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理想と現実の狭間で
◇ 21
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◇ ◇ ◇
「それでは以上の内容で制作を進めさせていただきます」
打ち合わせを切り上げた雪乃がテーブルに出ていた資料をまとめて立ち上がると、流れを確認していた鷹瑛もそろって席を立った。向かいにいる先方の担当者は満足そうに頷いている。
二人は駅のリニューアルに伴う時計塔の制作について鉄道会社に詳細を詰めに来ていた。
「よろしくお願いします。デザイン案ができるのを楽しみにしていますよ」
エレベーターホールまで見送りに来た担当者は丁寧に腰を折る。
「本日はありがとうございました」
開いた扉から箱に乗り込んで礼を返し、二人は取引先をあとにした。
ビルを出て道路脇の歩道をならんで歩きながら、打ち合わせでのやり取りについて鷹瑛がいくつかコメントする。
営業部に配属されて日の浅い雪乃は、自分が中心になって案件を進めることにまだ慣れていないため、こうして指導を受けている。
彼の指摘は無闇に叱るようなものではないものの、本質を的確に突いてくるため緊張のひとときである。だが評価は総じて良いものだった。
「英さんは気遣いが細やかだから取引先の反応もいいな。この分なら、英さん一人に窓口を絞っても大丈夫そうだ。やってみるか?」
「任せていただけるなら、頑張ります」
反射的な頷きに微笑みが応じる。
「じゃあこの案件は近々正式に僕から引き継ぐ。しばらくは僕もバックについてサポートするから、そこは安心していい」
「はい」
「営業は顔の広さが一番大事だから、人のつながりを大事にな」
「はい」
一つ一つやる気のある相槌を返していると、鷹瑛は少し考える素振りを見せ、何気なく付け加えた。
「人とたくさん知り合っていろんな考えを知ることは、雪乃自身にとってもいいことだと思うから、公私ともにいろんな人と会っておくこと」
「はい。――え?」
さらりと切り替わった呼び名に目を瞬かせる。不意打ちに成功した彼はにやりと口元を歪めた。
「自分の考えだけで思い込まずに、もう少し広い視野で物事を見れるようになれってことだ。そうすれば自分のことも客観的に見れるようになるだろ?」
「そ、そう、ですね……」
突然上司の顔から恋人の顔になった気安い笑みにどぎまぎしてしまい、言われた内容をきちんと咀嚼できないまま視線を逸らす。
二人きりになると鷹瑛は時々こういう悪戯をしかけてくる。互いにオンとオフをきっちり使い分けるタイプではあるが、仕事中は仕事だけに没頭してしまう融通の利かない自分とは対照的に、彼は比較的柔軟に切り替えられるようだ。
仕事の合間の不意を突くようにちらりと甘い顔を見せられると、受け入れ態勢が整っていなくて困ってしまう。
上手い返しが見つからないまま高揚した頬を冷やしているうちに、二人は駅までたどり着いてしまった。
「僕はもう一件寄るところがあるから、英さんは先に帰社しててくれ」
「あ、はい」
「じゃ、またあとで」
改札を通って別のホームに去る背中を見送って、雪乃もまたホームに降りた。
一人になって緊張がほどけると、ようやく落ち着いて考える余裕が戻ってくる。ホームに滑り込んで来た電車に乗り込んで振幅の大きな揺れに身をゆだねながら、先ほど鷹瑛に言われた言葉の一つ一つを振り返った。
仕事上のアドバイスなら問題はない。胸に留めて、次は直せるように工夫すればいい。
戸惑うのは、公私を超えた自身のあり方についての指摘だ。こういった抽象的な課題は、対応のしかたに決まった答えがないのがやりづらい。
人とのつながりを大切にして、それぞれの考え方を知って、それから。広い視野で物事を見る、自分を客観的に見る、とは具体的にどうしたら?
電車に揺られつつぼんやりもの思いに耽っていると、胸にあるシーンが蘇った。
――わかった。別れよう?
――もうしないから。
――またするとかしないとかじゃないの。あなたが、恋人を裏切っても平然としてられる人だっていうことが、私にはもう無理なの。
確かにあのときの自分は、客観的に己や相手のことを見れていなかったのかもしれない。
雪乃には雪乃の理想があるように、相手にも相手の理想や考えがあることを理解していなかった。独り善がりな誠意を押し付けて、相手から同じものが得られないのを嘆いたのは、思えば自分本位な態度だったのかもしれない。
もちろん、恋人を蔑ろにするような男と別れたのは正しい選択だったと今でも思うけれど、こちらにも改善すべき点はあったのだろう。
自分の考えを伝えて、相手の考えを聞いて、すり合わせる。仕事においては基本だが、今までの恋愛でそれはできていただろうか。
いや、今の恋愛でも?
鷹瑛との関係が順調に動き始めたのは、彼が雪乃を理解し、尊重しようと努力してくれているからだ。目の前のことで視界をいっぱいにしている自分の代わりに、彼が少し距離を置いて二人の関係を冷静に見つめ、バランスをとってくれている。
「あ、そっか」
小さな発見に思わず呟きを漏らした。
鷹瑛の気持ちが見えにくいのはここに一因があるのかもしれない。二人の関係にのめり込みすぎないようにさり気なく置かれている距離がベールとなってその心を覆い隠している。
柔和なダークブラウンの瞳はいつだって穏やかで、見守るように優しい。その奥で、いったいなにを思っているのだろう。
本音を聞かせてもらえないせいで見えない本心にこれまで不安ばかりを募らせていた。けれど、今の自分にはおそらくそれを受け止められるだけの強さがない。現在の力関係のまま鷹瑛の考えを知れば、自分にとってそれが全てになる。己の意思や願いを押し殺してしまう。
そんな雪乃自身から雪乃を守るために、彼は理性的な態度をあえて維持しているのかもしれない。本心は分からなくとも、その振る舞いには充分すぎる誠意を感じた。誠意というよりは真心というべき、温かな気遣いだ。
「いつか、氷室課長がなにを見てなにを思うのか、聞かせてほしいな……」
吐息に混じるように紡がれた言葉は、心からの願いだった。
鷹瑛がしてくれたように、雪乃もまた彼の思いを尊重したい。考えを知り、受け止め、共有したい。ありのままを許容して、安心できる場所を作りたい。今はまだ頼りないといわれても、頼ってもらえる自分にいつか変わりたい。
電車が減速しはじめたのを感じとり、車内放送に耳を傾けると、間もなく会社の最寄り駅に到着しようとしていた。
慎重なブレーキが長々と尾を引いて車体が完全に停止し、扉が開く。雪乃は顔を上げてホームに降り立った。
「それでは以上の内容で制作を進めさせていただきます」
打ち合わせを切り上げた雪乃がテーブルに出ていた資料をまとめて立ち上がると、流れを確認していた鷹瑛もそろって席を立った。向かいにいる先方の担当者は満足そうに頷いている。
二人は駅のリニューアルに伴う時計塔の制作について鉄道会社に詳細を詰めに来ていた。
「よろしくお願いします。デザイン案ができるのを楽しみにしていますよ」
エレベーターホールまで見送りに来た担当者は丁寧に腰を折る。
「本日はありがとうございました」
開いた扉から箱に乗り込んで礼を返し、二人は取引先をあとにした。
ビルを出て道路脇の歩道をならんで歩きながら、打ち合わせでのやり取りについて鷹瑛がいくつかコメントする。
営業部に配属されて日の浅い雪乃は、自分が中心になって案件を進めることにまだ慣れていないため、こうして指導を受けている。
彼の指摘は無闇に叱るようなものではないものの、本質を的確に突いてくるため緊張のひとときである。だが評価は総じて良いものだった。
「英さんは気遣いが細やかだから取引先の反応もいいな。この分なら、英さん一人に窓口を絞っても大丈夫そうだ。やってみるか?」
「任せていただけるなら、頑張ります」
反射的な頷きに微笑みが応じる。
「じゃあこの案件は近々正式に僕から引き継ぐ。しばらくは僕もバックについてサポートするから、そこは安心していい」
「はい」
「営業は顔の広さが一番大事だから、人のつながりを大事にな」
「はい」
一つ一つやる気のある相槌を返していると、鷹瑛は少し考える素振りを見せ、何気なく付け加えた。
「人とたくさん知り合っていろんな考えを知ることは、雪乃自身にとってもいいことだと思うから、公私ともにいろんな人と会っておくこと」
「はい。――え?」
さらりと切り替わった呼び名に目を瞬かせる。不意打ちに成功した彼はにやりと口元を歪めた。
「自分の考えだけで思い込まずに、もう少し広い視野で物事を見れるようになれってことだ。そうすれば自分のことも客観的に見れるようになるだろ?」
「そ、そう、ですね……」
突然上司の顔から恋人の顔になった気安い笑みにどぎまぎしてしまい、言われた内容をきちんと咀嚼できないまま視線を逸らす。
二人きりになると鷹瑛は時々こういう悪戯をしかけてくる。互いにオンとオフをきっちり使い分けるタイプではあるが、仕事中は仕事だけに没頭してしまう融通の利かない自分とは対照的に、彼は比較的柔軟に切り替えられるようだ。
仕事の合間の不意を突くようにちらりと甘い顔を見せられると、受け入れ態勢が整っていなくて困ってしまう。
上手い返しが見つからないまま高揚した頬を冷やしているうちに、二人は駅までたどり着いてしまった。
「僕はもう一件寄るところがあるから、英さんは先に帰社しててくれ」
「あ、はい」
「じゃ、またあとで」
改札を通って別のホームに去る背中を見送って、雪乃もまたホームに降りた。
一人になって緊張がほどけると、ようやく落ち着いて考える余裕が戻ってくる。ホームに滑り込んで来た電車に乗り込んで振幅の大きな揺れに身をゆだねながら、先ほど鷹瑛に言われた言葉の一つ一つを振り返った。
仕事上のアドバイスなら問題はない。胸に留めて、次は直せるように工夫すればいい。
戸惑うのは、公私を超えた自身のあり方についての指摘だ。こういった抽象的な課題は、対応のしかたに決まった答えがないのがやりづらい。
人とのつながりを大切にして、それぞれの考え方を知って、それから。広い視野で物事を見る、自分を客観的に見る、とは具体的にどうしたら?
電車に揺られつつぼんやりもの思いに耽っていると、胸にあるシーンが蘇った。
――わかった。別れよう?
――もうしないから。
――またするとかしないとかじゃないの。あなたが、恋人を裏切っても平然としてられる人だっていうことが、私にはもう無理なの。
確かにあのときの自分は、客観的に己や相手のことを見れていなかったのかもしれない。
雪乃には雪乃の理想があるように、相手にも相手の理想や考えがあることを理解していなかった。独り善がりな誠意を押し付けて、相手から同じものが得られないのを嘆いたのは、思えば自分本位な態度だったのかもしれない。
もちろん、恋人を蔑ろにするような男と別れたのは正しい選択だったと今でも思うけれど、こちらにも改善すべき点はあったのだろう。
自分の考えを伝えて、相手の考えを聞いて、すり合わせる。仕事においては基本だが、今までの恋愛でそれはできていただろうか。
いや、今の恋愛でも?
鷹瑛との関係が順調に動き始めたのは、彼が雪乃を理解し、尊重しようと努力してくれているからだ。目の前のことで視界をいっぱいにしている自分の代わりに、彼が少し距離を置いて二人の関係を冷静に見つめ、バランスをとってくれている。
「あ、そっか」
小さな発見に思わず呟きを漏らした。
鷹瑛の気持ちが見えにくいのはここに一因があるのかもしれない。二人の関係にのめり込みすぎないようにさり気なく置かれている距離がベールとなってその心を覆い隠している。
柔和なダークブラウンの瞳はいつだって穏やかで、見守るように優しい。その奥で、いったいなにを思っているのだろう。
本音を聞かせてもらえないせいで見えない本心にこれまで不安ばかりを募らせていた。けれど、今の自分にはおそらくそれを受け止められるだけの強さがない。現在の力関係のまま鷹瑛の考えを知れば、自分にとってそれが全てになる。己の意思や願いを押し殺してしまう。
そんな雪乃自身から雪乃を守るために、彼は理性的な態度をあえて維持しているのかもしれない。本心は分からなくとも、その振る舞いには充分すぎる誠意を感じた。誠意というよりは真心というべき、温かな気遣いだ。
「いつか、氷室課長がなにを見てなにを思うのか、聞かせてほしいな……」
吐息に混じるように紡がれた言葉は、心からの願いだった。
鷹瑛がしてくれたように、雪乃もまた彼の思いを尊重したい。考えを知り、受け止め、共有したい。ありのままを許容して、安心できる場所を作りたい。今はまだ頼りないといわれても、頼ってもらえる自分にいつか変わりたい。
電車が減速しはじめたのを感じとり、車内放送に耳を傾けると、間もなく会社の最寄り駅に到着しようとしていた。
慎重なブレーキが長々と尾を引いて車体が完全に停止し、扉が開く。雪乃は顔を上げてホームに降り立った。
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