自殺写真家

中釡 あゆむ

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第六章

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 この前までは春だと思っていたが、気付けばもう六月中旬まで来ている。雨が続く梅雨時、室内は湿気で滑りやすく、じめじめしていて照明はどこか暗い。 
 最近の菊は会社で雑用をやらされていた。悪口は絶えなかった。けれどそれはどれも真実のように思えてならず、肩身が狭く、居心地が悪い日々を毎日送っていた。 
 パソコンと向かい合いながら、記事をどういうキャッチコピーで売り込むかを考える。 


 しかし脳裏では、要島修のことばかり考えていた。あの時逃がしてしまったことを後悔していた。もう会えないかもしれない。自殺写真家への会い方はもちろん知らず、それどころか彼のことは名前以外何一つ知らないのだ。 


 ため息を零した。結局振り出しに戻り、期限も迫ってきていた。自殺写真家の記事は噂を適当に書くつもりだが、それは……子どもたちの探究心、好奇心に、火をつけないだろうか。 


 要島修――彼のことを思い出すと、胸が苦しくなった。色んな人の死を見ることがどれほど辛いことなのか、想像出来ない。彼の心は明らかに麻痺している。驚いた顔をして涙を流す表情が蘇った。 


 助けたいのに、助けられない。自殺を考える人々の苦しみを、簡単に止めることなんて出来やしない。闇は深海のように深く、心は確実に閉ざされているのだから。そのことを彼が一番わかっている顔だった。 


 だから、せめて、見届けたい。要島修自身気付いてないだろうが、きっとそう思っているに違いなかった。 


 不意に、机が微かに揺れる。横を見ると大量に資料が置かれ、菊と資料を見下ろす女性の顔が上にあった。ニヒル笑いを浮かべ、とても辛そうでいてわざとらしく彼女は振る舞い始める。 


「ごめんねえ、それまとめておいてくれない? 今日私体調悪くて」 


 菊は唖然として資料を見つめた。自分の顎から頭まである資料の数は、すぐには終わらない。 


「のろまを言い訳にちんたらしないでね。それ、一時間で片付けてちょうだい」 


 小さな笑い声が聞こえた。やだあ、意地悪ねえ、と楽しそうな野次まで聞こえてくる。 
 顔が真っ赤になった。菊は俯いた。それを彼女は頷いたと捉えたのか、離れていく。 
 笑い声はいつまでも消えない。実際数分後には誰も笑っていなかったのに、菊には笑い声が聞こえてきていた。鼻で笑う声、豪快に笑う声、密やかに笑う声、馬鹿みたいな野次、紛れる罵倒。 


 死にたくはならない。絶望もまだしていない。それでも慣れることはなかった。悲しみに麻痺はしなかった。毎日恥ずかしく、屈辱的なのに、菊の心はいつまでもだらだらと痛み続けるだけだ。 


 壮大な苦しみって、どんなのだろう。菊は目の前の資料を眺めながら思った。積み上げられた資料の数が、自分の痛みのように感じた。一ミリくらいの薄っぺらい痛み。どれほど積み重ねればそれは壮大と言えるのだろうか。 


 雨の音が聞こえる。わからないのなら、試せばいい。頭の裏側で囁かれた言葉に、菊は洗脳されていった。 


 仕事が終わり、電車に飛び乗って、帰路へつく。今日は少し早く帰れたからか、家に帰っても誰もいなかった。今日は作り置きしてくれていないらしく、それはつまり母からの、菊が晩ご飯を作って、という暗黙のメッセージだった。 
 仕方なく先にシャワーを浴びることにし、脱衣室で服を脱いで熱いシャワーを頭から被った。 


 僅かに雨で冷えた身体が徐々に火照っていく。菊は無邪気にシャワーへ向かって腕を伸ばし、閉じていた目を開けた。ちょうどライトの下にあるシャワーから溢れ出るお湯は金色に輝いて降り注いできていた。それがお湯だと思えず、太陽光が液体となって現れたかのように思えてしまう。 
 しばらくそうしていると耐えられず、俯いた。不意に、鏡の下のシャンプーやリンスが置かれた台の上に横たわったカミソリが目に入る。昼間の囁きが咄嗟に蘇った。 


 生唾を飲み込む。一気に気分は翳り、洗脳されつつあった意識が呼び戻される。脳内は白濁とし、考えることをやめ、手を伸ばしていた。 
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