瑛の気持ちが見えにくいのはここに一因があるのかもしれない。二人の関係にのめり込みすぎないようにさり気なく置かれている距離がベールとなってその心を覆い隠している。
 柔和なダークブラウンの瞳はいつだって穏やかで、見守るように優しい。その奥で、いったいなにを思っているのだろう。

 本音を聞かせてもらえないせいで見えない本心にこれまで不安ばかりを募らせていた。けれど、今の自分にはおそらくそれを受け止められるだけの強さがない。現在の力関係のまま鷹瑛の考えを知れば、自分にとってそれが全てになる。己の意思や願いを押し殺してしまう。

 そんな雪乃自身から雪乃を守るために、彼は理性的な態度をあえて維持しているのかもしれない。本心は分からなくとも、その振る舞いには充分すぎる誠意を感じた。誠意というよりは真心というべき、温かな気遣いだ。

「いつか、氷室課長がなにを見てなにを思うのか、聞かせてほしいな……」

 吐息に混じるように紡がれた言葉は、心からの願いだった。

 鷹瑛がしてくれたように、雪乃もまた彼の思いを尊重したい。考えを知り、受け止め、共有したい。ありのままを許容して、安心できる場所を作りたい。今はまだ頼りないといわれても、頼ってもらえる自分にいつか変わりたい。

 電車が減速しはじめたのを感じとり、車内放送に耳を傾けると、間もなく会社の最寄り駅に到着しようとしていた。
 慎重なブレーキが長々と尾を引いて車体が完全に停止し、扉が開く。雪乃は顔を上げてホームに降り立った。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

遅咲きの恋の花は深い愛に溺れる

あさの紅茶
恋愛
学生のときにストーカーされたことがトラウマで恋愛に二の足を踏んでいる、橘和花(25) 仕事はできるが恋愛は下手なエリートチーム長、佐伯秀人(32) 職場で気分が悪くなった和花を助けてくれたのは、通りすがりの佐伯だった。 「あの、その、佐伯さんは覚えていらっしゃらないかもしれませんが、その節はお世話になりました」 「……とても驚きましたし心配しましたけど、元気な姿を見ることができてほっとしています」 和花と秀人、恋愛下手な二人の恋はここから始まった。 ********** このお話は他のサイトにも掲載しています

私を溺愛してくれたのは同期の御曹司でした

日下奈緒
恋愛
課長としてキャリアを積む恭香。 若い恋人とラブラブだったが、その恋人に捨てられた。 40歳までには結婚したい! 婚活を決意した恭香を口説き始めたのは、同期で仲のいい柊真だった。 今更あいつに口説かれても……

隣人はクールな同期でした。

氷萌
恋愛
それなりに有名な出版会社に入社して早6年。 30歳を前にして 未婚で恋人もいないけれど。 マンションの隣に住む同期の男と 酒を酌み交わす日々。 心許すアイツとは ”同期以上、恋人未満―――” 1度は愛した元カレと再会し心を搔き乱され 恋敵の幼馴染には刃を向けられる。 広報部所属 ●七星 セツナ●-Setuna Nanase-(29歳) 編集部所属 副編集長 ●煌月 ジン●-Jin Kouduki-(29歳) 本当に好きな人は…誰? 己の気持ちに向き合う最後の恋。 “ただの恋愛物語”ってだけじゃない 命と、人との 向き合うという事。 現実に、なさそうな だけどちょっとあり得るかもしれない 複雑に絡み合う人間模様を描いた 等身大のラブストーリー。

ダブル シークレットベビー ~御曹司の献身~

菱沼あゆ
恋愛
念願のランプのショップを開いた鞠宮あかり。 だが、開店早々、植え込みに猫とおばあさんを避けた車が突っ込んでくる。 車に乗っていたイケメン、木南青葉はインテリアや雑貨などを輸入している会社の社長で、あかりの店に出入りするようになるが。 あかりには実は、年の離れた弟ということになっている息子がいて――。

同居離婚はじめました

仲村來夢
恋愛
大好きだった夫の優斗と離婚した。それなのに、世間体を保つためにあたし達はまだ一緒にいる。このことは、親にさえ内緒。 なりゆきで一夜を過ごした職場の後輩の佐伯悠登に「離婚して俺と再婚してくれ」と猛アタックされて…!? 二人の「ゆうと」に悩まされ、更に職場のイケメン上司にも迫られてしまった未央の恋の行方は… 性描写はありますが、R指定を付けるほど多くはありません。性描写があるところは※を付けています。

甘やかしてあげたい、傷ついたきみを。 〜真実の恋は強引で優しいハイスペックな彼との一夜の過ちからはじまった〜

泉南佳那
恋愛
植田奈月27歳 総務部のマドンナ × 島内亮介28歳 営業部のエース ******************  繊維メーカーに勤める奈月は、7年間付き合った彼氏に振られたばかり。  亮介は元プロサッカー選手で会社でNo.1のイケメン。  会社の帰り道、自転車にぶつかりそうになり転んでしまった奈月を助けたのは亮介。  彼女を食事に誘い、東京タワーの目の前のラグジュアリーホテルのラウンジへ向かう。  ずっと眠れないと打ち明けた奈月に  「なあ、俺を睡眠薬代わりにしないか?」と誘いかける亮介。  「ぐっすり寝かせてあけるよ、俺が。つらいことなんかなかったと思えるぐらい、頭が真っ白になるまで甘やかして」  そうして、一夜の過ちを犯したふたりは、その後…… ******************  クールな遊び人と思いきや、実は超熱血でとっても一途な亮介と、失恋拗らせ女子奈月のじれじれハッピーエンド・ラブストーリー(^▽^) 他サイトで、中短編1位、トレンド1位を獲得した作品です❣️

交際0日。湖月夫婦の恋愛模様

なかむ楽
恋愛
「いらっしゃいませ」 「結婚してください」 「はい。いいですよ。……ん?」 <パンののぞえ>のレジに立つ元看板娘・藍(30)の前にやって来たのは、噂では売れない画家で常連客の舜太郎(36)だった。 気前よく電撃結婚をした藍を新居で待っていたのは、スランプ中の日本画家・舜日(本名・湖月舜太郎)との新婚生活だった。 超がつく豪邸で穏やかで癒される新婚生活を送るうちに、藍は舜太郎に惹かれていく。夜の相性も抜群だった。 ある日藍は、ひとりで舜太郎の仕事場に行くと、未発表の美しい女性ただ一人を描き続けた絵を見つけてしまった。絵に嫉妬する。そして自分の気持ちに気がついた藍は……。(✦1章 湖月夫婦の恋愛模様✦ 2章 湖月夫婦の問題解決 ✦07✦深い傷を癒して。愛しい人。 身も心も両思いになった藍は、元カレと偶然再会(ストーキング)し「やり直さないか」と言われるが── 藍は舜太郎に元カレとのトラブルで会社を退職した過去を話す。嫉妬する舜太郎と忘れさせてほしい藍の夜は ✦08✦嵐:愛情表現が斜め上では? 突如やって来た舜太郎の祖母・花蓮から「子を作るまで嫁じゃない!」と言われてしまい? 花蓮に振り回される藍と、藍不足の舜太郎。声を殺して……? ✦09✦恋人以上、夫婦以上です。 藍は花蓮の紹介で、舜太郎が筆を折りかけた原因を作った師匠に会いに行き、その真実を知る。 そして、迎えた個展では藍が取った行動で、夫婦の絆がより深くなり……<一部完結> ✦直感で結婚した相性抜群らぶらぶ夫婦✦ 2023年第16回恋愛小説大賞にて奨励賞をいただきました!応援ありがとうございました! ⚠えっちが書きたくて(動機)書いたのでえっちしかしてません ⚠あらすじやタグで自衛してください  →番外編③に剃毛ぷれいがありますので苦手な方は回れ右でお願いします 誤字報告ありがとうございます!大変助かります汗 誤字修正などは適宜対応 一旦完結後は各エピソード追加します。完結まで毎日22時に2話ずつ予約投稿します 予告なしでRシーンあります よろしくお願いします(一旦完結48話

結婚直後にとある理由で離婚を申し出ましたが、 別れてくれないどころか次期社長の同期に執着されて愛されています

霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
「結婚したらこっちのもんだ。 絶対に離婚届に判なんて押さないからな」 既婚マウントにキレて勢いで同期の紘希と結婚した純華。 まあ、悪い人ではないし、などと脳天気にかまえていたが。 紘希が我が社の御曹司だと知って、事態は一転! 純華の誰にも言えない事情で、紘希は絶対に結婚してはいけない相手だった。 離婚を申し出るが、紘希は取り合ってくれない。 それどころか紘希に溺愛され、惹かれていく。 このままでは紘希の弱点になる。 わかっているけれど……。 瑞木純華 みずきすみか 28 イベントデザイン部係長 姉御肌で面倒見がいいのが、長所であり弱点 おかげで、いつも多数の仕事を抱えがち 後輩女子からは慕われるが、男性とは縁がない 恋に関しては夢見がち × 矢崎紘希 やざきひろき 28 営業部課長 一般社員に擬態してるが、会長は母方の祖父で次期社長 サバサバした爽やかくん 実体は押しが強くて粘着質 秘密を抱えたまま、あなたを好きになっていいですか……?

処理中です...