上 下
1 / 8

僕と彼女とその経緯①

しおりを挟む
 夕方から夜に変わりゆくオフィスでは、キーボードを叩く音がかれこれ二時間ほど続いている。定時が間近に迫り、僕は入力作業をとても急いでいた。
 地道な仕事もようやく終わりが見えて気が緩んできたころ、事故は起こった。

「あ……っ、固まった!」

 パソコンがいきなりフリーズしたのだ。続けてアプリケーションが強制終了し、僕も一緒にフリーズした。

「あれ、最後に保存したのいつだっけ……?」

 作業に没頭していて、一度も保存した記憶がない。
 神に祈る気持ちで再度アプリケーションを起動し、ファイルを開くと、僕の二時間の努力は綺麗さっぱり失われていた。

「まじか……」

 時計の針は十七時五十分を指している。十分でなんて、終わるわけがない。
 絶望に追い打ちをかけるようにスマホが着信を告げた。

『仕事終わりそう?』

 大好きな彼女からのメッセージ。
 つい三分前までは、意気揚々と『しっかり終わらせました!』なんて成長をアピールするつもりでいた。

『すみません。ちょっとミスしちゃって、残業になりそうです……』

 情けなさに震える指で画面をタップする。
 間をおかずに届いたメッセージを見て、僕はがっくりと肩を落とした。

『それは仕方ないね。残業頑張って。お店はキャンセルしとく』

 画面に表示されるキャンセルの文字が実にあっけらかんとしている。付き合いはじめて三回目のデートだったのに、頼子よりこさんは残念に思わないのだろうか。……思わないのだろうな。
 仕方ないね、そこに全てが集約されている。
 会社で先輩にあたる三つ歳上の彼女はいつだって大人だ。仕事ができて、冷静で、なんでもクールに割り切ってしまう。
 だから本当に「仕方ない」の一言で、この一件は彼女の中で片付けられたのだろう。
 僕はといえば、ちっぽけな失敗にいつまでもくよくよして、作業を再開することもままならないでいる。
 こんなんじゃ二時間かけても終わらないかも……いや、終わらせよう。頼子さんは仕事をおろそかにするのをとても嫌うから。デートをキャンセルしたうえ、だらだら残業してたんじゃ、いいところが一つもない。
 僕は軽く肩を回し、ぶっ通しだった入力作業の凝りをほぐすと、気合いを入れてディスプレイと向き直った。



 僕の恋人の頼子さんは、一言で言えばクールな人だった。
 人間的な温かみに欠けているという意味じゃない。物腰は柔らかいし、気遣いもこまやかで、職場での人望は厚い。
 でもどこか一歩引いているというか。いつも冷静で、頼もしくて、感情にブレがないのだ。
 僕が新入社員研修を終えて隣の部署に配属されたばかりの頃、彼女と直接話す機会はほとんどなかった。だから、とても有能な人だという噂を漏れ聞いて、ほんの少しのミスでも見咎められてしまうんじゃないかと内心でびくびくしていた。たぶん彼女の端正な容姿も、勝手なイメージを膨らませるのに一役買っていたのだろう。
 予想していたとおり、頼子さんとの初めての会話はちょっとしたヘマがきっかけだった。けれど、その人柄は想像と全然違っていた。
 そのとき僕は、作成中の書類に不明点が出てきて、担当者に確認しにいくところだった。

「長谷部くん」

 背後から突然呼びかけられて、僕は振り返った。

「落とし物」

 通路の真ん中で一枚の紙をひらひらさせている女性は、みんなから一目置かれる優秀な先輩――美波頼子さんだった。
 しっかり手に持っていたはずの書類がいつの間にか一枚抜け落ちていて、僕は慌てて「すみませんっ」と頭を下げた。

「そんなに畏まらなくていいけど」

 くすくすと笑いまじりの柔らかい声に、おそるおそる顔を上げると、彼女はほんのり微笑を浮かべていた。
 ――すごく綺麗な人だ。
 反射的に思って、それまでとは別の意味で緊張を覚えた。

「あのっ、ありがとうございますっ」

 真っ直ぐ差し出された紙をぎこちない動きで受け取ろうとしたとき、彼女の口から「あ」と小さな声がこぼれた。

「ここ、提出する前に直したほうがいいよ」
「えっ?」

 細い指が示す部分に急いで視線を走らせる。間違いはすぐに分かった。

「もう、平成じゃないから」
「ですね……」

 日付の元号を変えるのを失念していたのだ。

「過去のデータを流用すると、中身だけ書き換えて周りの細かいところを見落としがちだから、気をつけてね」
「……はい」

 初歩的な指導をされて恥じ入る僕に「頑張って」と優しく声をかけ、彼女は行ってしまった。
 偶然拾っただけの書類をわざわざチェックしてくれたのは、僕が新入社員だと把握していたからだと、自席に戻ってから気がついた。名前もきちんと覚えられていた。
 うちの会社はそこそこの規模があり、新入社員だって毎年五十人はくだらない。関わりのない人間まで顔と名前を一致させるのは結構な苦労だ。
 彼女が律儀だから? それとも他に理由があって?
 なんでもいいや。
 彼女の見つめる世界に僕はちゃんといたんだと思うだけで、なんだか幸せな気がしたから。
 つまりこの日、僕は頼子さんに恋をした。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

10 sweet wedding

国樹田 樹
恋愛
『十年後もお互い独身だったら、結婚しよう』 そんな、どこかのドラマで見た様な約束をした私達。 けれど十年後の今日、私は彼の妻になった。 ……そんな二人の、式後のお話。

タイプではありませんが

雪本 風香
恋愛
彼氏に振られたばかりの山下楓に告白してきた男性は同期の星野だった。 顔もいい、性格もいい星野。 だけど楓は断る。 「タイプじゃない」と。 「タイプじゃないかもしれんけどさ。少しだけ俺のことをみてよ。……な、頼むよ」 懇願する星野に、楓はしぶしぶ付き合うことにしたのだ。 星野の3カ月間の恋愛アピールに。 好きよ、好きよと言われる男性に少しずつ心を動かされる女の子の焦れったい恋愛の話です。 ※体の関係は10章以降になります。 ※ムーンライトノベルズ様、エブリスタ様にも投稿しています。

元遊び人の彼に狂わされた私の慎ましい人生計画

イセヤ レキ
恋愛
「先輩、私をダシに使わないで下さい」 「何のこと?俺は柚子ちゃんと話したかったから席を立ったんだよ?」 「‥‥あんな美人に言い寄られてるのに、勿体ない」 「こんなイイ男にアピールされてるのは、勿体なくないのか?」 「‥‥下(しも)が緩い男は、大嫌いです」 「やだなぁ、それって噂でしょ!」 「本当の話ではないとでも?」 「いや、去年まではホント♪」 「‥‥近づかないで下さい、ケダモノ」 ☆☆☆ 「気になってる程度なら、そのまま引き下がって下さい」 「じゃあ、好きだよ?」 「疑問系になる位の告白は要りません」 「好きだ!」 「疑問系じゃなくても要りません」 「どうしたら、信じてくれるの?」 「信じるも信じないもないんですけど‥‥そうですね、私の好きなところを400字詰め原稿用紙5枚に纏めて、1週間以内に提出したら信じます」 ☆☆☆ そんな二人が織り成す物語 ギャグ(一部シリアス)/女主人公/現代/日常/ハッピーエンド/オフィスラブ/社会人/オンラインゲーム/ヤンデレ

大好きだった元彼を見返します!!

鳴宮鶉子
恋愛
大好きだった元彼を見返します!!

雨音。―私を避けていた義弟が突然、部屋にやってきました―

入海月子
恋愛
雨で引きこもっていた瑞希の部屋に、突然、義弟の伶がやってきた。 伶のことが好きだった瑞希だが、高校のときから彼に避けられるようになって、それがつらくて家を出たのに、今になって、なぜ?

恋に異例はつきもので ~会社一の鬼部長は初心でキュートな部下を溺愛したい~

泉南佳那
恋愛
「よっしゃー」が口癖の 元気いっぱい営業部員、辻本花梨27歳  ×  敏腕だけど冷徹と噂されている 俺様部長 木沢彰吾34歳  ある朝、花梨が出社すると  異動の辞令が張り出されていた。  異動先は木沢部長率いる 〝ブランディング戦略部〟    なんでこんな時期に……  あまりの〝異例〟の辞令に  戸惑いを隠せない花梨。  しかも、担当するように言われた会社はなんと、元カレが社長を務める玩具会社だった!  花梨の前途多難な日々が、今始まる…… *** 元気いっぱい、はりきりガール花梨と ツンデレ部長木沢の年の差超パワフル・ラブ・ストーリーです。

Catch hold of your Love

天野斜己
恋愛
入社してからずっと片思いしていた男性(ひと)には、彼にお似合いの婚約者がいらっしゃる。あたしもそろそろ不毛な片思いから卒業して、親戚のオバサマの勧めるお見合いなんぞしてみようかな、うん、そうしよう。 決心して、お見合いに臨もうとしていた矢先。 当の上司から、よりにもよって職場で押し倒された。 なぜだ!? あの美しいオジョーサマは、どーするの!? ※2016年01月08日 完結済。

最後の恋って、なに?~Happy wedding?~

氷萌
恋愛
彼との未来を本気で考えていた――― ブライダルプランナーとして日々仕事に追われていた“棗 瑠歌”は、2年という年月を共に過ごしてきた相手“鷹松 凪”から、ある日突然フラれてしまう。 それは同棲の話が出ていた矢先だった。 凪が傍にいて当たり前の生活になっていた結果、結婚の機を完全に逃してしまい更に彼は、同じ職場の年下と付き合った事を知りショックと動揺が大きくなった。 ヤケ酒に1人酔い潰れていたところ、偶然居合わせた上司で支配人“桐葉李月”に介抱されるのだが。 実は彼、厄介な事に大の女嫌いで―― 元彼を忘れたいアラサー女と、女嫌いを克服したい35歳の拗らせ男が織りなす、恋か戦いの物語―――――――

処理中です...