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第三章
五
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瞑っていた目を開けた。暗闇の中で揺らいだ炎の影が天井で水みたいに揺れ、周囲を僅かに灯す。
横で男が欠伸をした。金髪の先端が赤く見える。青年は腕を伸ばし、男の頭へ振り下ろした。
「いてっ」
「寝ないでよ。で、してくれる?」
今日は男へ、逆に依頼に来ていた。
この間、依頼人が勝手に死んだ。駅のホームで飛び下り自殺をしたそうだ。けれどその場にいた人物に聞いたところ、女と揉み合っていたらしい。
だが、女が押したわけではないと証言されている。あくまで、自ら彼女が飛び降りたそうだ。
青年は彼女と前に会った時のことを思い出していた。彼女は強い復讐心に燃えていた。自分の死で世界を止めたいと言っていたはずだ。どうして写真に残さずに死んだのだろう。
それが気になり、調べてもらいたく、聡明な彼のところへ訪れたのだ。
「ま、別にいいけど。調べたあとどうする? 殺す?」
男はしてやったりの笑みを浮かべて問いかけた。青年は首を竦め、それは任せるよ、と告げる。
彼がどう殺すか思案をし始めたのを横目に、青年は向かいのパイプ椅子に腰をかけた。男は死体なら何でもいいらしい。事故でも他殺でも自殺でも、経緯はどうあれ死体は不動なき事実だ、と言っていたのを思い出す。
自殺写真家は元々彼がやっていた。他殺や事故を撮るのはタイミングが合わなければ出来ないため、彼は自殺写真家になったそうだ。
「秋は……死体愛好家なの?」
蝉の鳴き声だけがやけに大きく響く、夏の夕方。そんな風に彼に聞いたことがあった。風鈴が鳴き、鮮やかなオレンジ色が迫って来ている。自殺写真を撮りに行くついでに青年も着いていったのだ。
中年男性の死体が目の前にあった。主人を亡くした家は心なしか、血の気を失い、死体が横たわった畳には血が染み込み始めていた。
シャッターを切る音が虚しく届く。蝉の声さえ切り取ってしまいそうな、一枚の写真を青年は空想した。男はファインダーを覗き込みながら笑う。
「それまで動いていたものがピタッと止まるためにあらゆるものを排出する。血、体液、苦しみ、辛さ、切なさ、思い出、それから、魂。信じられるか? これ、もう動かないんだぜ。何も言わないんだよ、そりゃあ好きになるだろ」
青年は頷いた。人間はいつもお喋りだ。言わなくてもいいことまで喋る生き物。言葉がなければそれはそれで生活出来た筈なのに、様々な言葉を生み出し、時には言葉の凶器や核兵器までも生み出した。
窓の外を眺めると木々が揺れていた。喋らないものを愛する心に身に覚えがあり、死体にもう一度視線を投げかけた。
喋らないからこそ恐くなかった。死んだ中年男性が原始人みたいに無知になっていくのを想像しながら、青年は死体に歩み寄り、初めて人と手を繋ぐ。冷たく硬直していく感触に親近感が湧く。死体となら、友達になれそうな気がした。
絞め殺すか毒を盛るかで男が悩み始めたのを聞きながら、青年は首にぶら下げたカメラを手に取った。銃みたいに冷たいし重みがある。ファインダーを覗き込めば彼が戸惑う顔を見れる。さながら自衛隊になった気分だ。
ただ、こいつが打つのは弾ではない。この一瞬の映像を切り取った紙だ。自殺写真を撮り、送り付けることでそれは黙っていながら多くを伝えるメガフォンにもなり得るし、人々の心を破壊する爆弾にもなり得る。
なってよかった、と思う。この世には、言いたいことを言えない人間もいる。あるいは話を聞かない人間だっているし、心を無下にする輩もいる。それを伝えるための手段になれてよかった。そして、いつか僕も――。
男が早速支度に取り掛かろうと立ち上がった。青年も立ち上がり、今度来た時に報酬を渡すことを告げ、部屋を出た。
路地裏から出て、陽光を浴びる。地上を囲った電線が空に黒い筋を浮かべ、風で揺れる。人の血管みたいにしなやかに動く電線を眺めてから歩き出した。
群衆を抜け、商店街を歩き、道路の脇にある歩道を悠々と通る。どこを歩いても、孤独心は拭えない。けれど人々の顔には疲れが滲んでも、孤独心は見えないのだ。
青年は時折不思議に思う。自殺志願者や自分のような人間以外は、みんな、寂しさを抱えていないのだろうか。死ぬことを忘れ、自分は誰かのものだと信じて疑わず、あるいは支配した気持ちで過ごしているのだろうか。
願わくば、人々の頭を割って覗いてみたいと思う。自分と同じ構造をしているのか、頭蓋骨はどうだろう、脈を打つ早さなど確かめ、その僅かな違いが思考のズレなのかと確かめたい。
そして自分と同じ鼓動を見つけたとき、青年は初めて孤独心から引き離されるような気がした。
家に帰ると母がリビングで紅茶を飲んでいた。青年の姿を一瞥しただけで何も言わない。彼も黙って二階に上がり、暗室に入ってセーフライトを点けて閉じこもった。
久しぶりの休息のように感じられ、すぐに瞼が重くなる。赤くて静寂なこの部屋は、唯一青年が落ち着ける場所だ。自室にはない安らぎを覚える。この部屋には太陽の光がないという要因もきっとあるのだ。
自分の姿が無理やり浮き彫りにされることはないし、ここは宇宙だ。喧騒や太陽光、家からも切り離され、この部屋だけがぷかぷかとどこか果てしない暗闇へ流されている錯覚に陥る。
そうして彼は今日も眠りにつく。時間さえ営まない宇宙船の中で、ひっそりと息を沈めて。
横で男が欠伸をした。金髪の先端が赤く見える。青年は腕を伸ばし、男の頭へ振り下ろした。
「いてっ」
「寝ないでよ。で、してくれる?」
今日は男へ、逆に依頼に来ていた。
この間、依頼人が勝手に死んだ。駅のホームで飛び下り自殺をしたそうだ。けれどその場にいた人物に聞いたところ、女と揉み合っていたらしい。
だが、女が押したわけではないと証言されている。あくまで、自ら彼女が飛び降りたそうだ。
青年は彼女と前に会った時のことを思い出していた。彼女は強い復讐心に燃えていた。自分の死で世界を止めたいと言っていたはずだ。どうして写真に残さずに死んだのだろう。
それが気になり、調べてもらいたく、聡明な彼のところへ訪れたのだ。
「ま、別にいいけど。調べたあとどうする? 殺す?」
男はしてやったりの笑みを浮かべて問いかけた。青年は首を竦め、それは任せるよ、と告げる。
彼がどう殺すか思案をし始めたのを横目に、青年は向かいのパイプ椅子に腰をかけた。男は死体なら何でもいいらしい。事故でも他殺でも自殺でも、経緯はどうあれ死体は不動なき事実だ、と言っていたのを思い出す。
自殺写真家は元々彼がやっていた。他殺や事故を撮るのはタイミングが合わなければ出来ないため、彼は自殺写真家になったそうだ。
「秋は……死体愛好家なの?」
蝉の鳴き声だけがやけに大きく響く、夏の夕方。そんな風に彼に聞いたことがあった。風鈴が鳴き、鮮やかなオレンジ色が迫って来ている。自殺写真を撮りに行くついでに青年も着いていったのだ。
中年男性の死体が目の前にあった。主人を亡くした家は心なしか、血の気を失い、死体が横たわった畳には血が染み込み始めていた。
シャッターを切る音が虚しく届く。蝉の声さえ切り取ってしまいそうな、一枚の写真を青年は空想した。男はファインダーを覗き込みながら笑う。
「それまで動いていたものがピタッと止まるためにあらゆるものを排出する。血、体液、苦しみ、辛さ、切なさ、思い出、それから、魂。信じられるか? これ、もう動かないんだぜ。何も言わないんだよ、そりゃあ好きになるだろ」
青年は頷いた。人間はいつもお喋りだ。言わなくてもいいことまで喋る生き物。言葉がなければそれはそれで生活出来た筈なのに、様々な言葉を生み出し、時には言葉の凶器や核兵器までも生み出した。
窓の外を眺めると木々が揺れていた。喋らないものを愛する心に身に覚えがあり、死体にもう一度視線を投げかけた。
喋らないからこそ恐くなかった。死んだ中年男性が原始人みたいに無知になっていくのを想像しながら、青年は死体に歩み寄り、初めて人と手を繋ぐ。冷たく硬直していく感触に親近感が湧く。死体となら、友達になれそうな気がした。
絞め殺すか毒を盛るかで男が悩み始めたのを聞きながら、青年は首にぶら下げたカメラを手に取った。銃みたいに冷たいし重みがある。ファインダーを覗き込めば彼が戸惑う顔を見れる。さながら自衛隊になった気分だ。
ただ、こいつが打つのは弾ではない。この一瞬の映像を切り取った紙だ。自殺写真を撮り、送り付けることでそれは黙っていながら多くを伝えるメガフォンにもなり得るし、人々の心を破壊する爆弾にもなり得る。
なってよかった、と思う。この世には、言いたいことを言えない人間もいる。あるいは話を聞かない人間だっているし、心を無下にする輩もいる。それを伝えるための手段になれてよかった。そして、いつか僕も――。
男が早速支度に取り掛かろうと立ち上がった。青年も立ち上がり、今度来た時に報酬を渡すことを告げ、部屋を出た。
路地裏から出て、陽光を浴びる。地上を囲った電線が空に黒い筋を浮かべ、風で揺れる。人の血管みたいにしなやかに動く電線を眺めてから歩き出した。
群衆を抜け、商店街を歩き、道路の脇にある歩道を悠々と通る。どこを歩いても、孤独心は拭えない。けれど人々の顔には疲れが滲んでも、孤独心は見えないのだ。
青年は時折不思議に思う。自殺志願者や自分のような人間以外は、みんな、寂しさを抱えていないのだろうか。死ぬことを忘れ、自分は誰かのものだと信じて疑わず、あるいは支配した気持ちで過ごしているのだろうか。
願わくば、人々の頭を割って覗いてみたいと思う。自分と同じ構造をしているのか、頭蓋骨はどうだろう、脈を打つ早さなど確かめ、その僅かな違いが思考のズレなのかと確かめたい。
そして自分と同じ鼓動を見つけたとき、青年は初めて孤独心から引き離されるような気がした。
家に帰ると母がリビングで紅茶を飲んでいた。青年の姿を一瞥しただけで何も言わない。彼も黙って二階に上がり、暗室に入ってセーフライトを点けて閉じこもった。
久しぶりの休息のように感じられ、すぐに瞼が重くなる。赤くて静寂なこの部屋は、唯一青年が落ち着ける場所だ。自室にはない安らぎを覚える。この部屋には太陽の光がないという要因もきっとあるのだ。
自分の姿が無理やり浮き彫りにされることはないし、ここは宇宙だ。喧騒や太陽光、家からも切り離され、この部屋だけがぷかぷかとどこか果てしない暗闇へ流されている錯覚に陥る。
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