私の完璧な彼氏さん

むつき紫乃

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二人の距離感

◇ 8

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 時期を同じくして、雪乃は会社から異動の辞令を受け取った。異動とはいえ転勤はなく、私物を抱えて本社のフロアを三つ移動すれば引越し作業は済んでしまう。

 配属先は営業二課である。前の部署の同僚がしきりにうらやんでいた。営業二課の課長は、涼やかな雰囲気の美男子で振る舞いもスマート、それでいて仕事もできることから、女性社員たちの憧れの的だったのだ。

「課長じきじきにご指導いただけたりするんじゃない? いいなあ」

 彼女は頬に両手をあててうっとりしていたが、そういった噂にはとんと興味がなく、ふうん、と流した。

 上司が美形だろうと関係ない。そのときはそう思っていた。
 どちらかというと気になるのは、彼が優秀だということだった。若くして課長の地位にいることもある。近くにいれば学ぶところは多そうだ。そう思うと真面目な雪乃は気が引き締まった。

 始業前の朝早い時間に私物を抱えて営業二課に入る。すでに出勤していた人たちに挨拶がてら自分の席をたずねた。

 営業二課のオフィスは、向き合った机がいくつか並び、二つの島を作っている。一つだけぽつんと離れて島に向き合うようにあるのが課長の机だ。雪乃の席は島の中で一番課長の席に近い。新入りだからだろうか。ぼんやり考えつつ荷物を下ろした。

 社会人も五年目となれば、机周りのものの配置は大体決まっている。私物を入れた紙袋から次々と文房具を取り出して、始業までにひととおりの整理を済ませてしまうつもりだった。

「――はなぶささん?」

 突然名前を呼ばれてはっとした。作業に没頭していたのか、気付かぬ間にそばに人が立っていた。

「は、はい」

 初めての部署だという緊張で返事が上ずった。微妙にはずした音程を恥ずかしく思いながら顔を上げると、机の傍らには優美な男が立っていた。

「は――」

 男の容貌を目にした瞬間、喉がその職務を放棄した。言葉を失うくらいに、彼に見惚れたのだ。
 固まった雪乃の眼前で彼はふわりと笑った。作り物めいた微笑、アルカイックスマイル。

「英雪乃さん、だね?」

 彼の質問に呼応して、喉がひとりでに空気を震わせる。

「はい……」

 どくどく、と心臓が熱い血液を全身に巡らせて、彼の前に立っているだけなのに恥じらいとも高揚ともつかぬ感覚を覚える。
 彼はゆるやかに頷く。そしてこう言った。

「初めまして。僕はここの課長の氷室鷹瑛だ。これからよろしく」

 一言一言が甘く響くバリトンに胸を射抜かれた。それが決定打だった。
 雪乃は恋に落ちたのだ。のではなく、

 初めての感覚に戸惑う頭に彼の発言が遅れてじわじわと染み込む。
 ここのの氷室鷹瑛。
 彼こそが、女性社員の憧れの的。雪乃の手が決して届かない高嶺の花。

 ――自分からもっと積極的にアプローチできる性格だったなら。

 つい最近考えたばかりの絵空事ともいえる願いを思い出して、きゅっと唇を噛み締めた。





 それがどうしてこうなったのか。
 鷹瑛の寝顔をちらりと盗み見ながら首を傾げる。

 この恋は叶わないはずだった。多くの女性の耳目を集めるような素敵な男性の視界に自分は入らない。そう思っていたのに、何故か鷹瑛は雪乃に興味を持った。戸惑っているうちに間合いは詰められて、今では同じベッドで眠る仲だ。展開がうまく行きすぎて夢でも見ているのではないかと思う。

 彼は自立した大人の男性だった。美穂といつか話したような、雪乃を恋人にしても決して怠惰にはならない人。あまりにもきちんとしすぎているので、世話を焼く隙もないくらいなのである。

 その完璧ぶりに雪乃は恐縮しきっていた。鷹瑛のことは好きだ。恋人になれて夢のようだと思う。だからこそ、自分の一挙手一投足で幻滅されやしないかと怯えている。

 せめて自分が少しでも彼の役に立つことができればこの不安も和らぐのだが、現状は優しいエスコートに身を縮こまらせるだけになっている。最近ではそれが心苦しくて私的なやりとりを避けてしまう始末だ。ここまで不出来な恋人では飽きられる日も近いだろう。

 唇から小さく溜息がこぼれた。ふと昨夜の行為が脳裏に蘇ったからだ。
 千載一遇のチャンスだった。いや、鷹瑛にとっては不運だったかもしれないが、雪乃にとってはチャンスだった。

 こういうのも情けないが、口淫にだけは自信があったのだ。歴代の彼氏であるダメ男たちがことあるごとに強要してきたせいで不本意ながらも技術が磨かれてしまったのである。だから行為の最中、鷹瑛のソレが臨戦態勢ではないと気がついたとき、今こそ役に立てると奮起した。

 しかし、結果は惨敗だった。しかも自分だけが気持ちよくさせられて、満足したらそのまま寝入ってしまうというていたらくだ。なんという申し訳なさだろう。己のダメっぷりに頭を抱えたくなった。

 湧き上がってきた苦悶を振り切るために雪乃は起き上がった。床に落ちていたブラウスを素っ裸の身体にとりあえず羽織る。ボタンをとめながら、なにげなく視線をさまよわせると、ベッドを覆う上がけが一点不自然に盛り上がっていることに気づいた。

「……?」

 なんだろう、とその下にあるものを考えて、すぐさまその正体に思いいたる。
 そうだ、男性だから……。

 そこで目を逸らしておけばよかった。けれども雪乃はそうしなかった。上がけの足元をめくり、潜り込んでしまったのである。あとになって思い返してみれば、このときは変に意地になっていたのだろう。

 鷹瑛のすらりとした脚の脇を這い上がっていくと、すぐその場所にたどり着いた。スラックスの股間部分を押し上げるそれに、こくりと唾を飲み込む。

 昨夜したのと同じように、ファスナーをゆっくりと引き下げ、下着をそっと下ろす。締め付けから開放された性器がぶるりと起き上がった。朝からなかなかの硬度である。昨日も見たその姿をまじまじと眺めてから、ぱくりと咥える。熱い血流がどくりと応えた気がした。

 あったかい。
 肉茎を頬張りながら、能天気な感想を抱く。鷹瑛の全身の熱が集中しているのだろう、舌の上のそれはどきどきと脈打っていた。

 舌で包み込むように撫でると、先端からじわりと苦いものが滲み出る。塗り広げるように舌で愛撫しながら、手による刺激も加えていく。竿の部分は強めに握り、睾丸は優しいタッチでさわさわと触れる。この異なる動きが男性にはたまらないらしい。

「ん……? はっ、はぁ…………」

 与えられる快感に、眠りの中の彼が身をよじって熱い息を吐き出す。 

 手の中の肉棒はがちがちに張り詰めていた。昨夜には得られなかったその感触に、太いそれを咥えたままうっとりと微笑んだ。
 今度こそ自分の手で鷹瑛をイかせてあげられる。こんなことでも、好きな人のためになにかできると思うと嬉しい。

 睾丸を柔らかく揉みながら、つるりとした先端を集中的に攻める。特に裏すじの部分を尖らせた舌でつつけば、気持ちよさを堪えてだろうか、頭上の腹筋がびくびくと震えた。

「は……う、はぁ…………く、うぁ……」

 寝ぼけ混じりだった声は昂るにつれてだんだんと輪郭を持ち始め、明確に快楽を訴えるようになる。
 口内の剛直は今にも暴発しそうなくらいに猛っている。

 もう少し……。

 一気に頂点に向かおうと、舌と手の動きを速めた。竿を握る手を忙しなく動かし、先端を咥えた唇は舌をあてがいながら激しく擦り上げる。絶頂へ到達せんとラストスパートをかけていた。

 しかし突然、鷹瑛の全身がびくっと震える。

「ふぇっ?」

 驚いた雪乃はうっかり唇を離してしまう。
 ああ、せっかくあと少しでイかせてあげられたのに――と惜しむ間もなかった。周囲をおおっていた上がけがめくられて、視界がにわかに明るくなったのだ。

 ふぁさっと衣擦れの音を残して開けた視界の向こうでは、いつのまに上体を起こしたのか、上がけに手をかけた鷹瑛がじっとこちらを見つめていた。その目がいつになく丸い。
 二人の間に無言の空気が横たわった。

「ゆきの……?」

 唖然としたその声音を耳にして、ようやく自分の所業を冷静に把握する。朝から男性の象徴をしゃぶって攻め立てて、これでは完全に痴女である。言い訳の言葉も出ない。
 立ち上がったそれを眼下に据え、雪乃はただ叱られるのを待つ子供のように黙して身をこわばらせるしかなかった。
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